クレシーの戦い 26th.Aug.1346
クレシーの戦いは始まり、そしてイングランド軍の勝利に終わる。しかし年代記作家の主張は多様で、誰一人として実際に起きたことを完全に説明出来る者はいなかった。
その物語の冒頭。
戦いが始まるよりも、行進が始まるよりも前に、先ず互いの叫び声が丘に響いた。両軍は吠えるようにして互いに威嚇をし合う。イングランド軍は三回の掛け声を行ったという。
それから行進。最早角笛ではなく、トランペットとドラムの音が行進の合図となる。歩みを整え隊列を維持するのに十分な軽快で洗練されたルネサンス様式ではなく、行進開始を示すものとして用いられた。
ジェノヴァの傭兵隊が前に進む間、イングランド軍は十分準備された陣地から動かなかった。
最初に現れるのはジェノヴァ傭兵である。
彼らの隊長の一人オットーネ・ドーリアはジェノヴァの名家出身で、この家は高名な提督を何人か輩出していた。もう一人はカルロ・グリマルディ──つまりモナコ公シャルル1世である彼は、ギベリン党に属すドーリア家と敵対関係にあったジェノヴァ貴族だった。それぞれにフランス王と契約を交わしていたという。両者は以前モンフォール家との戦いでフランス王に雇われていた。このときに二つの都市を解囲したという成果が彼らへの信頼をフランス王に与えた。
ジェノヴァにおけるギベリン党とゲルフ党の対立は延々と続いていたが、ここではリグーリアの主導権を巡る有力貴族の派閥対立で、wikiにあるように派閥を移ることもざらにあった。
この長く得るものの無い対立関係に民衆──というより経済を牽引する富裕な商人層が不満を抱き、ジェノヴァで内訌があった。
ヴィッラーニの年代記によれば、1339年から1344年の間に、グリマルディ家もドーリア家も民衆の支持する元首シモン・ボッカネグラ(彼自身もそこそこ有力な家門だったようだが)によって、金銭と引き換えに追放されたという。しかしそれでもジェノヴァに戻ってこようとする貴族たちの連合に対して1345年1月11日、ボッカネグラ亡き後に擁立されたジョバンニ・ディ・ムルタは、民衆と共に彼ら貴族と対決した。1346年6月にはミラノ公ルキノ・ヴィスコンティの調停を受けて貴族たちはその郎党と共に改めて追放される。
かくて両者は再びクロスボウ傭兵を求めていたフランス王の招聘に応じ、カルロ・グリマルディはモナコに一旦帰還してジェノヴァとマントン辺りで争った後、1346年4月にフランス王宮へと赴く。5ヶ月超の期間契約で、一ヶ月につきフローリン金貨900枚が対価として支払われた。
その二人の貴族の私設船団の人員は合わせて少なくとも6000から多くて15000。少なく見積もっても金貨の数と比べて兵士の数はずっと多いように見える。ひとまずフローリン金貨1枚を6シリングと看做すとして、均等に分配したとしても一人頭半ペニーに満たない。
傭兵は大抵は平均的な職工かその半額程度、稼ぎの良いときには熟練工以上に給料を貰えたというが、これは14世紀中期以降のフィレンツェやシエナにおける莫大な傭兵コストに基づく査定だろうか。ホワイトカンパニーなど1000-5000人程度の規模の傭兵会社群は、ずっと多くを支払われた。
それではジェノヴァ傭兵の対価に等しいのは民兵だろうか。傭兵が主力になる前にフィレンツェで用いられていた民兵のコストは一般的な労働者と比べても低く、職人見習いにも劣ったという。彼ら民兵は職の無い外国人労働者や賎業のほかに居場所の無い下層民だった。ジェノヴァのクロスボウ傭兵が、貴族たちと共にジェノヴァを離れた郎党や、その後にニース周辺で雇用された庶民であることを考えると、彼らも同様の下層民か或いは貴族に従属する奴隷と大差なかっただろうか。
いずれにせよ彼らは訓練を受け、訓練を受けた小作農や日雇い労働者でしかないイングランドの弓兵と戦うことになる。
さて、両家のクロスボウ傭兵は当初は別々に行動する。
7月ごろ、カルロ・グリマルディはニースから、1隻200人乗り前後のガレー船団を率いて出発した。主要な船長は全て彼ら貴族の身内から選ばれており、他に副官が一人、残りは船員兼クロスボウ傭兵で構成される。彼らはドーバー海峡でイングランド船団との接触を狙うためだったが、遭遇する前に上陸されてしまい機会を逃した。そして彼らの傭兵部隊はノルマンディーに上陸後に解体され、殆どは各地域の守備隊に回され、カルロ・グリマルディと部隊の一部だけがフランス王に合流する。
一方のオットーネ・ドーリアはパリからフランス王と共に進軍した。彼らの部隊がクレシーで遭遇することになるクロスボウ傭兵の中心だった。
弓兵の優越性には、むしろこのときのジェノヴァ傭兵の弱さに理由が置かれる。
クロスボウを用いるジェノヴァの傭兵たちは疲れきっていたが、彼らの理に適った主張はアランソン伯によって罵倒され、無理矢理行軍をさせられていた。彼らは徒歩でクロスボウを担いで騎兵より前を歩かされていて、少し遅れたら馬に踏み潰された。
戦いのその日、彼らに与えられた休息はアンリ・ル・モワンヌらの偵察隊がイングランド軍の様子を説明する僅かな時間だけであり、そしてその後は急に訪れた嵐の中を休み無く行進して、夕暮れ近くに戦端が開かれると真っ先に前進を命令される。
彼らの身を守る大盾は、フランス軍の沢山の徴用兵士や輜重車と共にまだアブヴィルからの途上にあった。
ジェノヴァ傭兵たちが射程に入ったそのとき、フロサワールは雪のようにイングランド軍の矢が降り注いだと説明する。鍛錬を積んだジェノヴァ傭兵が、たとえ眩しい日差しが視界に入っていたとしても自身の射程を見紛うことは無いとして、その射程の優位性が湿ったクロスボウの弦のために失われていたことが主要な敗因とされる。
イングランドの矢が降り注いだのはほんの数分間で、輜重車からの補充がなければ彼らが普通備えていた2-4ダース程度の矢はすぐに尽きた。熟練した大弓兵は、クロスボウの三倍の速度──大体一分間に十二発発射出来たという。
ヴィッラーニは矢と共に大砲の弾が発射されたと記述する。
当時の記録として確かにその中に大砲がイングランド軍の補給品の中に含まれていた。このとき野砲という運用方法はまだ一般的ではないし、威力も貧弱で精度も悪いので、クレシーでの運用は大抵否定的に見られる。
当時の大砲は、重量20kg程度の鉄輪の付けられた木製の砲身から0.5-1kg程度の鉄球を打ち出すものだった。準備にとにかく手間がかかるため連発することは出来なかったし、構造上一日に数発が精々だったし、運用には火薬配合の適正な比率を知る技術者を必要とした。
隊長オットーネ・ドーリアが戦死し、カルロ・グリマルディが傷ついて、クロスボウ兵が壊走したのをきっかけに、アランソン伯旗下の騎士たちが馬を走らせる。
午後六時、暗闇に沈む夕日の下、騎士たちの騎兵突撃は敢行された。先行していたボヘミア王やエノー伯は合流していたが、ロレーヌ公を含む一部の軍勢はまだ戦場に辿り着いていなかった。撤退中のジェノヴァ傭兵は、功を焦ったアランソン伯によって馬に踏み潰されたとも、彼らを裏切り者と看做したフランス王またはアランソン伯の命令で殺されたとも言われる。
続く騎士と歩兵による血生臭い戦いは、聊かロマンチックに描かれる。
押し返されては再び結集して騎兵突撃を繰り返すフランスの騎士たち。アランソン伯の突撃で白兵戦に持ち込まれ、危うく倒れかけた黒太子を助け起こす騎士リチャード・フィッツアラン。エノー伯ジャンが叩き落したイングランドの旗を、どうにか取り返して再び掲げる騎士トーマス・ダニエル。息子シャルルが逃亡したのも知らぬまま、最前線で壮絶に死んだボヘミア王と彼の家臣たち。戦いの終幕、顔に矢傷を受けながらも決死の騎兵突撃を試みようとするフランス王と、それを諌めて撤退を促すエノー伯ジャン。全てが終わり、戦場に棄てられたフランスの守護聖人サンドニの旗オリフレイム。
死者は多かった。弓矢の間合いの突破は、統制の取れた騎兵突撃により達成し得たが、白兵戦の場面では戦術的劣勢のために殺戮された。
午後九時に戦いは決着したが、イングランド軍はまだ彼らの大きな戦果に気付かずにいた。追撃は禁止され、彼らはひとまず休息に入る。
真夜中、フランス王はクレシー北東のラブロワ城に逃れつく。その撤退に斉一な動きは無く、フランス軍は各方面へと散り散りになっていた。敗北に落胆し疲労していた彼らに対して、例のごとく王命を無視して追撃してきたウェールズ槍兵が襲い掛かったという。特にアブヴィルから連なるフランス軍の輜重車が狙われ、敗走者たちはその地位に関わらず殺された。
そこで飲み物を口にしていたフランス王は城主からこの場に留まることは危険であると伝えられ、休息もままならないまま再び駆けることになる。
フランス王がアミアンに辿り着いたのは8月27日の夜明けだった。




