停戦またはイングランドの勝利 Jul.1347-Oct.1347
7月26日にフランス軍はギネに着いたその翌日、カレーから8kmほど西に離れたサンガットに現れた。エドワード3世はフランス軍の到着に気付き、ダービー伯率いる数千の軍隊を派遣するが、彼らが到着するより前にフランス軍はこの辺りで最も高い丘の占拠を実行する。
サンガットから少し内陸に入ったところにある海抜100m程度の丘には二重の堀で囲われた見張り塔があり、そこに配された32人のイングランド弓兵がフランス軍の動向を伺いカレーへの連絡を送っていた。
戦術的かつ戦略的にも重要な塔へと、元々トゥルネーの国境守備隊だった1500人のフランス軍兵士は急な坂を鶴嘴や手斧を使って登っていく。イングランド弓兵は彼らの教則通り矢を打ち下ろすが、多くの死者を出しながらもフランス軍は頂上へと到達する。塔は攻略され、弓兵は全滅した。
これはこのときのフランス軍にとって大きな勝利として受け止められる。高所の優位性だけでなく、この丘の高所からフランス軍はカレーの街とそれを包囲するイングランド軍の様子を見て取ることが出来た。
アム川を挟んで先にあるイングランド軍の陣地は柵と塹壕と見張り塔に囲われていて、海沿いには兵士たちの乗ったイングランドの船団が並ぶ。
カレー近郊の湿地帯に伸びる曲がりくねったアム川にはニウレという地点に一本だけ橋だけが架かっていて、到着したダービー伯は丘の上に布陣するフランス軍に対して、この背後で待ち構えていた。
フランス軍はニウレ橋の突破をしようとせず、ただ一部で小競り合いをしていた。
夕方になって、他にカレーへと繋がる道を探すために派遣されていたエドゥアール・ド・ボージュらは成果無く帰還する。イングランド軍は今、フランス軍の規模より大きかった。彼らの包囲は解囲に対して万全の支度をしていて、突破口はなかった。
フランス王は一つの決断を下す。
この日、カレーではフランス軍の到着に気付くと共に多くの者が市壁に登り、半時間ほどトランペットと太鼓で囃し立てて彼らの無事を伝えた。そしてそこがまだフランス領であることは示すように、彼らの旗は力強く掲げられる。
夜になると市壁の上で大きな篝火が焚かれ、人々はフランス軍による解囲を期待した。
28日、エドワード3世の下にフランス王の使者として2人の枢機卿が訪れる。
タスカルム枢機卿アンニーバレとジョヴァンニ・パオロ司祭枢機卿ステーファノは、アヴィニョン虜囚中の法皇によって派遣され、英仏両者の和平に奔走していた。彼らはダービー伯から橋を渡る許可を与えられ、その伝言はエドワード3世に届けられた。そしてエドワード3世の合意によって、フランス王の提案した英仏和平交渉は開始される。
会議のための一時的な停戦は宣言され、互いの戦闘行為は中断された。
29日、互いの軍事境界線上に大きなテントが2つ設置され、ノーサンプトン伯、ダービー伯、ブルボン公、アテネ公ら両軍の派遣使節に加えてフランドル側からユーリヒ伯も訪れる。
フランス側の要求はカレーの解放と市民の救済であり、そのためにイングランドに対してエドワード3世に彼の祖父エドワード1世の遺領を認める姿勢を取った。つまりアキテーヌ地方の大半及びピカルディ、ノルマンディー、ブルターニュの一部が提示される。
しかしイングランド側の使者は受け入れない。すでにエドワード3世はアキテーヌの支配地域を祖父のときより大きな範囲に広げていた。何より包囲に10ヶ月近く掛け、手に入ったも同然のカレーをみすみす手放すわけには行かなかった。
その日の夜、三日続いていたカレーからの最後の合図は小さな篝火だった。三日間続いた騒々しい鳴り物も無くなる。彼らは最早フランス軍を待つ余裕もなくなっていた。多分、犬猫馬だけでなく鼠やなめし革も食料として費やされていた。勿論、その苦しさにも経済的な格差はあっただろうが。
和平交渉四日目の7月31日、互いの交渉の場に新たなフランスの使者たる四人の騎士が現れる。騎士ウスターシュ・ド・リブモンを代表とする彼らは、互いの勝敗を決めるために決戦することを要求した。互いの軍の騎士から4人ずつ選び出し、全8人の共同会議によって場所と時間を決めて戦うのだという。
8月1日の夕方、議論は必要なくなった。このときカレーの守備隊は松明を掲げ、降伏のしるしに彼らの旗を外堀に棄てたために。
フランス側の面目は潰れ、交渉は破談になる。その夜には命令が降り、フランス軍の宿営は彼ら自身の手で破壊された。
翌日の夜明け、打ち棄てられた輜重と煙の上がる宿営地はカレーの市壁から見えた。
フランス軍は撤退した。
8月3日、フランス軍が姿を消したことからカレー市民同士の議論も終わった。カレーの市壁の頂上にジャン・ド・ヴィエンヌは立って、イングランド軍の騎士道的な騎士ウォルター・マーニーに交渉を求めた。
カレー包囲戦の主幹となる儀式的なパフォーマンスを描くフロサワールによれば、ド・ヴィエンヌが騎士ウォルター・マーニーの同情を誘うことによって皆殺しの提案はエドワード3世からも放棄される。そしてエドワード3世の要求する6人の裕福な市民を除いて、カレーの市民は彼らの命と一枚の衣服以外の全てを置いて街から追放されることになる。
ユスターシュ・ド・サンピエール、ジャン・デール、ヴィサント兄弟ら裕福な6人は自ら立候補し、ポニーに乗るジャン・ド・ヴィエンヌの先導で市門の外に出て、エドワード3世に跪く。
王妃フィリッパの嘆願の後、何よりもイングランド貴族たちの猛反対を受けてエドワード3世は、持論を曲げる。この儀式の中で、飢え死にしたカレー市民や見張り塔で皆殺しにされたイングランド兵は看過された。
金持ち6人の命は無事救われ、王妃の保護を受けて各地に逃れた。そのリーダーたるユスターシュ・ド・サンピエールは、フランス王の手厚い配慮によって特別な補償が与えられ、サントメールで新たに要職に就いたという。
ド・ヴィエンヌを含む15人の騎士たちは身代金のために全員捕虜にされた。そして先の6人を除く商人たちの一部も同様にして捕虜になったかも知れない。
残された街の民衆は、イングランド側から食事と飲み物が与えられ、然る後に全員追放された。彼らは着の身着のまま南のギネの街の方へ歩いていく。他所の都市共同体への加入をはじめフランス王から彼らへの社会的・金銭的補償は断続的に行われた。
8月4日、市門の鍵を受け取ったイングランド軍は、誰も居なくなったカレーへと行進する。掠奪品は兵士に分配され、主要な軍隊は然る後に解散した。ただしここから黒太子やウォリック伯、ダービー伯の率いる分遣隊はフランドル国境付近の襲撃を推し進める。カレー領有への意欲からして、イングランドには明確にフランドルに協力する意志があった。
9月初頭、ウォリック伯がサントメールの守備隊相手に180人を失って敗走し、占有地確定のための最終攻勢はそこで止まる。
対して8月7日にエスダンで軍隊を解散したフランス王は、8月18日にポンサンマクサンスにまで辿り着いてから9月1日に軍隊を再び召集する。その召集は遅々として進まず、10月1日に期限は延期された。
またジャン・マラン率いる船団が、イングランド軍の輸送船団10隻を鹵獲したが、戦局は左右しなかった。金銭的事情は統括的な軍事行動を不可能させ、局地的な勝利は無意味となる。
9月、その情勢の中、ナポリ枢機卿とクレルモン枢機卿による和平仲介が行われた。
9月28日には両側で停戦の合意が為され、囚人たちは適切に管理することが約束される。締結日時点におけるイングランドの占領地は領有権の承認なしに維持されることになった。
10月12日、エドワード3世はイングランドへと帰還する。勝利の凱旋は民衆と議会から歓迎され、戦費の浪費とそれに伴う徴発や増税は寛大に受け止められた。記念式典としてトーナメントが開催されたり、黒死病で死ぬことが定められていた王子が生まれたり、あとは降誕祭の仮装大会のために168個の仮面を注文し、彼自身は孔雀の羽を刺繍した緑のローブを着ていた。
また募られた36人の豊かなイングランド商人たちにはカレーの良い邸宅を宛がい、300人を超える他の移民者たちには残された建物が与えられた。
カレーには守備兵が多数配置され、リスバン砦を含む防御機構は年々強化されていき、イングランドの町としてこの後2世紀に渡って維持される。カレーの富豪から徴収される羊毛輸出税は、借入金という形で活用され、エドワード3世時代に渡ってその後の戦費の2割程度を占めた。
それから1年も待たず、1348年6月から7月頃にアキテーヌで小競り合いが発生し、短い平和は終わりを告げる。




