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状況の悪化 Late Aug.1346

 8月16日から8月21日まで、両軍はソンム川へと向かって進軍する。イングランド軍は平均一日24km。対するフランス軍は二日遅れで出発して一日平均40km。

 まず前者は急いでいたにも拘らず、むしろ平凡な速度しか出ていなかった。

 急ぐために落伍者や輜重車を置いて行こうとした結果、物資不足のために進軍が滞ってしまったのである。兵士たちは行軍路から外れて馬の飼い葉を捜し求めたという。

 黒太子の軍勢は特に遅れた。恐らく彼に任された兵士の多すぎる数が原因で。そうして彼はエドワード3世から注意される羽目になった。

 落伍者はフランスの民衆によって襲撃を受けることがあり、これに対してイングランド軍は救援及び報復としての放火を行っている。

 軍の主力もソンム川が間近に迫った21日以降には行軍速度を落としたから、彼らは追いつくことが出来た。


 物資不足による障害は、元々その軍隊が補給に依存していたことを前提にする。中世の戦争においても補給は必要だった。

 食料品の輸送はいくつかの希少な図画にも残されている。軍隊で補給が軽視されているのではなくて、前大戦時代のものの見方において補給の在り方をただただ軽視しているだけで、何時の時代にもごく自然に、そして大抵の場合不十分な形で存在していた。

 最も優先される補給物資は飲み物と食べ物である。飲み物は彼らの故郷のごく一般的な飲み物と同じエールの樽か、当時はイングランド領だったガスコーニュから輸送されたワイン樽。ホップはまだドイツから輸入されておらず、イングランドの飲み物が大抵そうであるように温かった。ときには大麦や麦芽そのものが輸送されることもあったという。主に駐屯地や守備兵に向けて。

 食べ物の一つはイングランド東部から届いた小麦粉。製粉は輸送のために各地のシェリフから集められた段階で行われ、樽に詰められた。その後、船でヨークシャーにある幾つかの物資集積地点に集められてから海峡を渡る。13世紀にはまだ燕麦パンやライ麦パンが食べられていたのだが、14世紀中頃から少しずつ小麦に移行していたようだ。ブリテン島においてはウェールズやスコットランドを除いて。

 もう一つは豆類で、こちらはスープにして飲まれた。特にそら豆は貧しい人たちの食べ物だったという。

 いずれの食事と飲料は有償で配布される。補給物資が減ると配布価格は何倍にも高騰した。他にも肉や魚、チーズが輸送されていたのだが、これらは勿論高価で、その数量も穀物と比べると少なかった。

 兵士たちは食べ物が尽きればそれを捜し求めて彷徨い歩き、飲み物が尽きれば川の水を飲み感染症になって苦しんだという。

 それだけでない。他にも補給として鎖帷子を運び、弓弦と矢を運び、食器類を運んだ。馬のための蹄鉄、1ブッシェルの小麦粉を測る量秤とパンを焼くためのパン竈も忘れてはならない。

 馬の食料は燕麦或いは豆から作られたホースブレッドと呼ばれるパンで、隊列を乱す上に毒を食べる危険もある道草は適切でなかった。

 いずれも王宮の担当官の命令に沿って各地域のシェリフがかき集めてきたものであり、遠征開始時には軍隊の輸送と共にポーツマス港から海路を使って輸送された。陸揚げされると、そこから輸送車に移し変えて運ばれる。輸送車を引くのは馬だが、ときには100ポンドを超えることもある軍馬と違って荷駄馬は安い。


 物資補給は掠奪には依存しない。勿論、完全には、という断りは入るが。

 戦利品の掠奪にはむしろ貴族の利益が関わる。王と貴族の間でその配分が定められていた。北フランスの蹂躙によって山ほどの掠奪品を得たという伝説は、怨嗟の声を上げるフランスと同様イングランドでも受け継がれる。諸侯たちは規定通り掠奪品の半分を王に分け前として与え、残った財産によって多くの虚栄的な城を建造した。

 また王は、現行の賃労働に基づく兵制による膨大な戦費の補填──それでも支払いは遅延したようだが──のほか、帰国後には早速その勝利の祝いに派手なトーナメントを開催し、1350年にはウィンザー城に彼自身がイングランドの守護聖人とした聖ジョージの教会を建てたりもする。


 では兵士たちはどのような利益を得たのか。

 14世紀中頃のイングランド軍は、前述のように国王から要請を受けたイングランドのシェリフか領主が、規定通りの人数になるように都市や村落に募集をかける。募集に応じる彼らは一般的に市民とか小作農であり、地方だと普通は弓兵として採用される。イングランド南西部のように裕福な地域だと騎兵或いは弓騎兵としての雇用が多く要請された。

 中には投獄中の犯罪者も含まれ、彼らは軍務に就いて生還することで許しを得られた。募集数に満たないとき利用されたのだろう。いずれも訓練を受け、武器と衣服が提供される。これらは諸地域のシェリフが徴発したもので、集められた武器はロンドン塔に保管された。対価は先に支払われることもあったが、後回しにされることもあった。

 この王の軍隊を契約によって運用するのが貴族の指揮官たちである。軍隊の中には騎士も従士も含まれる。彼らの場合は封建的な従属に基づいた。

 兵士に支払われる日給はまちまちだが、大体弓騎兵が5ペニーから6ペニーで、歩兵は3ペニー、ウェールズ槍歩兵が1,2ペニー程度を受け取る。この価格は召集された地域によって異なる、つまりシェリフや領主が差額を利益にすることが出来た。

 あと騎士階級の日給は兵士よりずっと多い。また貴族の見返りにはもっと色々あるのだが関係ないので省く。


 物価は変動するものだから、ある一時期の価格を百年戦争全体に適用することは出来ない。ただ穀物価格のデータを見ると大雑把に見積もって1320年以降、低下傾向にあった。技術による生産量の向上は勿論あり、三圃制がイングランド全域に広まったのもこの時期だったというが、基本的には社会の状態に焦点が当てられる。

 確かに黒死病以降の労働人口が大きく減った。主要な死者は村落ではなく汚染された都市部の貧困層に多く、既に起こっていた変化に大きなきっかけを与えたというが、イングランドの場合は1347年に最初の流行が訪れたので今の所は重要でない。

 この頃、地代の上昇や土地不足が招いた貧窮は世帯維持を困難にし、少子化の傾向を表していた。農村においては貧富の差が顕著になって、農地の大規模化は進んだ。これが穀物需要を引き下げるようになり、また人口減のために労働単価は緩やかな上昇線を描く。土地を放棄した農民が賃労働者に移行したから、問題は40年代になるまで先送りにされた。そうして黒死病発生後になってから国家は労働単価抑制に躍起となったが良い対策は無く、上昇傾向は16世紀まで続いた。


 1340年代における実際の物価は大体明らかになっている。

 例えばピアーズの夢に出てくる1ガロン半ペニーの安物ビールと1ガロン4ペニーの上物ビールは著作者の年代である1380年頃のもので、それより40年前は資料によると平均的なビールは1ガロン3/4から1(3/4)ペニー程度だった。

 またクローズロールによれば、小麦は大体1kg5-6ペニーで、大麦はその2/3、豆類もそれと同程度。そして燕麦は1kg2ペニー強。加工の費用を加えるともう少し増えるだろうか。管理が適正ならば、粉挽きのときに雑穀や砂を混ぜて量の水増しをされることも、パン作りのときに少ない粉で多くのパンを作ることも無かっただろう。

 ところでそれなりの金額を食事に取られる状態で、兵士の日給はまともな稼ぎになったのか。当時のイングランドの賃金労働者だが、農家の使用人については年に20シリング、建築業については(内容に左右されるが)平均的には日給3-4ペニー、見習いだと1ペニー強だったようで、熟練者だともう少し上になる。それとは別に橋の再建に携わった技術者には、より多くの賃金が支払われた。


 さて、話を戻すが、後者のフランス軍の追撃は異常な速度である。このときフィリップ6世が先駆けさせた騎士グデマー・デュ・フェイの位置と符合させるべきだろうか。かの騎士は6000人の兵士を引き連れ、尚且つ王命によって諸地域から戦力を引き抜きつつ進軍していた。

 歩兵も居るし、まさかギャロップで駆けたわけではなく、彼の軍勢は二日も遅れずに出発したと見るのが無難だろうか。そもそも一日の遅れの筈が、パリでのパフォーマンスによって二日の遅れになったのだから。少なくともフィリップ6世が到着していたとは見ない。


 8月21日から、イングランド軍はソンム川の渡河地点の捜索を始めていた。多くの橋は地元の守備隊によって落とされていて、重い防備の橋だけが残されていたが、まずは強引な突破が試みられた。

 突破できる橋を探すように命じられたのはジョフロワ・ダルクールとウォリック伯トーマス・ド・ボーチャンプ。今度はセーヌのときとは逆に、ソンム河口を目指して降りながら。

 8月22日に駐屯地エーレーヌを出発した偵察隊だが、先ずピキニー橋はアミアンでソンム川を渡ったフランス軍の位置に程近く、選択肢から省かれた。

 次いで最も近いロンプレ橋やロン橋でも突破に失敗し、最後に残ったポンレミ橋に向かったのだが、ここにはボヘミア王とエノー伯率いる軍勢が待ち構えていた。ここより下流には城塞都市アヴヴィルがあり、そこから河口まで橋は無い。

 小競り合いは発生し、橋の戦いは再びネガティヴな結果を齎した。それまで何度か使った渡河による急襲戦術は行われない。イングランド軍は死傷者を出して撤退する。


 8月23日、彼らの後方オワーズモンにて編成中のフランス軍の一隊に対して、イングランド軍の騎兵突撃が行われた。それ自体は古臭く時代遅れの戦術である。しかし百年戦争より少し前のハリドンヒルで彼ら自身が馬から降りて戦っていたにも関わらず、完全に消え去ったわけではなかった。

 つまりこのとき行われた不意打ちとしての──恐らく後方または側面への急襲という手段と、もう一つは戦いがほぼ終息してから、携帯可能な馬防杭の妨害なしに攻撃できる追撃戦のときに行われた。

 フランスの方は、彼らにも騎兵が密集した歩兵に弱いという特徴は知られていたが、まだ騎兵に固執していた。そうしてクレシーの敗北の後になって迷走しながらも改良と対策が少しずつ加えられていく。プレートアーマーを着た重騎兵は廃れ、彼ら自身も馬から降りて戦うことが多くなった。

 プレートアーマーは転ぶと起き上がれないほど重いというがその重量は30kgだったとも、酷くて80kgだったとも言われる。前者ならば成人男子にとっては大した重さではない。一説には図版に残っているように乗馬も一人で出来たともいわれるが、馬に乗ろうとしつつ婦人に挨拶するそれに信憑性を持たせるべきか怪しい。一人ひとりの身体に合わせて作られるには、彼らの一財産である軍馬に匹敵するコストが必要だった。同様に沼地で身動きが取れなくなったという話も騎兵に限ったことではなく、弓兵と共にアジャンクールでの混乱と大勝利に一役買ったという。

 結果としてオワーズモンに配備されていたフランス軍は散り散りとなった。ソンム川沿いから離れてここを攻撃したのは陽動もしくは後顧の憂いを断つ目的と見るべきだろうが、しかし状況の改善には至らない。そうこうしているうちにフランス軍の主力もソンム川を渡り直し、逃げ場の無い彼らに接近を始めていた。


 それと同じ頃、フランドル軍は危機に陥っていた。

 8月24日、彼らはベテューヌを包囲していて、まだイープルから30kmも離れていなかった。いつまで経っても落とせない城塞都市を前にして、彼らの出身地毎に意見が分かれ、彼ら同士でのいざこざが戦いに発展しつつあったのだ。

 撤退するか、包囲を維持してイングランド軍を待つか。

 ベテューヌの指揮官ゴドフロワ・ダンヌカンは何度も夜襲を行い、フランドル軍の士気は次第に落ちていった。結果、包囲は放棄される。攻城兵器は燃やされ、フランドル軍は撤退を開始した。

 こうしてイングランド軍が知らぬ間に、両軍が合流してフランス軍と相対する戦略的構想は潰えることになる。

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