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パリの決闘 Beg-Mid Aug.1346

 8月2日、イングランド軍がリジューでアヴィニョンの使者からの和平打診を受けていた頃、フィリップ6世率いるフランス軍がルーアンに結集していた。

 互いの距離は65km。陪臣召集令によってかき集められた万単位の平民がフランス軍の主力で、このほかに騎兵とジェノヴァ傭兵がいた。

 ただし総戦力ではない。各地の守備兵のほか、まだガスコーニュでの戦役が続いていた。4月から始められていたエギュイヨンの包囲戦は、フランスの王太子ジャンが4万の軍勢を率いて担当していたが、攻め落とせる気配は無かった。


 さて、迫り来るイングランド軍に対してフィリップ6世はセーヌ川を渡河し、川沿いに兵をゆっくり進めていたが、その計画は不意に取り止められる。そうしてルーアンに取って返すと、セーヌ川に掛かる橋を壊しながらパリに向かって進み出した。

 この変心については、百年戦争勃発時からイングランドとの同盟を組んでいたフランドル軍の動向が原因だとしている。


 フランドルとイングランドの連携は、6月にイングランドが目標をノルマンディーに決定したときに提案された。しかし、当時のフランドル伯ルイ1世はフランス王の家臣で、彼はいまやフランス軍に加わっている。

 このときの策略はイングランド王とフランドルの三つの中心都市(イープル、ヘント、ブリュージュ)の間で合意された。事実上軍隊を指揮するのは、イングランドから派遣された騎士ヒュー・ヘイスティングスとほか数名の騎士で、これに従うのはロングボウ兵500と、フランドル各地の郷士たちである。8月2日にイープルを出発した彼らは、各地で町の守備隊と戦いながら非常に遅い速度でフランス王領に侵入する。

 この情報によって、両軍の合流を優先してフランス軍が無視されることを避けるために多くの橋は落とされたのだった。


 イングランド軍は、ジョフロワの兄ジャン・ダルクールによって厳しく防御されていたルーアンを敢えて攻めなかった。

 8月7日、彼らはジョフロワ・ダルクールの先導で、ヌーブールとガイヨンを経由し、セーヌ川沿いに下ってエルブフへと辿り着く。が、橋は落とされていて渡河出来ない。船団に助力を請おうにも、ハンティンドン伯はイングランドへ掠奪品と捕虜を送り届けているところだった。騎士トーマス・ホランドは水際で雄叫びを上げるが、今回は無意味だった。イングランド軍は再びセーヌ川沿いを遡上する。

 セーヌに残された橋は五つ。ヴェルノン、ムランの橋付近には要塞が有り、ラルシュとマントの橋にはフランス王の軍勢の一部が配されていた。それだけでなくセーヌ対岸では、パリに向かうフランス軍が殆ど同じような速度で尾行していた。


 8月9日、ラルシュ橋を戦わずに諦めてヴェルノンへと向かう途中、ガイヨン城の戦いで、リチャード・タルボット男爵と騎士トーマス・ホランドは共に負傷する。しかし彼らは従軍し続けた。

 そしてフィリップ6世はこの日の前後、二つの提案をエドワード3世に送り届けていた。一つはヴァロワ家とプランタジネット家間の結婚──つまり和平の提案であり、もう一つは決闘の挑戦状だった。

 決闘は当時の流行だった馬上槍試合。エドワード3世は1337年の戴冠式以来、適当な祭典があればそれに託けて開催していて、何日も続く饗宴での浪費のために愚かな王とも批判されている。彼自身が戦いに臨んだことはなかったようだが、息子の黒太子は参加することがあり、このときに黒い鎧を着ていたという噂があった。

 時代毎に馬上槍試合にも多少の変遷はある。この頃は、バケツ兜かバシネットをかぶりカイトシールドを携え、アヴェンテイルやシュールコーを着て戦いに臨んだ。フルプレートには未だほんの少しだけ早い。盾に弾かれやすくかつ鎧を貫通せずに相手を落馬させるのに有効な王冠状に尖った槍が採用されていたが、壊れやすい性質はなかった。

 トーナメントは百年戦争中にも行われたが、国境を越えて試合をするのは大体停戦中である。そしてむしろ休戦や和解の祭典という形で積極的に利用された。戦時中においては1356年の戦役における30人の戦いが例外として挙げられるが、ホイジンガが書くように戦略上の意義が全く無い上にルールも適切でない殺し合いの見世物だった。

 この決闘が生むものも、両陣営の期待に沿ったものとはなりえなかっただろう。しかしエドワード3世が表向き決闘に応じる素振りを見せたことは、イングランド軍にとって大きな機会になった。フィリップ6世はイングランド軍に対する追跡を打ち切って、決闘の場であるパリ南部へと向かったのだ。

 事実関係に関わらず、少なくともそう見ることは出来た。


 翌日、イングランド軍はヴェルノン橋に挑戦する。しかし近郊のロングヴィル城は攻略したものの、ヴェルノンを攻め落とすことは出来なかった。

 次のマントは突破困難と見て素通りし、11日に最後の橋ムラン=アン=イヴリーヌへと辿り着く。この近く、セーヌ川から12マイル離れたラ=ロッシュ=ギヨン城にまだ邸宅は無く、切り詰められた石灰岩の崖の上にある円塔型のドンジョンに守備兵が配されていた。

 攻略すべきかどうかというときにウォリック伯とノーサンプトン伯の軍勢が先陣となって突っ込んでいく。だが、橋は対岸近くの辺りで破壊されていて、橋上の彼らは橋の楼門内に隠れていたクロスボウ兵の良い的となった。何人かの騎士が倒れ、フランスの守備隊から嘲笑と罵倒を浴びせられながらイングランド軍は後退する。

 橋は越えられなかったが、数名の騎士が手漕ぎ舟で以って川を渡った。騎士ロバート・フェラーズたちの冒険先は、ラ=ロッシュ=ギヨン城。彼はさも軍の司令官といった態度で城の守備兵に降伏を要求し、それは受け入れられた。そして城を手に入れる代わりに彼は身代金を受け取ると、さっさと川を渡って帰ってしまった。

 こうして渡河する場所を見つけられずにイングランド軍は川沿いを遡上し続ける。


 しかし未だイングランド軍には手があった。セーヌを遡ってパリへ向かうのだ。セーヌ最後の橋がその近郊ポワシーにあり、そしてフィリップ6世と彼の大軍勢が待っていた。

 それはつまりフィリップ6世の思惑通りでもある。

 8月12日、フィリップ6世はパリに居た。近郊の住人の受け入れを進め、自らは出征の準備をしていた。パリの市民の代表は彼の下を訪れて、パリに留まってほしいと懇願するが、彼はサン=ドニに向けて進軍して諸侯たちと合流し、イングランド軍と戦うつもりであると言って断った。

 フロサワールの記述とは裏腹にパリ市民の不安は消えず、彼らは彼ら自身でパリの防備を固め始める。バリケードと投石用の石礫が準備され、郊外の地域は放棄された。ボヘミア王はサン=ドニから呼び戻され、彼の軍勢500と共にパリの警備を受け持つことになった。

 その一方でフィリップ6世はまだ架かっていたポワシーの橋を破壊する決断をする。


 8月13日、イングランド軍はポワシーに辿り着いた。橋は即興で壊されたのか、まだ橋桁の残っている状態だった。とはいえ先のムランのように守備兵も置かれていて、強引な突破は無謀でしかない。

 しかし今度は手漕ぎ舟が良い意味で役に立った。渡河を果たした一部の兵士たちが守備兵の撃退に成功したのだ。さらに都合良く居た軍内の大工が──輜重車を修理する車大工のように、必要な人材として行軍していた彼らが、橋の修理に取り掛かる。60フィートの木材を桁に固定する作業には一日と掛からなかった。

 フィリップ6世はその日に渡河の情報を得て、妨害させるために軍勢の一部を派遣する。交戦はその日か翌日に起こり、ノーサンプトン伯によってフランス軍の先遣隊1200は撃破され、200人から500人が殺された。

 8月14日、修復された橋で十分な通行が可能になるが、先行する偵察隊を除けばまだ殆どの軍勢が対岸に残っている。エドワード3世はフランス軍の主力を引き止めるために、黒太子を陽動に送った。

 パリ南西に向かった黒太子は近郊を掠奪し、炎を放つ。この暴虐に対してフィリップ6世は二回目の挑戦状を送った。

 今度は儀式的かつ平和的な決闘ではなく、決戦の提案である。場所と日にちを一方的に指定し──パリの北もしくは南、8月17日から22日までの間──、軍本営が設営されたばかりのサン=ドニを後にする。


 8月15日、聖母マリアの昇天日に血は流れなかった。エドワード3世の掠奪禁止令は、兵士たちの信心によって守られたようだ。ろくに信心もないウェールズ人をも含めて。荘厳な祭礼が両陣営で行われた。一方でイングランド軍の大工たちは汗を流して橋の修復を進める。

 フィリップ6世は街の建物のひさしを外させ、彼の軍隊をパリ南の城壁へと導いた。彼が提案した決戦の場所であるパリの南に布陣するためだ。


 8月16日、イングランド軍はセーヌ川を渡ると、直したばかりの橋を叩き壊して予定通り北へと去った。エドワード3世はある程度距離をとってから、パリ南で待ち呆けているフィリップ6世に対して、三日間待ってやっただの橋を壊したのが悪いだのと図々しい手紙を送り、自身の軍営にばら撒いた。

 対するフィリップ6世はその翌日になって事態に気付き、パリの民衆を前にして決戦の挑戦を反故にしたエドワード3世は卑怯者であると煽り立てる。彼はエギュイヨンで包囲を続けていた王太子に撤退と合流を要請し、さらにイングランド軍に追いつくために足の遅い徴用兵をルーアンで解散させた。

 フランドル軍との合流を目指すイングランド軍と、それを追うフランス軍の競争が始まった。

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