6. ユフィとハル(ラハルト視点)
自分がどこを歩いているのかさえ分からぬまま、ラハルトは道を進んでいた。
ロウェルと対峙したあの日以来、記憶回路に異常でも生じたのか、ラハルトの記憶はかなりの部分が断絶していた。
ある日、ふと我に返れば宿屋の一室に独り座っており、苦痛に満ちた眠りから覚めれば濡れた森の中で震えている。
だが、気には留めなかった。どうせ死ぬ日も遠くない身だ。記憶が一部抜け落ちようが、行く当てもなく彷徨おうが、何の問題があるというのか。
半ば消失した記憶と共に、当てもなく歩き続けてどれほど経っただろうか。装飾品を売って工面した旅費さえも底をつき、ラハルトに残されたのは腐りゆく肉体だけだった。
幸か不幸か、数日前から体の痛みを感じなくなっていた。霞む視界の向こうに、深く濃い森が見える。
ここならば、独り朽ちていっても誰にも迷惑はかかるまい。この森に棲む動植物には申し訳ないが、死んで償えるというのなら償うつもりだ、どうか許してほしい。
体が重い。眠い。生の灯火が消えかけているのを感じた。
ラハルトは生い茂る森の道を歩いていた。だが、いつの間にか、よく整えられた舗装路が現れた。
最初は錯覚だと思った。だが、違った。均一に踏み固められた道は、彼をある村へと誘っていた。
霞む視界の中に、民家が一つ、また一つと入り始める。煉瓦で造られた堅牢な家の庭には色とりどりの花が咲き乱れ、通りには柔らかく甘い香りが漂っていた。
清潔な通り、大きくはないが頑丈に造られた家々。低い垣根の向こうで、白い犬が尾を振っている。
ラハルトは、視界に映る風景を呆然と眺めていた。
長引く戦争により、辺境はもちろん王都の街並みでさえ補修が間に合わず、荒れ果てて久しい。これほどまでに清浄な街並みは、王城の付近でしかお目にかかれないはずだ。
ここは、どこなのだろうか。
もしや自分はすでに死んでおり、ここは死者の世界なのではないか。
(……そんなはずはない)
たとえ自分が死んだとしても、数多の人間を殺めてきた自分が、これほど美しい楽園に来られるはずがない。
ここに留まることが許されるのは、ユフィネルのように清らかな心を持つ、優しい人だけだ。
ならば、これは彼が見ている幻想に違いない。死の間際に、彼が望むものを見ているだけなのだ。
降り始めた雨が、彼の推測こそが現実だと言わんばかりに冷たく頬を打った。体に感覚はないはずなのに、降りしきる雨はあまりにも冷たく身に沁みた。
ふらり、ふらり。
どこかも分からぬ道を、幻想に縋りながら歩いた。誰かが自分に駆け寄ってくるような錯覚がした。いや、錯覚ではない。
真っ先に視界に入ったのは、闇を追い払うかのように鮮やかに燃える紅い髪。清々しい夏の空色の瞳が、彼を捉えた。
「私は魔女リベリカの弟子のユフィです」
虚像が、ユフィネルの声で彼女の名を口にした。二年ぶりに聞く声なのに、つい昨日聞いたかのように鮮明だった。実に都合のいい虚像だ。
彼に歩み寄り、言葉をかけていた虚像が、口を噤んだ。なぜそれ以上語らないのか。ラハルトが不自由な目を瞬かせた。次第に鮮明になる視線の中に、驚愕に満ちた表情のユフィネルが映った。
刹那、息が止まった。
二年ぶりに見る彼女は、彼の記憶の中にある少女とは全く違っていた。
小柄な背丈はそのままであったが、あの頃のような儚い姿は跡形もない。いっそう成熟した彼女は、咲き誇る薔薇のように、酷く、美しく輝いていた。
「ユ、フィ……」
手を伸ばしたのは、あくまで無意識の衝動に過ぎなかった。都合のいい夢ならば、自分を許してくれるのではないかという、馬鹿げた考えから。
しかし、幻想の中のユフィネルは、あまりにも当然だというように彼の指先を避けた。幻想の中でさえ拒絶された事実に、思考が止まった。同時に、己への嫌悪がこみ上げた。
愚か者め。いくら幻想だとしても、許されるなどと思ったのか。
(……お笑いぐさだ)
死んでも許されることはない。許される価値さえない。体よりも心が痛んだ。呼吸ができなかった。
死の間際に見るのが彼女の顔であることが、これほどまでに歓喜でありながら、同時に生身の肌を抉られるように痛かった。
このまま永遠に目覚めなければいいと思った。
彼女の顔を最後の思い出として刻みたかった。だが、残酷な現実は、彼を再び朝へと引き戻した。
目を開けた時、いつもとは違い、世界が少しだけ鮮明だと思った。気のせいかと思ったが、違った。
ゆっくりと視線を巡らせると、青紫色に染まった清涼な空が視界いっぱいに広がった。一拍遅れて、広くはない部屋に独り横たわっている自分の姿を自覚した。
掛けられたシートからは、爛れた血の臭いではなく、微かな薬草の香りがした。
(ここは……)
一体どこなのか。断絶した記憶をかき乱しても、推論が及ばない。思うように動かない腕で、ゆっくりと身を起こす。本来なら、これだけでも全身が針で刺されるように痛むはずなのに、今日は疼くような違和感しか感じない。
呆然と虚空を見つめ、思考を整理する。その瞬間、彼が目覚めたのを察したかのように、固く閉ざされていた扉が開いた。そして入ってきたのは……。
ラハルトの瞳が大きく見開かれた。幻想の中に存在すべき彼女が、視界いっぱいに鮮明に映し出された。
「ユフィ……」
思わず零れた名に、彼女の瞳がラハルトへと向けられる。同時に、彼女の赤く艶やかな唇が開いた。
「私の名を覚えておいでなのですね。幸いです。ですが、ひどく混乱されていることでしょう」
ラハルトの言葉を遮り、彼女は淡々と言葉を継いだ。
「はじめまして、旅の方。私の名はユフィ。『安息の魔女』リベリカの弟子です」
最初は、彼女の言葉が理解できなかった。だが、彼女の感情が一片も籠もっていない微笑みに、明白な拒絶が込められた文言に、彼女が自分の存在そのものを否定しているのだと悟った。
(ああ、そうか……)
私は彼女にとって、人間として認識する価値さえないのだ。彼女の中に「ラハルト・ライセン」という人間は、もう存在していないのだ。
肉体の苦痛よりも、心の痛みが大きかった。いっそ助けてくれなければよかったという感情と、それでも彼女と対話したいという衝動が入り混じった。
なぜ彼女がラハルトを救ったのかは分からない。だが、彼女はなぜかラハルトを助けている。
贖罪の資格もない。許される資格もない。だが、彼女が少しでも彼を憐れんでくれるなら。
長くは生きられぬ悲惨な自分に対し、一片の情けをかけてくれるのなら。
ほんの少しだけ。
ほんの、わずかだけでいい。
「……助けていただき、感謝する。私は……ハル、と申します。ユフィ様」
お前の傍にいてもいいだろうか。
お前が望まないのなら、私自身さえも否定して消し去るから。
ただの旅人、ハルとして。
どうか、少しだけお前の傍にいることを許してほしい。




