4. 残されたもの(ラハルト視点)
ラハルト・ライセンがユフィネル・エルフィスと結婚したのは、隣国カランとの戦争が始まって五年の月日が流れた頃だった。
彼の歳が二十四、ユフィネルが十六の時のことだ。
初めて彼女を見た日のことを覚えている。
子供だと言われても信じてしまうほど小さく細い体躯と、あどけない顔立ち。その華奢な印象とは裏腹に、真夏の空のように澄み渡った青い瞳と、鮮やかな薔薇色の髪が印象的な女だった。
あまりに幼い顔立ちのせいか、初対面の時から彼女に対する好意が芽生えることはなかった。燃え上がるような恋心どころか、自分のような歳の離れた男と結婚することになった彼女が不憫だ……そんなことを考えていたと思う。
せめて自分だけは、彼女を大切にしてやろう。そう心に決めていたはずだった。
(彼女を守らなければならないと思った。彼女となら、穏やかな関係を築いていけるだろうと信じていた。その心を忘れてしまったのは、無残な戦争が私を狂わせたからだろうか。それとも……)
結婚後の三ヶ月間は、比較的夫婦らしい関係を維持できていた。冬が極端に長いカランは、冬の間は休息期に入るため、黙認された休戦状態が続くからだ。
振り返ってみれば、その三ヶ月こそがラハルトの生涯で最も穏やかな時間だった。
ユフィネルは幼い容姿に似合わず非常に聡明な女性であり、華やかさはなくとも、傍にいるだけで安らぎをくれた。自己主張は強くないが、口下手な私の話さえも真剣に聞き届けてくれる、優しい人だった。
その関係が狂い始めたのは、いつからだっただろうか。
貴族の義務であり早婚の理由でもある後継者のため、何度か夜を共にした。
だが、あまりの体格差に、まともに抱くことさえままならなかった。痛みに耐える彼女の姿を見たくなくて、寝室の扉を叩くのを止めた。
それでも、その時までは関係が破綻してはいなかった。子供は、彼女がもう少し成長してからでもいい。その前に、戦争が終わるかもしれないのだから。
しかし、彼の予想に反して戦争は果てしなく続いた。ラハルトが屋敷に戻る間隔も、次第に遠のいていった。
半月、一ヶ月、三ヶ月。
「去る者は日々に疎し」と言うべきか。結婚当初、彼女の名でラハルトの部隊に届いていた補給用の薬は、いつの間にかロウェルの知人であり、男爵令嬢のエイミー・ハレンドの名に変わっていた。
自作、あるいは購入した薬を軍に送るのは、ロンカエト王国の貴族女性としての義務だった。夫が従軍しているならば、その部隊に妻の名で薬を補給する。女であっても、王国の力になるためにできることをする。
その基本的な義務さえ果たさないユフィネルに、ラハルトは次第に失望し始めていた。
ラハルトが家に帰っても、ユフィネルは挨拶の一言すら寄越さなかった。
いや、彼が帰宅したことさえ知らない時も多かった。ユフィネルはいつも不在か、あるいは部屋に閉じこもっていたからだ。
結婚から半年が過ぎる頃には、屋敷内ではユフィネルに対する悪評ばかりが聞こえてくるようになった。毎晩のように夜遊びに出かけ、家を空けているというのだ。夫人としての義務を放棄し、何一つしない女だと。
たまに顔を合わせても、人形のような無表情を貫く彼女に対し、ラハルトは不信感を募らせていった。対照的に、献身的に傍で自分を支えてくれるエイミーに、心は傾いていった。
結婚から二年。いよいよ戦争は激化の一途を辿った。
相変わらず後継者もできず、夫人としての義務も果たされない日々。耐えかねたラハルトはユフィネルを呼び出し、告げたのだ。
「もはや、貴様のような穀潰しに割く予算などない」
と。
弁明するだろうと思った。そんなはずはないと、一度だけ許してくれと、泣いて縋るだろうと思っていた。
しかし、ユフィネルはあまりにも淡々と、微笑みを浮かべて屋敷を去った。
その時は、気づかなかった。彼女が身に纏っていたのが、二年前の婚礼の際に持ってきた古いドレスだったということに。
軍から受け取る俸給ではとても賄いきれないほど、屋敷が豪華に飾られていたことに。
化粧すらしていない幼い顔に、深い疲弊が刻まれていたということに。
実家から絶縁されたユフィネルが、辺境で悲惨な死を遂げたという噂を風の便りに聞いた。彼女との間に愛はなかった。まともな結婚生活を送った記憶もない。
それなのに、彼女が死んだという言葉を耳にした瞬間、心の一角が崩れ落ちるような感覚に襲われた。意味の分からぬ空虚さが、全身を埋め尽くした。
今すぐ彼女を捜しに行きたい。だが、ラハルトは部隊を離れるわけにはいかなかった。
古来より、支えとなっていた柱が消えれば、建物は崩壊するものだ。
ユフィネルと離婚したその時点から、ラハルトの人生は瓦解し始めた。
真っ先に変わったのは、補給される薬だった。ユフィネルがいた頃は、薬の品質は極めて高かった。
だが、彼女が消えると、まるで全ての薬を送っていたのが彼女であったかのように、薬の品質は粗悪なものへと成り下がった。
いくら軟膏を塗っても傷は癒えず、薬を飲んでも熱は下がらなかった。
何度もエイミーに手紙を送ったが、返ってくる返事はなかった。
その頃、カランで古代兵器を応用した新兵器が開発された。空気中に拡散する兵器は防ぐ術がなく、数多くの兵士たちがなすすべもなく被曝していった。
粗悪な薬は何の助けにもならなかった。まともな補給もないまま、彼の部隊は戦わなければならなかった。
兵器に触れてはならない。だが、方法がなかった。死ぬと分かっていながら立ち向かわねばならず、その行動がさらなる被曝者を生んだ。
ユフィネルと別れて半年。戦争が激化し、家に帰れない日々が続いた。長く家を空けていたせいだろうか。軍にあるラハルトの執務室に、不審な督促状が届き始めた。
高級ブティックからの代金督促。購入者はエイミーとロウェル、そして母のアメリア。
ユフィネルについて問いたかった。領地について聞きたかった。屋敷に戻って状況を確認したかった。だが、ラハルトは軍の首脳だ。私用で場を離れることは許されなかった。
ろくに効かない薬瓶を懐に忍ばせ、何度、生死の境を彷徨っただろうか。死にゆく部下に対し、彼ができることはほとんどなかった。
一度でも被曝すれば、死に際に大規模な汚染を引き起こす。かといって、苦しむ部下を放置することもできなかった。
何度も、何度も。この手で安息を与えた。被曝は蓄積されるほどその身を蝕んでいくため、他の者に任せるわけにもいかなかった。
死んだ仲間の想いを胸に、進んで、また進んだ。折れた脚をまともに接合することさえできないほど環境は劣悪で、被曝は蓄積されていった。
それでも、ラハルトは戦争を勝利へと導いたのだ。




