1章7話 秘密の取引と微睡みの預言者
皆さん、こんにちは。花菱 葵です。
怒涛の「ドロケイ」と「ハリセン・セッション」を終え、幼稚園には穏やかなお昼時がやってきました。
今回はほっこり&ギャップ満載の休息回、お楽しみください!
1章7話 秘密の取引と微睡みの預言者
午前中の大冒険――園庭を駆け抜けた「ドロケイ」と、教室をライブ会場に変えた「ハリセン・セッション」――を終え、ウサギ組には待望のお弁当の時間が訪れた。
心地よい疲労感と達成感に包まれた園児たちは、手洗いを済ませると、宝箱を開けるような期待感を胸に自分たちの席へと戻る。
貴と茜は、示し合わせたわけでもなくなめらかな動作で机をくっつけた。
色とりどりのランチョンマットが広げられ、その上にお家の人たちの愛情が詰まったお弁当箱が並ぶ。
蓋を開けた瞬間、教室中にふわりと甘辛い醤油の香りと、ご飯の匂いが立ち込めた。
「うわ〜っ!
お馬さんだ!
かっこいい!」
茜が声を弾ませた。
彼女のお弁当箱の中には、茶色の鶏そぼろと刻み海苔を駆使して描かれた、今にも草原を駆け出しそうな駿馬が鎮座していた。
茜にとって、馬はただの動物ではない。
その力強さと自由さに心底憧れており、自慢の髪型をポニーテールにしているのも、その躍動する尻尾を模したものだ。
母・楓が早起きをして、娘の「好き」を形にした力作であった。
「……でも、ニンジンはいらないよ……」
茜の箸が、馬の口元付近でピタリと止まる。
そこには、艶やかなオレンジ色に輝く『ニンジンのグラッセ』が数切れ添えられていた。
楓が「馬が好きなら、ニンジンも好きにならなきゃね!」という無言の圧力をかけているのは明白だった。
茜には苦い記憶がある。
以前、テレビで馬が美味そうにニンジンを齧る姿を見て、好奇心から生のニンジンを丸齧りした際、その特有の青臭さと硬さに打ちのめされ、深いトラウマを抱えてしまったのだ。
「茜、それは『生』じゃないから大丈夫だよ。
茜のママが魔法みたいに美味しく料理してくれたんだ。
きっと甘くて、果物みたいだよ」
貴は、ニンジンを突くばかりで一向に箸が進まない茜の様子を見かねて、穏やかに諭した。
彼は楓の料理の腕を知っている。
このグラッセが、バターと砂糖で丁寧に煮込まれ、素材の角が取れた逸品であることを確信していた。
「……タカ君が美味しいって言うなら、茜、食べてみる!」
貴の言葉は、茜にとって何よりも信頼できる道標だ。
彼女は意を決して、まるで大冒険に挑む騎士のような面持ちで、オレンジ色の一片を口の中に放り込んだ。
「………………美味しい!!」
数秒間の沈黙の後、モグモグと咀嚼していた茜の瞳がカッ!と見開かれた。
その表情は、未知の味覚との出会いに驚いていた。
「甘くて、柔らかくて。
……本当にタカ君の言った通りだったよ!
これなら茜、お馬さんみたいにいっぱい食べられる!」
先ほどまでの拒絶反応が嘘のように、茜は満面の笑みを浮かべて次から次へとニンジンを口に運んでいく。
一気に上機嫌になった彼女は、ふと、黙々と箸を動かす貴の手元に目をやった。
「ねえ、タカ君は嫌いな野菜はないの?」
自分が苦手なものを克服したことで、茜は無敵にでもなったかのような気分になり、完璧超人に見える貴の『弱点』が気になり出したのだ。
「僕?
僕も野菜は嫌いなやつ、結構あるよ」
貴は、何食わぬ顔で『ピーマンの肉詰め』を口に運び、しっかりと咀嚼しながら告白した。
「えっとね……。
ピーマンに、椎茸に……。
トマトもかなり苦手かな」
「……タカ君。
それ、全部お弁当の中にいるよ?
今、ピーマン食べてたし……」
茜は驚きで箸を止めた。
貴のお弁当には、彼の母・結貴が丹精込めて作ったピーマンの肉詰め、椎茸の含め煮、そして真っ赤なプチトマトが整然と並んでいる。
貴はそれらを眉一つ動かさず、むしろ楽しんでいるかのような優雅な所作で食べ進めていたのだ。
「アハハ!
ママがね、僕の苦手なものを知っていて、克服させようと必ず入れてくるんだ。
だから、苦手なのがバレないように『美味しい顔』をして食べるんだけど……。
きっと全部気づかれちゃってるんだろうね」
「茜だったら、そんなことされたらママのこと嫌いになりそう……」
「大丈夫、ちゃんと半分は僕の大好きなハンバーグや卵焼きを入れてくれるから。
ママなりの応援なんだと思うよ」
「良かった!
お弁当の時間が嫌いになったら、幼稚園がつまらなくなっちゃうもんね」
茜はホッとしたように胸を撫で下ろし、自分のお弁当の海苔で出来た馬の鬣を頬張った。
そんな彼女の食べっぷりを満足そうに眺めていた貴だったが、自分の箸先にある、宝石のように赤々とした『プチトマト』をじっと見つめ、少しだけ声を潜めた。
貴は、周囲に聞こえないような小声で、けれど人生の重大局面を相談するかのような切実な色を瞳に宿して切り出した。
「……ところで、茜?」
「どうしたの?
タカ君」
「茜のニンジンと……僕のトマト……。
――『交換』しない?」
理性では『母の愛』と理解できていても、完熟トマト特有の青臭さだけは、4歳児の皮を被った賢者をもってしても、この『赤い小悪魔』だけは攻略不可能な『強敵』のままだった。
お弁当箱を空にし、「ニンジンとトマト」のトレードを無事に終えた二人。
心地よい満腹感に、午前中の激動とセッションの余韻が重なり合い、ウサギ組には抗いようのない「睡魔の引力」が静かに降りてきた。
リサ先生がカーテンを引くと、陽光は淡い光へと姿を変え、教室にはお昼寝の準備が整えられていく。
「……ふわぁ……」
茜は、片付けを終えて椅子に座った瞬間から、文字通り「舟を漕ぎ」始めていた。
前後に大きく揺れる頭、今にも閉じそうな瞼。
ポニーテールが力なく揺れるその姿は、まるで電池の切れかかった精密機械のようでもあり、その無防備さは見る者の微笑を誘う。
「茜!
眠いのは分かるけど、おトイレに行ってからだよ!
寝ちゃう前に!」
「むー……たぁくん……つれてって……」
半分夢の世界に足を突っ込んでいる茜が、幽霊のようにふらりと手を伸ばす。
貴はその小さな、そして驚くほど熱を帯びた手をぎゅっと握りしめた。
眠気が極限に達した子供の体温は、驚くほど高い。
「おトイレで寝たらダメだからね!
頑張って歩いて!」
「んー……」
心許ない返事を聞き流しながら、貴はまるで熟練の介護士のような手際で茜をエスコートし、トイレへと急がせた。
静まり返った廊下を、ポカポカと温かい手を引いて歩く。
茜の意識はもはやカウントダウンに入っており、一歩一歩が頼りない。
なんとか「大惨事」を防いで教室へ戻り、彼女を布団へと滑り込ませる。
茜は枕に髪が触れた瞬間、深い安らぎの中へとすとんと落ちていき、すぐに幸福な寝息を立て始めた。
「あら、茜ちゃんはもう夢の中ね。お疲れ様」
園児たちが次々と微睡みの海へと漕ぎ出すのを見守っていたリサ先生が、貴のそばで足を止めた。
まだ一人、布団の上に身を起こしていた貴が、リサ先生のエプロンの裾を指先で控えめに、しかし切実に『キュッ』と掴んだからだ。
淡い光に透ける頬は、林檎のように朱を帯びていた。
普段の冷静な「小さな賢者」の面影は、溶け出した睡魔の中に消え去っている。
潤んだ瞳で、トロンと自分を見上げてくるその無防備な姿は。
正直――
一国の王であっても跪いてしまうほどの。
破壊的な『愛らしさ』を孕んでいた。
「……りさせんせ……」
「どうしたの、タカシ君?
茜ちゃんが先に寝ちゃって、寂しくなっちゃったのかな?」
リサ先生は、胸の奥を鋭く射抜かれるような感覚に襲われた。
普段は大人顔負けの采配を振るう少年が、睡魔に抗いながら見せる年相応の――あるいはそれ以上の――脆さと可愛らしさ。
彼女は抗う術もなくその場に屈み込み、貴の小さな両手を優しく包み込んだ。
「……あかねはね、ぼくとおなじくらいげんきなんだよ。
……でもきょうは、おしゃべりもしないで、すぐにねちゃったんだ……」
貴の声は、眠気のせいで少しだけ舌足らずに響く。
悲しげに揺れるその瞳に宿る純粋な「他者への想い」に、リサ先生の庇護欲は臨界点を超えた。
彼女はたまらず貴を抱き寄せ、その柔らかな髪を優しく撫でた。
「……午前中、あんなに一生懸命遊んだものね。
茜ちゃんも、タカシ君の頑張りに応えようとして疲れちゃったのよ。
大丈夫、起きたらまた元気な茜ちゃんに戻るから。
……ね、タカシ君もお休みして?」
リサ先生の腕の中で、貴は小さく、頼りなく頷いた。
しかし、眠りに落ちる直前、彼は最後の力を振り絞るように、リサ先生の耳元でささやいた。
「……りさ、せんせ……。
あかねが、ねちゃったって……ことは
……みんなもっと、もっと、つかれてるの……」
微睡みの境界線に立ちながら、貴は本能的に「クラスの異変」を察知していた。
その危ういほどの愛らしさに、リサ先生の理性が悲鳴を上げる。
「……じぶんで『おきれない』くらいに。
……たぶん、おといれも
……わからない……よ……」
その言葉を最後に、貴の瞼はついに閉じられた。
先生の腕の中で、規則正しく、しかし深い呼吸が始まる。
リサ先生は、胸に抱いた小さな予言者の重みを感じながら、一瞬だけ背筋を正した。
自分や茜のような「強者」がこれほどまでに消耗しているのなら、普通の子たちの疲労は推して知るべし。
深い眠りの中で生理現象をコントロールする余裕など、今の彼らには残っていない。
貴のその鋭すぎる観察眼と、無意識のうちに行われた「クラス全体のリスク管理」。
リサ先生は、寝息を立てる貴の頭をもう一度そっと撫でると、隣のクラスのサオリ先生に「おねしょ対策の予備シーツと着替え」を密かに準備するよう、音を立てずに立ち上がった。
第7話をお読みいただき、ありがとうございました!
「トマトとニンジンを交換しない?」
物怖じしないタカシ君が、小さな声で取引を持ちかける姿……。4歳児らしい可愛さが爆発してしまいましたね(笑)。
そして、リサ先生を悶絶させた寝ぼけ眼のタカシ君。
自分が限界な時に、クラスメイトの「おねしょリスク」まで察知して対策を促す姿は、まさに『微睡みの預言者』。
「タカシ君のトマト嫌いに親近感w」
「寝ぼけたタカシ君を抱きしめたい!」
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