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1章24話 太陽と月の『意志《will》』


1章24話 太陽と月の『意志(will)』



 深夜のロビー。


 静まり返った空間に、貴の小さな足音が規則正しく響く。


「……ママ」


 貴が声をかけると、ソファでセレナの両親、そして楓と話し込んでいた結貴が、弾かれたように顔を上げた。


「タカ君!!」


 結貴は椅子を鳴らして立ち上がると、貴の元へ駆け寄り、壊れ物を扱うように、けれど情熱的にその小さな体を抱きしめた。


 柔らかな母親の香りと、微かに震える体温。


 それが貴の心をさらに解きほぐしていく。


「心配かけて……ごめんなさい……」


「ううん。

 いいのよ、タカ君……。

 ママが勝手に心配して、勝手に胸を痛めているだけ。

 だから、謝らないで。

 あなたは、あなたの信じることをしただけなんだから」


 結貴は貴の肩に顔を埋め、涙混じりの声で、けれど凛とした強さを持って告げた。


「タカ君は、自分の好きなことをすればいいの。

 あなたが自分の意志で羽ばたこうとするなら、その邪魔をする奴らは、ママとパパが全力で退治しちゃうんだから!」


 パパの「魔王」とはまた違う、静かで、底知れない「母」としての覚悟。


 貴はその温もりに身を委ね、小さく、けれど噛みしめるように呟いた。


「……ありがとう、ママ。

 さっきパパにも、同じことを言われたよ。

 ……僕、ママとパパの子供に生まれて、本当に良かった」


 その言葉を聞いた瞬間、結貴の腕にさらに力がこもる。


 親として、これ以上の報酬はない。


「……まったく、自分の子供にそんなこと言われたら、親冥利に尽きるってもんだね!」


 いつの間にか貴のすぐ側に寄り添っていた楓が、彼の乱れた黒髪をクシャッと乱暴に、けれどこの世の何よりも壊れやすい宝物を扱うような慈愛を込めて撫でた。


 彼女の切れ長な瞳には、いつもの勝ち気で豪快な喋り方では到底隠しきれない、うっすらとした涙の膜が張っていた。


 強がって見せても、その指先はかすかに震えている。


 親友の息子が、愛娘のためにボロボロになって帰ってきた。


 その事実が、彼女の強固な自尊心を内側から激しく揺さぶっていた。


「ありがとね、タカシ君。

 茜を庇ってくれて……その上、あの子が背負いかけていた心の重荷まで降ろしてくれて。

 ……あの子、自分が助けを呼びに行ったせいで君が傷ついたと思ったら、一生立ち直れないところだったわよ」


 楓の声は、喉の奥でせり上がってくる感情を押し殺すように震えていた。


 彼女もまた一人の母親として、娘が負うはずだった一生ものの精神的な傷。


 ――「大切な人を、自分の不在によって傷つけてしまった」という、幼い心にはあまりに劇薬すぎる自責の念を、この幼い少年が代わりに、そして完璧な形で引き受けてくれたことの大きさを痛感していたのだ。


「楓ママ……。

 あの時、先生たちを呼びに行かせたのは僕なんだ。

 僕が一番安全で、かつ事態を収束させるための最善策として、彼女をメッセンジャーに選んだんだよ。

 だからね、本当に茜は気にする必要はないんだ……」


 貴は、腫れ上がった頬の痛みを感じさせないほど穏やかな、けれど有無を言わせぬ知性を宿した瞳で楓を見上げた。


「わかってるよ……。

 茜が、自分からタカシ君の側を離れる訳ないくらい、母親のあたしが一番よく知ってるさ。

 あの子にとって、タカシ君は『絶対』なんだよ。

 あの子の世界の太陽は、いつだって君なんだから」


 楓はふっと自嘲気味に笑い、天を仰ぐように目を細めた。


「でもね、あの子は自分がタカシ君から離れなければ、あのガキ共が暴力教師を呼びに行く隙を与えなかったんじゃないかって、本気で後悔してたんだよ。

 自分の不在が、君を無防備な状態にしたって……。

 それをタカシ君の『助けてもらった』の一言で、一方的に自分を責める地獄からようやく抜け出せたのさ。

 君の言葉は、あの子にとって『絶対』なんだよ」


 楓は再び貴の頭に手を置き、今度はゆっくりと、慈しむようにその感触を確かめた。


「茜がなんでタカシ君のマネをするかわかるかい?」 


「あの子はね、ただ君の後ろをついて歩くだけじゃ満足できないのさ。

 あの子は、君の隣にいたいのさ。

 ……でも、今の君はあまりに早く、あまりに遠い空を飛んでいる。

 ただついていくだけじゃ、いつか君の広げる大きな翼に置いていかれる……そう直感しているんだろうね。

 だから、自分も『同じ翼』を手に入れようと必死なのさ」


 楓の言葉は、深夜のロビーに深く浸透していく。


 それは母として娘を見守り続けてきた観察眼と、白沢家の異質さを知る彼女だからこそ辿り着いた真理だった。


「自分も強くなって、君と同じ景色を見て、君が傷つく前にその盾になりたい。

 あの子の『マネ』はね、依存じゃない。

 隣に立つための、必死の『自立』なんだよ。

 タカシ君が『鷹』として羽ばたくなら、自分もその嵐に耐えうる翼を手に入れる。

 ……そう信じて、あの子は君の背中を追い続けているんだ。

 だからね、タカシ君。

 いつかあの子が本当の自分の翼を広げた時、その時は……茜を、君の隣に並ばせてやっておくれよ」


 楓は貴の目を真っ直ぐに見つめ、一人の男としての約束を求めるように、けれど包み込むような温かさで微笑んだ。


「……そっか。

 それなら、僕ももっと頑張らないとね。

 茜が隣で飛べるように、僕も僕の翼をちゃんと守り続けるよ」


 貴の不敵な、けれど優しい決意を聞き、楓は今度こそ我慢できずに一粒の涙をこぼし、笑った。


「……ホント、末恐ろしい4歳児だよ、あんたは」




「Is it you, Takashi-kun? Thank you... thank you so much! Thank you for standing up for Serena... or should I say, for staying true to your 'Will'. (君がタカシ君か!

 本当に……本当にありがとう!

 セレナのために……いや、君の言い方だと『意志(わがまま)』を貫いてくれてありがとう!)」


 スパイ映画の主人公を彷彿とさせるハンサムな男性――青山セレナの父親が、貴の前で跪いた。


 まるで高潔な騎士を讃える王のような、祈りにも似た姿勢で感謝を捧げる。


「I'll call you 'Sir'. I pay my respect to your courage... Sir Takashi. (君を是非『Sir』と呼ばせて欲しい。君の勇気に敬意を……Sirタカシ)」


「We couldn't notice Serena's loneliness... We're not good parents. Sir Takashi, thanks to you, Serena got her 'smile' back! Thank you so much! (私たちはセレナの孤独に気づいてあげられなかった……親失格だわ。Sirタカシ、あなたのおかげでセレナの『笑顔』を取り戻すことができたわ! 本当にありがとう!)」


 その隣で、セレナがそのまま成長したかのようなモデル顔負けの美女――彼女の母親が、舞台俳優のような大袈裟なアクションで両手を広げ、心からの謝辞を貴に贈った。 


「(英語) セレナのパパ、ママ。

 セレナはもう大丈夫だよ。

 彼女はついに自分の翼を見つけたんだ。

 これからは我慢せずに心の声を話してくれるから、ちゃんと聞いてあげてね。

 それに、僕がずっと側で支えているから」


 貴は、権藤の打撃によってどす黒く腫れ上がっているはずの顔で、不敵に、けれど非のうちどころがないほど優雅にウインクをしてみせた。


「Sir Takashi... (『Sir』タカシ……)」


 その大人顔負けの、洗練された騎士のような振る舞いに、セレナの母親は思わず少女のように頬を染め、吐息を漏らした。


 それは、年齢の壁を超えた魂の高潔さに対する、抗いがたい敬慕の情だった。



「タカ君!!」


 深夜のロビーに、静寂を切り裂くような絶叫が響き渡った。


 声の発信源は、もちろん眠りから目覚めた『赤い旋風』だ。


 茜は瞬間移動をしたかのような速度で貴に飛びつくと、その小さな胸に顔を埋めて声を上げて泣き出した。


「うえーん……タカ君が起きてる!

 やっと、やっと目を覚ましてくれた……グスッ、うわぁぁぁん!」


「心配かけてごめんね……茜」


 貴は、腰にしがみついて離れない茜の柔らかな髪を、慈しむように、ゆっくりとなだめるように撫でた。


「茜もセレナちゃんも、ずっとタカ君が起きるのを待ってたんだから……。

 結貴ママが『タカ君は自分のやりたい事をしただけ』って教えてくれたの……。

 だからね、茜も『自分がしたい事』をする事にしたの……。

 ――茜はね、タカ君がする事は何でもマネ出来るんだから!」


 茜は貴の体から一瞬だけ離れると、意を決したように、彼の傷ついた左頬にそっと唇を寄せた。


 「……助けてくれてありがとう、タカ君……大好き!」


 「あ、茜!?」


 痛みで麻痺しているはずの頬に、羽毛のような柔らかな感触と、茜の体温が伝わる。


 予期せぬ「ご褒美」に、貴も目を白黒させ、固まるしかなかった。


 


「Hey! Akane! That was unfair! (あー!

 茜!

 今のは抜け駆けよ、ずるいわ!)」


 そこに、静かなる激情を瞳に宿した『蒼い女神』、セレナが降臨した。


「Takashi-kun! I'm so glad you're awake! I... I haven't given you the 'smile' reward I promised yet! (タカ君!

 目を覚ましてくれて本当に良かった!

 私……あなたに約束した『笑顔』のご褒美を、まだちゃんとあげていないもの!)」


 セレナは慌てた様子で貴の右腕をしっかりと掴むと、決意を秘めた強い瞳で貴を見つめた。


「(英語)タカ君が寝ている間、ずっと考えたの……どうすればあなたに恩を返せるのか……。

 ずっとずっと考えて……ようやく答えが見つかったの……。

 私が自分の『will(意志)』を持って、笑顔になる事があなたへの恩返しになると思うの……。

 ――だからね……これは私がしたい事、私の『will(意志)』よ……」


 そこで言葉を区切るとセレナは、貴の右頬に湿り気の帯びた音と花の香り、そして確かな柔らかさを送った。


「Thank you for saving me. And... I love you, Sir. (助けてくれて、ありがとう。

 それから……大好きよ、私の騎士様)」


 耳元で囁かれたその声は、甘く、けれど折れない鋼のような決意を孕んで貴の鼓動を強く揺さぶった。


 セレナが口にした『Sir』という称号は、単なる敬称ではない。


 それは、絶望の淵にいた彼女を見つけ出し、自らの傷を顧みず「翼」を与えてくれた高潔な騎士への、魂を賭した臣従と愛の誓いでもあった。


 不意のダブルキス。


 左右から包み込まれるような幼き少女たちの熱量に、理性を保っていた貴も、思考回路が一時的にショートしたかのように呆然と立ち尽くす。


 ズキズキと痛んでいたはずの顔の腫れも、ギプスで固定された腕の重みも、この瞬間の非日常的な幸福感によってどこか遠い彼方へと追いやられていた。


 貴が示し合わせた様に前に立つ二人に顔を向けると、そこには言葉を失うほどに美しい光景が広がっていた。


 窓の外、深い夜の底から降り注ぐ銀色の月光が、彼女たちの髪を天使の輪のように縁取っている。


 恥じらいに薄紅色を帯びた頬は、白磁のような肌の上で可憐に燃え、その双眸には、自らの『意志(Will)』で空へと羽ばたくことを決めた、誇り高き少女たちの確かな覚悟が輝いていた。



「「にぱーっ!」」


 ――セレナがかつて貴に約束した「最高のご褒美」――。


 ――茜がいつも貴にもらっていた「最高の笑顔のマネ」――。


 宝石を散りばめたような眩い輝きを放つ、満面の、そして一点の曇りもない『笑顔』。


 それは、貴が自らの社会的、物理的な破滅さえ厭わずに、泥にまみれ、血を流してまで守り抜きたかった、この世界で最も尊い宝物だった。


 左側にしがみつく、太陽のような茜の情熱。


 右側で微笑む、月光のようなセレナの慈愛。


 対照的な二人の少女の想いが貴の身体を通じて一つに溶け合い、深夜のロビーは、嵐の後の浄化された静寂と共に、甘く切ない祝福の余韻に満たされていた。


 自らの意志で選び取ったその結果を、貴は腫れ上がった顔の奥で、誇らしげに噛み締めるのだった。




「ダブル『にぱーっ!』が眩しすぎて直視できない!」

「ダブルキスが羨ましすぎる!」

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