1章23話 『鷹』の定義と賢者から勇者
1章23話 『鷹』の定義と賢者から勇者
深夜の病室。
遠くのナースステーションから漏れる電子音さえ、今は凪いだ静寂の中に溶けていく。
「……グスッ……ヒック……ふぅ……」
どれほどの時間、父の胸に顔を埋めていただろうか。
肺の奥に溜まっていた熱い塊をすべて涙として吐き出し切った貴は、小さく肩を震わせながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
鼻をつく消毒液の匂いさえ、今はどこか遠く感じられる。
「……落ち着いたか、タカシ」
「……うん」
ようやく体を離した貴の目の周りは、痛々しいほど真っ赤に腫れ上がっていた。
けれど、その双眸の奥に宿る光は、嵐の去った後の蒼穹のように、どこまでも澄み渡っている。
貴は腫れた頬を自分の手で、そっと、確かめるように撫でた。
「カッコ悪いな……僕……」
乾きかけた涙の跡が、病室の月光を反射して白く光る。
「……僕は、パパみたいになりたかったんだ。
自由に、誰の顔色もうかがわずに、自分の意志を、自分の力だけで最後まで貫き通す……。
大空を孤独に、けれど誇り高く舞う『鷹』。
そんなパパの背中に、ずっと憧れていたんだ」
貴の声はまだ掠れていたが、その言葉の一つひとつには、4歳児の器には収まりきらないほどの重厚な決意が込められていた。
「……それなのに。
肝心なところで自分の意志に迷って。
恐怖に負けて、パパに縋り付いて……。
赤ん坊みたいに、なりふり構わず泣きじゃくった」
貴は自嘲するように目を伏せ、小さく、けれど確かな悔しさを滲ませて呟く。
「……パパ。
今の僕、最高にカッコ悪くない?」
真は、椅子の背もたれに深く体を預け、眼鏡の奥にある瞳でじっと息子を見つめていた。
その表情は、法廷や園のホールで見せた「魔王」のそれではなく……。
一人の未熟な勇者を見守る、先代の王のような、静かな慈愛に満ちていた。
「タカシ……お前は大きな勘違いをしているよ」
真は大きな掌を貴の頭に乗せ、乱れた髪をゆっくりと整えるように撫でた。
「『鷹』は、孤独に飛ぶ者ではない。
自分が信じる空を、誰よりも高く、誰よりも強く見据えて、その思いを翼に乗せて羽ばたく者だ。
そしてな、本当に強い者というのは、自分の弱さを誰よりも知っている者のことを言うんだ」
真は一度言葉を切り、病室の窓の外、はるか上空に輝く月を見上げた。
「恐怖を感じない奴は、ただの無知だ。
迷わない奴は、己を省みないただの独善家だ。
だがお前は、絶望的な状況を前にして、恐怖を認識し、その上で『意志』によってねじ伏せた。
本当に自分の『正義』が正しいのか迷いながらも、その先の守るべき者の笑顔を信じて、立ち上がった。
……それをなんて言うかわかるかい?」
「――『勇気』って言うんだ――」
真の指先が、貴の腫れた頬を優しく掠める。
「……タカシの『正義』は?」
ふいに、真が貴に質問する。
「……自分の周りを『笑顔』にする事。
誰もが誰かを傷つけないで、笑っていられる場所を守ること」
真が頷く。
「そこを迷ったのか?
……違うよな?
お前は『正義』を貫く過程で、『笑顔』に傷がつく事を……もしくは『笑顔』が失われる事を恐れて迷ったんだ……。
その迷いは極めて『正しい』。
さっきも言ったが、考え、悩み、他者を慮ることのない行動は、ただの『独善』だ。
周りを見ることができない阿呆の暴走だ」
真は、諭すように言葉を重ねる。
「タカシ、お前は迷った上で、それでも自分を信じ、前に進んだ。
そして今こうしてベッドに横たわりながらも、自分が本当に正しかったのかと自問自答し、迷い続けている。
……自分を省みることができる奴は、本質的な意味で『間違えない』よ。
パパに抱きついて泣いた?
それがどうした。
4歳の子供が、父親の胸で涙を流すことのどこにカッコ悪さがある。
むしろ、その涙を流せるだけの壮絶な戦いを潜り抜けてきたお前の『魂』を、パパは心の底から誇りに思うよ」
「パパ……」
「いいか。
お前は今日、5人の年長組を投げ飛ばした時ではなく、大人である権藤の暴力に晒されながらも『僕は悪くない』と言い切った時、すでに俺を超えた。
俺はお前の年の頃、そんなに強くはなかったよ。
お前が流したその涙は、折れた翼の『敗北の涙』じゃない。
次により高く飛ぶために、古くなった羽を生まれ変わらせる『勝利の涙』だ!」
真は三日月のように口角を上げ、極上の肯定を込めた微笑みを浮かべた。
「カッコ悪いどころか、最高にシビれたよ、タカシ。
お前は間違いなく、白沢家の『鷹』だ。
パパが人生をかけて守り抜くに値する、最高の息子だ」
その言葉は、貴の心に深く食い込んでいた自己嫌悪という棘を、一瞬で溶かしていった。
張り詰めていた貴の口元が、ようやく緩やかに綻ぶ。
「……パパは、いつもずるいよ。
そんなこと言われたら、また泣いちゃいそうになる」
「ふふ、いいぞ。
気が済むまで泣けばいい。
その分、お前の心は鋼よりも強くなる」
「……パパは、僕が『パパを超えた』って言ったけど……。
でもね、こんなに優しくて、強くて、言葉一つで僕の心を救ってくれる……。
そんな、最高にカッコいいパパを、僕は全然超えた気がしないよ。
今の僕には、パパの背中がまだ、空の果てにあるみたいに遠く見えるんだ……」
貴は腫れた頬の痛みをこらえながら、憧れの色を隠さずに父を見上げた。
目の前に座るこの「白沢真」という男が持つ、人間としての重厚な器に比べれば、まだ自分は小さな器に過ぎないことを痛感していたのだ。
「はは!
そりゃ良かった!
父親として、まだまだお前に背中を見せられるチャンスが残っているってことだ。
お前に『パパはもう超えた』なんて言われないように、俺も精進しなきゃいけないな」
真は朗らかに笑い、貴の小さな肩をポンと叩いた。
その笑い声は、深夜の病室の重苦しい静寂を軽やかに吹き飛ばし、二人の間に通じる絆をより強固なものへと変えていった。
「いいか、タカシ。
鷹は成長するにつれて、より高い場所から世界を俯瞰できるようになる。
今はまだ、俺の背中を見上げている時期かもしれない。
だが、いつか必ずお前は俺の隣を飛び、さらには俺が見ることのできなかった高みにまで到達するだろう。
その日が来るのを、俺は今から楽しみで仕方ないんだ」
真は一度言葉を切り、満足そうに頷くと、病室の窓の外に広がる広大な夜空を見つめた。
「……さて。
お前の『勝利の涙』もようやく止まったようだし、そろそろ顔を洗って、勇者の帰還を待ちわびている淑女たちのところへ行こうか。
お前が目覚めたと知ったら、あいつら、また泣いて喜ぶぞ?」
「……うん。
でも、パパ。
一つだけいい?」
「なんだ?」
「……みんなには、僕が泣いていたこと。
……内緒にしてもらえる?」
「ははは!
もちろんだ!
男は女性の前ではカッコつけたいものだからな」
貴は、父の腕に支えられながらゆっくりとベッドから降り、一歩、また一歩と、自分自身の足で未来へと歩み出した。
顔の腫れも、腕の痛みも、もはや彼を縛る枷ではない。
それらはすべて、彼が『意志』という翼を広げ、真の勇者へと羽ばたき始めたことを祝福する、誇らしい勲章だった。
「パパの教えが深すぎて感動した!」
「タカシ君、本当の意味で勇者になったね!」
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