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1章22話 魔王の帰還と賢者の慟哭


1章22話 魔王の帰還と賢者の慟哭 



 深夜の病院。


 自動ドアが開き、夜風と共に一人の男が足を踏み入れた。


 人工的で冷徹な消毒液の臭いと、静まり返ったロビーの静寂が、つい先程まで真が身を置いていた「断罪」の熱量をゆっくりと冷ましていく。


 水に濡れ、どす黒く変色したジャケットを脱いで腕にかけ、銀縁の眼鏡をかけ直したその姿に、もはや「魔王」の威圧感はない。


 そこにいるのは、ただ一人の、傷ついた息子を案じる父親の姿だった。


「――お疲れ様、真さん。

 最高にカッコ良かったわよ?」


 ロビーのソファに座っていた結貴が、顔を上げて薄く微笑んだ。


 彼女の膝の上では、泣き疲れたのかセレナが小さな寝息を立てて眠っている。


 その隣では、同じく楓に寄り添うようにして茜が深い眠りに落ちていた。


 二人の幼子の目の周りは真っ赤に腫れ上がっている。


 それが、あの子たちが今日、どれほどの恐怖と絶望を耐え抜いたのかを雄弁に物語っていた。


「相変わらず、徹底的にやったわね。

 配信のコメント欄、今でもお祭り騒ぎよ?

 あなたの『不倫拒絶』宣言に、全国の奥様方が色めき立っているわ」


 楓がスマホの画面をチラつかせながら、呆れたような、けれどどこか誇らしげな苦笑いを浮かべる。


「……これでも、手加減はしたつもりだよ」


 真は二人の少女の寝顔を見つめ、ふっと表情を緩めた。


 その声には、法廷や園のホールで響かせた冷徹なトーンは微塵もない。


「欲を言えば、借りがあまりに多すぎてね。

 タカシが受けた痛みの分まで、あいつの骨を一本残らず叩き折りたいというのが本音だった。

 ……理性を保ち、法の下での清算に留めるのが、今日一番の重労働だったよ」


 肩をすくめて冗談めかす真。


 けれど、その瞳の奥には、家族という「聖域」を守り抜いた男だけが持つ、深い慈愛と揺るぎない覚悟が静かに灯っていた。


「……タカシの容態は?」


「峠は越したって。

 脳波もCTも異常なし。

 ただ、4歳児の身体にはかなりの負荷がかかっていたみたいで、今は深い眠りの中にいるわ。

 ……でも真さん。

 病室に行く前に、まずはその惨めな格好をどうにかしなさい。

 風邪を引いてタカ君に移したりしたら――

 私、今度こそ本気で怒るわよ?」


 結貴は聖母のような慈愛に満ちた微笑を浮かべたまま、足元に置いていた大きなバッグをトン、と指差した。


 その微笑の奥にある「拒絶を許さない意志」に、真は苦笑するしかない。


「助かったよ、着替えを持ってきてくれていたんだね。

 ……実は、あそこで『約束を果たしに行く』なんて啖呵を切って去ったはいいが、道中ずっと、この濡れネズミのような格好で病院に戻るべきか本気で悩んでいたんだ。

 一度家に戻れば、君たちを待たせることになるしね」


「あはは!

 あそこまで完璧な蹂躙劇を演じて、全世界を震撼させた『魔王様』が、一人で着替えの心配!?

 最高にダサくて、最高に真さんらしいじゃないか!

 ククっ、お腹痛い!」


 楓が耐えきれないといった様子でお腹を抱えて吹き出し、真は降参だと言わんばかりに両手を上げた。


「……楓さん、その呼び方は、外の世界だけで勘弁してくれ。

 身内の前では、私はただの不器用な『父親』なんだ。

 ……さて、それじゃあタカシに会ってくるよ」


 真は苦笑しながら、手早く着替えを済ませた。

 濡れた服と一緒に「魔王」の重圧を脱ぎ捨てると、ようやく一人の男としての呼吸が戻ってくる。


「あ、真さん」


 病室へ足を向けた真の背中を、結貴の静かな声が引き止めた。


「どうしたんだい?」


「あとで、話があるの。

 タカ君が落ち着いたら、少しだけ私に時間をちょうだい。

 ……大切な話よ」


 結貴の瞳は、単なる看病の疲れを超えた、何か重大な決意を孕んでいるように見えた。


 真はその視線の重さを真っ向から受け止め、短く「ああ、わかった」と頷くと、静まり返った廊下を奥へと進んでいった。




 病室の重い扉を引くと、微かな機械音だけが響く密室が広がっていた。


 広いベッドの真ん中に、頼りないほど小さな体が横たわっている。


 仰々しく取り付けられていた点滴以外のモニター類は、その役目を終えて部屋の隅に片付けられていた。


 真はタカシの傍らの椅子に腰を下ろし、まだ眠りの淵にいる息子の髪を、震える指先で優しく撫でた。


 白かった頬は、権藤の暴力によって赤紫に変色し、痛々しく腫れ上がっている。


「……タカシ。

 パパは、お前との『約束』を守ったぞ」


 真の脳裏に、一年前の、何気ない昼下がりの記憶が鮮明に蘇る。


 まだ3歳になったばかりのタカシが、自分のあまりに高度な思考を周囲に伝えられず、世界の不条理と己の無力感の狭間で、小さな拳を握りしめていたあの頃。


 真は、賢者の如き瞳を持つ息子を膝に乗せ、一人の「男」として魂の教育を施したのだ。 


『いいか、タカシ。

 お前が『好き』だと言い、そこに『正義』があると信じるなら、世界が反対しようともその意志を貫き通せ。

 わがままと言われても構わない。

 お前が自分の『意志(Will)』で選んだ道なら、パパが全力で肯定してやる。

 邪魔をする奴がいたなら、たとえ神様だろうとパパが叩き潰してやる。

 ……これがパパとお前の、男同士の『約束』だ。

 だからお前は、どこまでも自由に生きろ』


 3歳児にはあまりに重く、そして過激な教育だったかもしれない。


 けれど、今日この子がクスノキの下で見せた姿は、その言葉を血肉に変え、己の魂として刻んでいた証拠だった。


「……3歳児には早い話かと思ったが、ちゃんと覚えていた上に、まさか本当にあそこまでやるとはな。

 自分の傷よりも、他人の尊厳のために立ち上がる。

 お前は、パパが思っていたよりもずっと早く、立派な『勇者』になってしまったようだ」


 真は、ギプスで固定されたタカシの細い腕を、壊れ物を扱うようにそっと握りしめた。


「安心しろ。

 お前の守った『笑顔』も、お前が示した『意志』も、誰にも汚させはしない。

 ……これからは、パパだけじゃない。

 お前に救われたあの子たちが、そしてお前の背中を見た大人たちが、お前の翼を守る盾になるだろう」


 一年前の約束。


 それは、ただの教育ではなく、白沢貴という一人の「賢者」をこの世界に繋ぎ止めるための、唯一の鎖だった。


「おつかれ、タカシ。

 目が覚めたら、またいつもの『にぱーっ!』を見せてくれ。

 ……それこそが、パパにとって世界で一番価値のある報酬なんだから」


 真は眼鏡を外し、誰にも見せない涙をそっと拭うと、再び息子の手を握りしめた。


「…………パパ?」


 不意に、鈴の音を転がしたような、けれど消え入りそうなほどか細い声が、静寂を破った。


「タカシ! 気づいたか!」


 真は弾かれたように身を乗り出し、その顔に深い安堵を滲ませた。


「ここは……保健室?」


「いや、病院だ。

 覚えているか?

  園庭でお前は気を失ったんだ」


「……覚えてる……あ! セレナは!? 茜は!? 二人は無事なの!?」


 タカシは意識が混濁しているはずの頭を必死に動かし、痛みに顔を歪めながらも周囲を見渡そうとする。


 その第一声が自分の怪我への不満ではなく、他者の安否であることに、真はやりきれないほどの誇らしさを覚えた。



「ロビーで寝てるよ。

 お前が運ばれてから、片時も離れずに傍にいてくれた。

 ……あとでお礼を言わないとな。

 お前、寝ている間もずっと、二人の小さなお姫様に手を握られていたんだぞ」


「……なんとなく、わかる。ずっと温かくて、小さな手が僕を繋ぎ止めてくれていた気がする。……また、二人を泣かせちゃったかな?」


 タカシは自嘲気味に、腫れ上がった頬を歪めて笑った。


 その瞳には、自分の負った苦痛への恨みなど微塵もなく、ただ愛する者たちを悲しませたことへの後悔だけが宿っている。


「お前……起きてすぐに彼女たちの心配か。

 少しは自分の状態を気にしてはどうなんだ?」


「……顔とか腕とか、ちょっと熱くて痛いけど。

 それだけだから。

 ……それよりパパ、約束、守ってくれたんだね」


 タカシの透き通った瞳が、真っ直ぐに真を射抜いた。


 その瞳には、自分を助けてくれたことへの感謝以上に、「自分の意志を信じてくれた父」への絶対的な信頼が溢れていた。


「ああ。お前の邪魔をするゴミは、すべて片付けてきた。

 お前はもう、何にも縛られなくていい」


「……ありがとう、パパ。

 ……僕、セレナの笑顔……守れたかな……?」


「……ああ、あとはお前が元気になって、いつものように笑ってあげれば完璧だ!」


「……うん。……パパ……」


「……どうした?」


「……ぎゅ〜ってして。……お願い」


 その唐突で、あまりに幼い、初めての甘え。


 真は一度だけ目を見開き、それからすべてを包み込むような慈愛を込めて頷いた。


「……ああ、もちろんだ」


 真はベッドの端に腰かけ、貴の小さな身体を壊れ物を扱うように、けれど力強く抱き上げた。


 怪我をした腕を庇いながら、その小さな温もりを全身で受け止める。


「……もっと、もっと強く……」


 貴の消え入りそうな呟きに応じ、真は怪我に細心の注意を払いながら、さらに腕の力を強めた。


 お互いの鼓動が、薄いパジャマとシャツを越えて重なり合う。


 その瞬間、貴の小さな肩が、堰を切ったように小刻みに震え始めた。


「……本当は、すごく痛かった……っ」


「……そうか」


「……あいつらが、あんなに大勢で囲んできて……すごく、怖かったんだ……」


「……そうか」


「……権藤先生に殴られた時、頭が真っ白になって……本当は、泣きたくてたまらなかった……」


「……そうか」


 真は、ただ静かに、その告白を受け止め続けた。


 知性という鎧を脱ぎ、騎士としての役目を終えた後の、4歳の子供としての真実の叫び。


「……僕の『わがまま』で、パパやママに迷惑をかけて……僕がやっていることは、本当は間違ってるんじゃないかって……ずっと、怖かった……っ!!」


 どんな大人びた思考を持っていても、その心はまだ、柔らかく、傷つきやすい幼児のものだ。


 理不尽に晒され、暴力を受け、それでも「意志」という旗を掲げ続けた代償は、彼の小さな精神にあまりに重い傷痕を残していた。


「……そうか。

 ……痛がっていい、怖がっていいんだぞ、タカシ。

 当たり前だ、お前はまだ、こんなに小さいんだから……。

 それでもお前は貫き通した。

 パパがお前に教えた『わがまま』は、この世で一番尊い『意志』だ。

 お前は、何一つ間違っていない。

 お前は、パパの、最高の自慢だ」


 真は、自分よりも遥かに小さなその背中を、愛おしさを込めてさすり続けた。


「う、ぐ……っ」


「ぅ……ぁぁああああああ……っ!!」


 抱きしめた真の胸元が、熱い涙で瞬く間に濡れていく。


 それは、一人の「賢者」がようやく「子供」へと戻り、その重責から解放された瞬間の、魂の慟哭だった。



 夜の静寂が満ちる病室で、父親の腕に抱かれた少年は、溜め込んできた恐怖をすべて吐き出すように、いつまでも、いつまでも泣き続けた。



「タカシ君、本当によく頑張ったね!」

「パパの抱擁が温かすぎて泣ける……」

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