1章19話 法曹界の魔王と一億人の陪審員
1章19話 法曹界の魔王と一億人の陪審員
「……『法曹界の魔王』……」
阿久津の唇が、まるで真冬の氷に触れたかのように激しく震えた。
先ほどまでの傲岸不遜な態度は霧散し、その顔面は土気色を通り越して、死人のような白色に変色している。
県議会議員として数多の政敵を葬り去ってきた彼が、今、本能的な防衛本能に突き動かされて椅子を鳴らして後退った。
「……阿久津先生、あいつをご存知なのですか?
たかが一介の親でしょう、何をそんなに……」
尋常ではない主君の様子に、取り巻きの父親が困惑しながら問いかける。
だが、阿久津は答える余裕すら失っていた。
その視線は、テーブルの上に置かれた『白沢 真』の名刺に釘付けになっている。
「……お前たちは、知らないのか……ッ。
政財界の汚物を一掃し、敵対した相手を比喩ではなく再起不能の地獄まで叩き潰すという、無敗の怪物。
法務省の重鎮ですら、彼の名を聞けば顔色を変える……。
その一分の慈悲も残さぬ苛烈な戦いぶりからついた異名が、『法曹界の魔王』だぞ……」
阿久津の声は、もはや怒鳴り声ではなく、深い絶望に沈む悲鳴に近かった。
そんな男の恐怖を、真は楽しむことすらしない。
ただ、無機質な事務作業を進めるように、手荷物のバッグの中から一台のノートパソコンを取り出した。
「……順番にいきましょうか。
まずは阿久津さん。
貴方は『客観的な事実』が必要だと仰った。
ええ、全く同感です。
この世で最も信頼に足る事実は、人間の汚濁した記憶や、保身のための証言ではなく、機械が記録した『光』の軌跡ですからね」
真が長い指先でキーボードを叩くと、液晶画面が青白い光を放ち、ホールの暗がりに浮かび上がった。
真はそれを、審判を下す祭壇のようにテーブルの中央へ向け、加害者側の親たちに見せつける。
画面に映し出されたのは、園庭を俯瞰する高い位置からの映像だった。
午後、陽光が降り注ぐ砂場。
セレナを囲み、汚い言葉を浴びせる五人の少年たち。
彼らを三度、言葉だけで諭そうとする貴の姿。
そして、襲いかかってきた五人を、貴が最小限の動きで、しかし確実に無力化する鮮烈な立ち回り。
そして――。
画面には、怒りに顔を歪ませた権藤が駆け寄り、無抵抗の貴の頬を二度、凄まじい衝撃と共に張り飛ばす瞬間が、音声を伴って完璧に記録されていた。
ホールに響いたのは、乾いた打撃音と、貴の小さな体が地面に叩きつけられる鈍い音。
「おや?
ご存知なかったかな。
昨今、不審者や不当なトラブルから子供を守るため、この幼稚園にも、死角になりやすい場所には高性能の防犯カメラが設置されていることを。
画質も音質も最高級だ。
権藤先生の、その……『教育的指導』の際の呼吸音まで、実によく拾えていますね」
「……な、なぜ、お前がそれを……。
カメラの管理権限は園長にあるはずだぞッ!」
阿久津が掠れた声で、隣で震える園長を睨みつける。
だが、園長はもはや首を振ることすらできず、真の影に怯えるだけだった。
「正確に言えば、管理権限は園長のみだが、アクセスする権限は主任教諭のリサ先生にもあったんですよ。
……この話し合いが始まるずっと前から、リサ先生に快く『協力』していただいたので助かりました。
……下手をするとハッキングしなくてはいけませんでしたからね」
真は病院のロビーで、憔悴したリサへ告げた言葉を反芻するように静かに告げた。
『……さて。
先生、『色々と協力』してくれますか?
僕は、不当な暴力が一番大嫌いなんですよ』
あの時、真はすでにリサからバックアップの権限を、法的な「守秘義務と保護」の契約と共に引き継いでいたのだ。
「ちなみに、今この場でこのパソコンを叩き割るという、阿久津さんらしい暴挙に出たところで、何の意味もありませんよ。
データは私の事務所の専用サーバーとクラウドにリアルタイムで二重、三重に暗号化保存されていますからね」
「ふ、ふん!
そんな動画、一本あったところで何になる!
私の権力があれば、捏造だと言い張って、公開を差し止めることなど造作もないことだ!」
追い詰められた阿久津が、最後の虚勢を張る。
だが、真はそれさえも待っていたと言わんばかりに、唇の端を吊り上げた。
「そうですね。
法廷で争うとなれば、貴方の『ルール』なら、数ヶ月は時間を稼げるでしょう。
裁判官に圧力をかけ、証拠の証拠能力を否定する……。
だから、私は先に『お知らせ』をしておいたんですよ」
「お知らせ……だと?
誰にだ!」
「ええ。
実はうちの妻――結貴は、ああ見えてそれなりの影響力を持つインフルエンサーでして。
普段は穏やかな『お料理チャンネル』を運営していますが、たまに同世代の母親たちのリクエストで、『現代社会の不条理』や『子育ての闇』といった重いテーマで生配信を行ったりもしていましてね。
良かったらご覧になってください。
『ゆうゆうチャンネル』という名前です」
その名を聞いた途端、取り巻きの母親の一人が、「……嘘、私、毎日見てるわ……」と、絶望に満ちた声を漏らした。
数百万のフォロワーを抱え、主婦層から絶大な信頼を得ている伝説的なチャンネル。
その影響力は、一地方議員の権力など比較にならない。
「貴様の嫁の道楽など、どうでもいいッ!
誰に、何を、知らせたと言っているんだ!」
「だから、先ほどそのチャンネルを通して、この『編集なしの生動画』を全世界に公開したのですよ。
視聴者という名の、一億人の『無慈悲な陪審員』たちにね」
真が再びパソコンを操作し、ブラウザの画面を表示させる。
そこには、『ひまわり幼稚園での暴力的虐待と差別事件の全記録』というタイトルで、先ほどの動画が固定されていた。
「おや?
公開からわずか数十分で、もう100万再生を突破していますね。
コメント欄も大荒れだ。
『加害者の実名を特定しろ』『この教師を豚箱へ送れ』『加害者の親の会社をボイコットしろ』……。
炎上必至の動画ですからね、瞬く間に拡散されているのでしょう。
ネットの世界はこれだから怖い……ですが」
真はチラリとリサとサオリへ目線を送り、口角を上げると……。
「……ですが、権力を盾に真実を隠蔽しようとした結果、暴かれた真実が濁流となって当事者を飲み込む。
……『実によくある話』だと思いませんか?
ねえ?
阿久津さん」
真は、阿久津が先ほどリサを嘲笑った言葉を、そっくりそのまま氷の温度で投げ返した。
「……あ、……あ……」
阿久津は、自身のスマホが着信と通知のバイブレーションで激しく暴れだすのを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
「……まだ終わってはいませんよ?
私は『順番に』と言いました」
真の声が、凍りついたホールに再び冷徹に響く。
魔王の断罪は、まだ序の口に過ぎない。
「ま、まだ、何かあるのか……ッ!?」
阿久津が掠れた声で叫ぶ。
「当然ですよ。
これだけでは、貴方たちは『息子の教育もまともにできない無能な親』というレッテルを貼られるだけですからね。
……ああ、権藤先生。
貴方にはこの時点で明確に『暴行罪』が適用されます。
罪を認めれば初犯で多少は軽くなるかもしれませんが……。
まあ、今の動画がこれだけ拡散されては、再就職は絶望的でしょうね」
権藤は、もはや座っていることすらできず、死人のような顔色でガタガタと床に崩れ落ちた。
「さて。
お次は、皆様が退屈そうに眺めていた……その冊子ですが」
「こんなもの、ただの報告書じゃないか!
弁護士が書いたところで……」
取り巻きの一人が震える声で虚勢を張る。
「リサ先生には、敢えて最初からページをめくっていただきましたが……
後半のページ、『加害者属性及び関連事項』の項目をご覧ください」
真に促され、阿久津や四人の父親たちが、血相を変えて冊子の後半をめくった。
そこに並んでいたのは、ただの名前だけではなかった。
「こ、これはッ……!?
なぜ、これを貴様が……ッ!!」
そこには、児童の名前、詳細な家族構成、親の勤め先……。
――そして
阿久津と四人の父親たちがひた隠しにしてきた『公金横領の証拠』『不適切な癒着の記録』『各会社の脱税および不正会計のデータ』が、極めて精緻に、言い逃れ不可能な形で羅列されていた。
「……残念です。
これに、もう少し早く気づいていれば。
私が貴方たちの心臓を握っていることを理解して、少しは態度を改めていたでしょうに。
……しかしながら、もう遅い」
真は冷たく微笑み、手元のパソコンのエンターキーを、トドメを刺すように静かに叩いた。
――タンッ!
その無慈悲なキーボードを叩く音が、彼らの豪華な城が崩れ落ちる落城の合図だった。
「これも、すでに『お知らせ済み』です。
貴方たちが今見ているのと同じファイルを、『国税局査察部』……いわゆるマルサですね。
それと、『各主要報道各社』の社会部デスクへ、匿名ではなく私の実名で送信しておきました」
その瞬間、ホールにいた父親たちの数人が、糸が切れた人形のように椅子から滑り落ちた。
「ネットでの炎上は、いつか風化するかもしれません。
ですが、税務署とマスメディアは、一度食いついたら骨の髄までしゃぶり尽くしますよ。
……さて、阿久津さん。
貴方の仰る『ルール』は、この国の厳格な法執行機関に対しても、等しく通用するのでしょうか?」
「パパの『お知らせ』が怖すぎて最高!」
「ママの『ゆうゆうチャンネル』、私も登録したい!」
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