1章18話 砂上の権力と魔王の逆鱗
1章18話 砂上の権力と魔王の逆鱗
「……阿久津さん。
それが、貴方の仰る『ルール』ですか?」
真の声は、底なしの井戸に石を落とした時のような、温度を持たない静謐さを湛えていた。
椅子に深く腰掛け、勝利を確信して傲慢な笑みを浮かべる阿久津を、真はただ、標本箱の中の虫を観察する学者のような、徹底して客観的な眼差しで見つめている。
「いいや、違うな!
これは私の『ルール』だよ。
白沢さん!」
阿久津は、まるで理解力の乏しい劣等生を嘲笑うかのように、低く下品な笑い声を上げた。
その瞳には、弱者を踏みにじることでしか得られない、暗い愉悦が宿っている。
「私が『白』と言えば、この世のあらゆる漆黒は純白に塗り替えられるのだ。
仮に、卑しくも君が、ジャケットのポケットにスマホを忍ばせ、録音を続けていようが、私にとっては痛くも痒くもない。
この街において、私を裁ける法など存在しない!」
「証拠?
録音?
……そんなものは、私の一言で『隠蔽』され、『捏造』される。
それが、君のような無力な市民には一生理解できない、絶対的な力の真実だ!!」
阿久津は勢いよく立ち上がると、重厚な長机を両手で叩き、真を圧殺するかのように身を乗り出した。
その顔は、自らの万能感に酔いしれ、醜く歪んでいる。
「君のような無力な市民が、正義という名の安っぽいドラマを夢見るのは勝手だがね。
現実は、私のような人間が書き換える物語なのだ。
わかったら、さっさとその『玩具』を止めて、地べたを這いながら土下座をしたらどうだ?
運が良ければ、退園だけで済ませてやってもいいぞ。
……いや、その後の生活が保障されるかは、君の『誠意』次第だがな!」
阿久津の傲慢な宣戦布告が、多目的ホールの壁に反響し、静まり返った教職員たちの耳に突き刺さる。
リサとサオリは、あまりの理不尽と吐き気を催すほどの邪悪さに、全身を激しい戦慄が駆け抜けていた。
拳を白くなるまで握りしめ、溢れそうになる涙を怒りで抑え込んでいる。
一方で、権藤だけは、阿久津という巨大な「悪」の庇護を得たことに安堵し、救いようのない汚濁した笑みを浮かべていた。
真は、長い沈黙をもって阿久津を見つめ返した。
やがて、彼は満足げに一度だけ深く頷くと、伊達眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げた。
「ハッ!
……傲慢な神様気取りですか。
……滑稽ですね」
真が放った短く冷ややかな嘲笑。
それは阿久津が築き上げてきた虚飾の権威を、根底から否定する絶対的な蔑視だった。
「口を慎め若造が!!
誰に口を聞いていると思っているんだ!
貴様ら家族に無実の罪を着せる事など、私にとっては赤子の手をひねるより容易いのだぞ!」
阿久津の逆鱗に触れた。
激昂した阿久津は、テーブルの上に置かれていたフタの開いたペットボトルを掴み、乱暴に真へと投げつけた。
バシャリ、という重い音と共に、真の頭から冷たい水が降り注いだ。
プラスチックのボトルが真の肩に当たり、床に転がって空虚な音を立てる。
その音は、まるで阿久津という男の人間性の底の浅さを象徴しているかのようだった。
真のジャケットは水を吸ってどす黒く変色し、前髪からは雫が滴り落ちて、伊達眼鏡のレンズを不規則に濡らした。
「ハッハッハ!
みすぼらしい格好がさらに良くなったじゃないか!
まさに『水もしたたる』なんとやらだ!
ハッハッハ!!」
阿久津の哄笑に、取り巻きの父親たちも同調し、ホールは下卑た笑い声で満たされた。
一人の人間を公衆の面前で辱め、その尊厳を水浸しにすることに、彼らは至上の悦びを感じているようだった。
しかし、水浸しになった当の本人、真は、表情一つ変えなかった。
彼は濡れた眼鏡を指先で外し、ジャケットの内側に忍ばせていた清潔なハンカチを取り出した。
滴る水を拭うその所作さえも、まるで高級ホテルのラウンジで寛いでいるかのように優雅で、無機質だった。
(……ああ。これでもう、引き返せませんよ。阿久津さん)
真の瞳の奥で、先ほどまで凪いでいた「夜の海」が、荒れ狂う嵐の予兆を孕んで深く、暗く輝き始めた。
「……阿久津さん。
もう一度、確認させていただきます」
ハンカチで顔を拭い終えた真が、ゆっくりと顔を上げた。
「今のご発言、および行動。
これらはすべて、貴方の自由な意志によるものであると断定して、よろしいですね?」
「ふん!
その答えを聞いてどうするつもりだ?
まさかそのスマホで録音した物を公開するとでも言うつもりか?
やってみるが良い!
無駄だがな!
……報復として貴様の家族をメチャクチャにしてやる!!」
――――――ピシッ!!!
空気が、物理的な音を立てて凍りついた。
それは比喩ではない。
窓際の観葉植物が小刻みに震え、天井の蛍光灯が瞬き、一瞬だけホールの酸素濃度が極端に下がったかのような、圧倒的な『死の予感』
――ふう、我慢するのは、もうやめだ
真は、重力そのものを無視するかのような所作で静かに立ち上がった。
滴る水滴を気にする様子もなく、濡れた前髪を無造作に掻き上げる。
――パタン。
眼鏡をケースにしまい、ジャケットの内ポケットに仕舞い込む。
その小さな音が、開戦の合図だった。
次の瞬間。
彼を覆っていた「良き父親」としての仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。
あらわになったその相貌に、リサは思わず息を呑んだ。
そこにあるのは、先ほどまで彼を嘲笑っていた大人たちを等しく「無機質な障害物」として見下ろす、『猛禽』の如き鋭すぎる眼差し。
そして、彼の全身から立ち上るプレッシャーは、古の物語に語り継がれる絶対的な断罪の気配を纏う『魔王』の降臨を思わせた。
「阿久津さん。
貴方は、今……超えてはならない一線を踏み越えた。
……いや、自らその首を差し出したと言った方が正しいでしょうか」
真の声は、もはや先ほどまでの平坦なトーンではない。
低く、深く、聴く者の骨の芯まで直接響き渡るような、重厚な『宣告』の響き。
阿久津の横で笑っていた4人の父親たちは、本能的な恐怖に喉を鳴らした。
彼らの身体は石のように硬直し、指一本動かすことすら叶わない。
「正義の味方」を気取っていた権藤は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。
真の背後に見えたのは、慈悲など一切存在しない、冷徹な『深淵』だったからだ。
「……私の家族をメチャクチャにする、と言いましたね?
阿久津さん」
真が名前を呼んだ瞬間、阿久津の全身に鳥肌が立った。
自分の名前が、まるで死刑執行書にサインされる文字のように感じられたのだ。
「面白い。
……では、試してみましょうか。
『ルール』と『ルール』
どちらが先に、誰の人生を跡形もなく消し去るのかを」
真はジャケットの内ポケットから、水に一滴も濡れていない、一枚の名刺を取り出した。
それを、まるで処刑宣告を突きつけるかのように、阿久津の目の前へと静かに滑らせる。
「さて。ここからは、私の時間だ」
『魔王』の裁きの時間が始まった。
「パパ、ついにキターーーー!!」
「阿久津、地獄へ落ちる準備はできたか?」
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