1章17話 悪徳の裏切りと沈黙の断頭台
1章17話 悪徳の裏切りと沈黙の断頭台
「……素晴らしい熱弁だ。
父親の鑑ですな、白沢さん?
ですがね、ここは感動ドラマの撮影現場じゃない。
必要なのはお涙頂戴の感情論ではなく、動かぬ客観的な事実だ」
静まり返ったホールに、湿り気を帯びた低い声がねっとりと響いた。
リーダー格の少年の父親は、仕立ての良いスーツの皺ひとつを気にすることなく、ゆったりと背もたれに体重を預けた。
その唇の端には、明白な蔑みの笑みが張り付いている。
彼の眼光は、対面に座る白沢真を対等な交渉相手としてではなく、指先ひとつで捻り潰せる羽虫のように冷淡に捉えていた。
「黙って聞いていれば、そこの無能な女教師たちと、物分かりの悪い4歳のガキの証言だけで、将来あるうちの息子たちを一方的に悪者に仕立て上げようとする。
呆れた自作自演だ。
教育現場の膿もここに極まれり、といったところかな」
「ち、違います!
私はその場で……他の園児たちからも事情を聴取し、複数の証言から整合性を確認したんです……っ!
嘘をついているのは、彼らの方です!」
リサが椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、必死の形相で食らいつく。
握りしめた拳は白く震え、彼女の正義感が悲鳴を上げていた。
しかし、阿久津はその必死さを嗜好品のように楽しむ仕草を見せ、わざとらしく鼻で笑い飛ばした。
「日本語もまともに理解すらできん外国籍の幼児が、一体何を語るというのだ。
空想と現実の区別もつかないガキどもの戯言を、神聖な証拠と呼ぶ君の勇気には敬服するよ。
だが、大人の社会には通用しない」
リーダー格の父親は、まるで高価な玩具を見せつける子供のように、懐から仰々しく金縁の名刺入れを取り出した。
指先で弾かれた名刺が、冷たいプラスチックのテーブルの上を、カツン……と、断頭台へ向かうような不吉な音を立てて真の前に止まった。
『県議会議員 阿久津 泰造』
その文字が、この密室の『法』を自分に書き換えたと、男は傲慢に顎を上げた。
「君たちも、自分の子供が濡れ衣を着せられて困っているだろう?
……困っているよな?」
阿久津の視線が、横に並ぶ4人の父親たちを順番に射抜く。
彼らが経営する会社や所属する組織の運命は、阿久津が差配する公共事業や利権の網の目に深く絡め取られている。
ここで彼に逆らうことは、自らの社会的破滅を意味した。
「そ、そうです!
阿久津先生のご子息がいじめなどという卑怯な真似、するはずがありません!」
「子供の証言なんて、大人がアメをちらつかせればいくらでも捏造できる!
むしろ、うちの子たちは一方的な暴力に晒された被害者だ。
白沢貴とかいうガキの異常性が原因だ!」
4人の父親たちは、まるで糸を引かれる操り人形のように一斉に立ち上がり、怒号の合唱を始めた。
それは真実を塗り潰すための醜悪な保身の叫びであり、ホールの空気を澱んだ毒気で満たしていく。
阿久津は満足げに頷くと、獲物をいたぶる蛇のような眼差しを、未だ沈黙を続ける権藤へと向けた。
「……権藤君。
君も、本当のことを言ったらどうだ?
君が命懸けで守ろうとした神聖な『規律』について」
阿久津の声は、甘い毒のように権藤の耳に滑り込む。
「安心したまえ。
私は、君がいかに教育熱心で、秩序を重んじる稀有な教師であるか、深く理解しているつもりだ。
今後は私が君の後ろ盾になろう。
君の理想とする、厳格な規律に基づいた教育……。
それを心置きなく実践できる環境を、私なら約束できる」
その言葉は、権藤にとって死刑台の階段を下りるための救いの手に見えた。
一度は貴の真っ直ぐな瞳に砕かれたはずの、権藤の薄汚れた虚栄心。
それが「権力」という名のどす黒い補強材を得て、より歪に、より醜悪な形へと再構築されていく。
(……そうだ。
私は間違っていない。
私は、この強大な力に選ばれた正義なのだ……!)
自分を正当化するための免罪符を手に入れた権藤の瞳に、狂信的な光が宿り始める。
「あー、そう言えば。
そこの女教師たちは、日頃から権藤先生の厳格で熱心な教育方針を妬んでいた、という噂を耳にしたが、
……どうかな?」
阿久津がさらに悪魔の言葉を重ねる。
それは、リサとサオリという二人の教育者としてのキャリアを根底から断絶させるための死刑宣告であった。
「ちょっ、ふざけんなッス!
そんな嘘っぱち、よくも堂々と言えるッスね!」
サオリが激昂し、拳を握りしめてテーブルを叩いた。
「そんな事ありません!
私たちはただ、目の前で起きた事実を……!」
リサもまた、悔しさに唇を噛み切らんばかりに声を上げるが、阿久津はそれらを羽虫の羽音でも聞くかのように聞き流した。
「嫉妬に狂った女二人が、何も知らぬ園児を唆して、清廉な教師を陥れる」
阿久津は芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「……実に恐ろしい。
そして、現代社会では『よくある』話だ。
なあ、園長?
君も、自分の園にそんな不浄な種が紛れ込んでいるのを見過ごすわけにはいかないだろう?」
――沈黙。
阿久津の視線が、獲物を狙う毒蛇のように園長を射抜く。
「そんな教師を雇っている幼稚園では……次の補助金が出るか、わからんなぁ」
阿久津の剥き出しの脅迫に、園長は幽霊でも見たかのように顔を白くし、ただ床の木目を凝視することしかできなかった。
阿久津は満足げに鼻を鳴らすと、最後に、震える権藤へと視線を向けた。
「さあ、権藤君。
君の口から『真実』を話しなさい。
君が、暴力を振るう異常な幼児から、罪なき子供たちを必死に守った。
……その正義の記録を」
権藤の喉が、ゴクリと鳴った。
彼は、自分を軽蔑の目で見つめるリサとサオリから目を逸らし、地獄の蓋を開ける決意をした。
「……は、はい。
……私が、私が見たのは、タカシ君が……年長組の5人を一方的に打ち据えている光景でした。
私は、彼らの命を守るために……
教育者として、やむを得ず、あの子を制止したのです。
……そうです、私は、セレナちゃんを助けたかっただけなんです……ッ!」
その言葉がホールの空気に触れた瞬間、権藤の魂が腐り落ちた音が聞こえた気がした。
吐き出されたのは、あまりにも醜悪な『嘘』だった。
一人の少年が命懸けで守り、一人の少女が福音として受け取った真実を、大人の事情という泥靴で無残に踏みにじった瞬間だった。
その光景を、真は伊達眼鏡の奥にある底知れぬ瞳で、じっと見つめていた。
彼らが自らの首を絞めるための縄を、どれだけ長く、そしてどれだけ高く編み上げていくのかを、一文字も逃さず確認するように。
「……さて。
『客観的な事実』が揃ったようだ。
権藤先生は勇気を持って『真実』を語ってくれた。
醜い嫉妬に駆られた女教師共は当然、明日には退職になるらしい。
……園長、いいね?」
阿久津は完全に勝ち誇り、下卑た笑みを真に向けた。
「もちろん、私たちの子供も『いじめ』なんて酷いことするはずもない。
今回の件は、乱暴者のタカシ君による一方的な暴走。
それを教育者が命懸けで止めた。これが物語の全貌だ。
白沢さん、異存はないな?」
真は、長い沈黙のあと、誰にも聞こえないくらい小さな、けれど絶対的な零度を帯びた声で呟いた。
「……もう一声か……」
それは、獲物が完全に罠の中央へ足を踏み入れるのを待つ、冷酷な狩人の独り言であった。
「阿久津、絶対に後悔させてほしい!」
「権藤の嘘が悲しすぎる……パパ、早く助けて!」
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