1章10話 暴虐の教師とクスノキの下の『will《意志》』
1章10話 暴虐の教師とクスノキの下の『will《意志》』
本日、幼稚園生活最初の山場を終えた後の自由時間がやってきた。
午後の柔らかな陽光が廊下に長く伸び、窓からは元気な園児たちの声が響いている。
本来ならば解放感に満ちた時間のはずだが、貴と茜の二人は、お昼寝明けの混雑を避けてトイレに寄ったために、外遊びへの出遅れを余儀なくされていた。
「タカ君!
早くしないとお砂場が埋まっちゃうよ!」
茜が焦れったそうに貴の手を引き、パタパタと小走りに駆け出した。
「茜、廊下は走ったら危ない……」
貴が『廊下は静かに歩こう』と注意を促そうとした、その刹那。
二人の背後から、空気の密度を一変させるような重低音のダミ声が、雷鳴の如く響き渡った。
「コラァッ!
今、廊下を全力疾走したのは誰だぁぁぁッ!!」
心臓を直接掴まれたような衝撃に、二人は弾かれたように足を止めた。
振り返ると、そこには上下を漆黒のジャージで包み、威圧感という名の防具を纏った岩石のような大男が立っていた。
床がみしりと不吉な音を立てるほどの重厚な足音。
逆光の中に浮かぶその巨躯は、剥き出しの筋肉から「規律」と「罰」という名の冷たい威圧感を放っており、廊下の温度を瞬時に数度下げたように錯覚させた。
「ご、ごめんなさい!
早くお外に出たくて、つい……!」
貴は咄嗟に茜を背後へ押しやり、己の小さな体を「盾」として彼女を隠した。
(……ダメだ。
この人の目……。
話が通じる相手じゃない)
本能的な危険を鳴らす警笛が頭の中に鳴り響く。
貴は深々と腰を折って謝罪した。
4歳児の小さな背中にかかる重圧は、まるで巨大な山を背負っているかのようだった。
「ふむ……。
潔く非を認める態度はよろしい。
だがな……」
男性教諭は、その恐ろしく分厚い手を持ち上げた。
「ルールを破ったという事実は消えん。
体で覚えねば、また繰り返すのがガキというものだ。
罰を受けてもらうぞ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男性教諭の巨大な拳が貴の脳天に容赦なく振り下ろされた。
――ゴツッ!!
「っ……つ……!!」
脳内で閃光が走り、視界がぐにゃりと歪んだ。
4歳児の柔らかな頭蓋にはあまりに重すぎる、鉄槌のようなゲンコツ。
脳を直接揺さぶられたような鈍い痛みが、神経を逆撫でしながら全身へ駆け巡る。
貴は殴られた場所を両手で強く押さえ、膝をついた。
「タカ君……っ!!」
茜が悲鳴を上げ、震える指先で貴の体操着を掴んだ。
(……っ、この人……。
本気で、加減もせずに4歳児を殴ったのか……?)
ズキズキと脈打つ頭痛の余韻に耐えながら、貴は屈辱を噛みしめて顔を上げた。
しかし、悪夢は終わらなかった。
男性教諭の大きな拳が、今度は茜を見据えて再び高く振り上げられたのだ。
「次は、君の番だ。
連帯責任だぞ」
貴は耳を疑った。
自分でもこれほど痛い衝撃を、か細い茜にも与えるつもりなのか。
(……ふざけるな。
茜に、こんな痛い思いを……
絶対にさせない……っ!!)
貴は朦朧とする意識を無理やり引きずり戻し、麻痺した足に力を込めて、茜の前に盾として立ちはだかった。
「ちょっと……待って……ください……」
それでも男性教諭の瞳に慈悲の色はない。
振り下ろされる拳を止める気配は微塵もなかった。
「権藤せんせー!
ちょっと待つッスよー!!」
激突の直前、廊下の角から聞き覚えのある、気の抜けた、けれどどこか鋭い口調が響き、強烈なストッパーとなった。
「……何ですか?
サオリ先生。
これは正当な指導ですが」
権藤は明らかに不機嫌な顔で、割って入ったサオリ先生を睨みつけた。
「指導っつっても、権藤先生のはやりすぎッスよ!
この前、園長先生に厳重注意されたの忘れたッスか?
ルールは大事ッスけど、この子、ちゃんと謝って反省してるじゃないッスか。
そこは器の大きさを見せて許してやるのが、デキる大人ってやつッスよ!」
サオリ先生はスマホを片手に、いつものようにヘラヘラと笑っていたが、その瞳の奥には、教え子たちが傷つけられたことに対する静かな、しかし確かな憤怒が宿っていた。
「子供は体で覚えないと忘れる。
甘やかしは害悪だ」
「そこを言葉で根気よく見守るのが、うちらの仕事ッス。
あんまりしつこいと、マジでスマホの動画ごと園長先生に報告するッスよ?
……今の時代、それは『指導』じゃなくて、ニュースになるレベルの『事件』ッスからね?」
「っ……!!
……失礼する!!」
権藤は顔を真っ赤に染め、サオリ先生を射殺さんばかりに睨みつけると、重い足音を立ててその場を立ち去った。
ドシン、ドシンという不快な響きが廊下の向こうへ消えるまで、そこには澱んだ静寂が居座り続けていた。
「……ふう。
あの先生、相変わらず筋肉が脳みそまで回ってるッスねぇ……。
あ、タカシ君、大丈夫ッスか?」
サオリ先生は権藤の姿が見えなくなると大きく息を吐き、貴の元に駆け寄って殴られた箇所を優しく撫でた。
「……サオリ先生、ありがとうございます。
お陰で茜が無事でした」
貴は痛む頭を押さえながら、感謝を伝えた。
「タカ君!
ごめんね、茜が走ったのに、タカ君だけ殴られて……」
茜の大きな瞳からは、今にも零れ落ちそうな大粒の涙が溢れていた。
貴のシャツを掴む小さな手が、まだ恐怖で小刻みに震えている。
「大丈夫だよ。
あの先生、どっちにしても二人とも殴るつもりだったみたいだし。
僕が先か、茜が先かの違いだけさ」
貴は茜を安心させるように、意識的に穏やかな声で言った。
「権藤先生は年長ゾウ組の担任ッスけど、見ての通り昭和の規律に生きてる化石ッス。
二人とも、廊下では絶対に歩くッスよ!
……ほら、早く行かないと自由時間がなくなるッス。
……もちろん、走らずに早歩きで行くッスよ!」
サオリ先生は不敵にウインクして二人を見送った。
貴は(助けてくれたんだし、あのお昼寝の時の『29人目の敵』の件は水に流そう……)と思った……が。
「お姫様をその身で庇うなんて、マジで最高に決まってたッスよ!
王子様ーー!!」
サオリ先生の特大の冷やかしが廊下に響き渡った。
廊下で遊んでいた他クラスの園児たちが一斉にこちらを振り返り、「……王子様?」「タカシ君って王子様なの?」と、瞬く間にヒソヒソ話の種が撒かれていく。
……やはり、彼女が『29人目の敵』である事実に変わりはなかった。
貴はズキズキと痛む頭を軽く振り、茜と共に園庭へと出た。
「タカ君……まだ、頭痛い?
お砂場で遊ぶのやめて、ベンチでお休みする?」
茜は眉を「への字」に曲げ、申し訳なさそうに貴の顔を覗き込み続ける。
「そうだね。あっちの大きな木の下のベンチで、少しお喋りでもしようか」
無理をして遊んで、辛い表情を茜に見せれば余計に心配をかけてしまう。
貴はあえて茜の提案に乗ることにした。
二人が園庭の隅にある大きなクスノキのそばまで来ると、ベンチの裏に人がいるのが見える。
午後の陽光に、反射して輝く金色の髪に、深く吸い込まれそうな蒼い瞳をたずさえた、水の女神をそのまま幼くした様な少女がいた。
しかし、その瞳は5人の年長組の園児たちに囲まれて、黒く淀んでいた。
「おい!
外人!
日本語が喋れるようになったのかよ!」
「日本にいるなら日本語で喋れよ!」
「喋れないなら、自分の国に帰れよ!」
「そーだ! 帰れ!」「帰れ! 帰れ!」
少女の近くまで歩み寄るにつれ、聞こえてきたのは耳を疑うような差別と暴言の嵐だった。
「っ……!!」
少女は何か反論しようと小さく口を開きかけたが、言葉にならないまま、震える肩を抱いて下を向いた。
その目には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。
一瞬で状況を、その醜悪な構図を把握した貴の脳内で、何かが音を立てて切れた。
彼は痛みを忘れ、弾かれたように駆け出すと、少女と年長組の間に割って入った。
「男の子が大勢で、女の子をいじめるなんて、最高にカッコ悪いよ!
今すぐ彼女に謝りなよ!」
その声には、4歳児とは思えぬ鋭い憤りが宿っていた。
「……ビックリした。
権藤先生かと思ったぞ」
「なんだよ、こいつの名札……。
ウサギ組だぞ!
外人と同じ年少かよ!」
「邪魔だ、チビ!
あっち行ってろ!
俺達はこの外人と『お話』をしてんだよ!」
年長組のリーダー格は、最初は貴の迫力に驚いたものの、相手が年少だと分かると露骨に舐めた態度で嘲笑った。
「『お話』っていうのは、大勢で一方的に悪口を投げつけること?
……それは、この世界じゃ『いじめ』って呼ぶんだよ。
もう一度言うよ。今すぐに、彼女に謝りなよ!」
貴の言葉は静かだが、その重みは年上の少年たちをじわじわと圧迫していく。
「お前、年少のくせに生意気なんだよ!!」
リーダー格の少年が、逆上して貴の胸元を強く突き飛ばした。
自分より遥かに体格の大きい年長児の力に抗いきれず、貴は激しく尻もちをついた。
「タカ君!」
茜が叫び、必死の形相で駆け寄ってくる。
「あははは!
お前、女の子に守ってもらうのかよ!
弱虫!
恥ずかしくないのかよ!」
取り巻きの園児たちが指を差し、貴を汚い言葉で罵る。
「うるさい!!
タカ君ならあんた達なんて、本気を出せばコテンパンなんだから!!」
茜は貴が貶されたことに激昂し、思わず挑発的な言葉を叫んでしまった。
「なんだと?
お前も生意気な女だな!」
取り巻きの一人が、貴の側でしゃがみ込んでいる茜に向かって、乱暴に足を振り上げた。
急な暴力の予感に、茜はギュッと目をつむって体を固くした。
……数秒経っても、衝撃は来なかった。
おそるおそる片目を開けると、そこには、貴が茜の前に滑り込み、小さな両腕をクロスさせて年長児の蹴りを真正面から受け止めている姿があった。
「っ……ぐ……!!」
鈍い衝撃が腕の骨を伝わる。
4歳児の体には重すぎる一撃だったが、後ろに守るべき茜がいる限り、彼は一歩も退くわけにはいかなかった。
「タカ君っ!!」
茜がその痛ましい光景を見て悲鳴を上げた。
「……大丈夫だよ。ちゃんとガードしたから」
貴は受け止めた腕を茜から隠すようにして立ち上がると、再び五人の前に仁王立ちになった。
「……茜」
貴は茜の安全を最優先し、同時にこの事態を公にするために、先生たちを呼んでくる様に目配せをして合図を送った。
茜は瞬時に貴の意図を察した。
一瞬……彼を一人残すことに激しい葛藤を見せたが、貴の揺るぎない瞳に背中を押され、全力で園舎へと走り出した。
「……これで、最後だよ。
今すぐにこんな卑怯な真似を止めて、彼女に謝るんだ。わかったか?」
貴はセレナだけでなく、茜にも危害を加えようとした彼らに対し、ついに「堪忍袋の尾」を切り捨てた。
その怒気が全身から滲み出し、貴の周囲の空気は、真夏のアスファルトのように陽炎となって揺らいでいた。
「……謝れって、言ってるんだよ。聞こえないのか?」
低く、温度を失った漆黒の声。
その瞳に宿った、絶対零度の殺気にも似た怒りに、年上の園児たちが本能的な恐怖を感じ、思わず一歩後ずさった。
「……っ、うるさい!
うるさいんだよ!
お前ら、この生意気なガキをボコボコにしてやるぞ!!」
リーダー格は自らの恐怖をかき消すように叫び、取り巻きたちに襲撃の号令を下した。
――――――
今までのやり取りの間、セレナはただ呆然と立ち尽くしていた。
園庭の隅に隠れて、お迎えの時間が来るまで透明な石のように過ごそうとしていたのに、昨日の五人組にまたも見つかり、理解不能な悪意の礫に晒された。
反論しようとしても、私の声はこの国の彼らには届かない。
昨日のように、何を言っても笑われるのが怖くて、喉の奥が震えて声が出せなくなってしまった。
「Help me(助けて)」と言いたい。
けれど、この広い世界で、私の「助けて」を受け取ってくれる人なんて、一人もいないんだ。
そう思って、視界が真っ暗な絶望に染まりかけた時。
私の前に、光が現れた。
私と同じくらい、小さくて細い背中。
それなのに、立ちはだかる彼の姿は、咆哮する五人の巨漢たちよりもずっと大きく、神々しく見えた。
暴力の嵐の中で、たった一人で私の盾になろうとするその横顔が、暗闇を切り裂く一筋の雷光のように私の網膜に焼き付いた。
やっぱり、彼が何を喋っているのかは分からない。
けれど、目の前の情景がすべてを伝えてくれる。
彼は私のために怒り、理不尽に立ち向かい、五人組を厳しく糾弾してくれている。
突き飛ばされても、蹴りを受け止めても、彼は毅然としたまま一歩も引かない。
自分より小さな女の子を逃がし、彼は再びたった一人で多勢に立ち向かう。
……信じられない。
会ったばかりの、言葉も通じない私のために、どうして、どうしてそこまでできるの?
その時、彼が発する『怒りの響き』が、私の記憶の底に眠っていた旋律を揺り起こした。
(……どうして?
会ったこともないはずなのに、この子の声、この強さを、私は知っている……)
真っ暗な絶望の部屋にいた時、一度だけ感じた『魂の熱』が、今、目の前の彼から溢れ出している。
その不思議な既視感に、凍てついていた私の指先が、じんわりと熱を帯び始めた。
だが、現実は無情にも最悪の瞬間へと突き進む。
「……っ、うるさい!
お前ら、やっちまえ!!」
リーダー格の叫びを合図に、五人が一斉に拳を固め、彼一人を飲み込もうと怒涛の如く雪崩れ込んだ。
「Ah……っ……!!」
視界が恐怖で白く染まる。
私のせいだ。
私がここにいたせいで、あの美しい光が、野卑な暴力に踏みにじられてしまう。
嫌だ。
もう、私のせいで誰かが傷つくのは見たくない!!
凍りついていた私の喉が、熱い涙と共にせり上がってくる。
喉の奥を塞いでいた『沈黙』を、必死に食い破るようにして、私は絶叫していた。
「Please! Please, run away!!(お願い! お願いだから、逃げて!!)」
――――――
「Please! Please, run away!!(お願い! お願いだから、逃げて!!)」
少女の、喉が張り裂けるような悲痛な叫びが、貴の耳を鋭く貫いた。
貴は、眼前に迫る五つの影を、あやすべき幼児を見るような冷徹な視線で捉えたまま、背後のセレナの方へと優しく首を巡らせた。
その瞬間、氷のようだった彼の表情が、まるで雪解けの野に咲く花の如く、ふわりと温かく綻んだ。
その瞳には、先ほどまでの荒ぶる怒りは微塵もなく、ただ真っ直ぐで透明な『意志』だけが宿っている。
「Don't worry. I 『will』 help you.(大丈夫。僕が君を、必ず助けてみせる)」
流暢な英語――特にその『Will(意志)』という一語は、魂の底に直接響くような、力強い宣言だった。
――――――
その言葉が耳に届いた瞬間、セレナの心臓が、まるで鐘を打ち鳴らしたかのように大きく跳ねた。
『Will(意志)』――。
(……あッ!!
この声、この響き……間違いない……!!)
あの時、出口のない真っ暗な部屋に、暴力的なまでの希望を伴って射し込んできた、あの力強い歌声。
何度も、何度も、私の魂を底から揺さぶった、あの『Will』と同じだ。
ずっと遠い空の向こうにいると思っていた『光の主』が、今、目の前で私に笑いかけている。
「にぱーっ!」
太陽のような眩しさを伴って、彼は笑った。
その不敵で優しい笑みを見た瞬間、セレナは自分が極限の危難の中にいることも忘れ、ただ、その『王子様』の輝きに見惚れてしまった。
彼がいるなら、もう大丈夫だ。
理屈を越えた確信が、彼女の涙を乾かしていった。
――――――
「権藤、絶対に許さないッス……!」
「タカシ君の英語、格好良すぎて痺れた!」
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