第9章:こころ、あるいは足元の罠
「……美しい。」
新宿の片隅。
出版社の資料室前にて、夏目金之助は一台の自転車を前に、静かに立ち尽くしていた。
細い車体。
黒く輝くフレーム。
薄いタイヤ。
今まで苦楽を共にしたママチャリとは、まるで別種の生き物である。
「これが……吾輩の鉄馬だわ。」
編集者は腕を組みながら頷いた。
「先生、ついに買いましたね。」
「うむ。」
金之助は誇らしげに胸を張る。
「吾輩が令和へ来て初めて、己の力のみで手に入れた文明の利器だわ。」
「三万円の中古ですけどね。」
「値段を言うな。」
金之助は眉をひそめた。
「三万円ではない。」
「?」
「吾輩の門(痔)と誇りと汗、その全てを変換した三万円だわ。」
編集者は苦笑した。
「先生、相変わらず表現が重いっす。」
⸻
数日後。
金之助はさらに進化していた。
いや。
正確には、進化させられていた。
「先生、ロードならビンディングですよ。」
編集者が差し出したもの。
奇妙な靴。
裏側には、金属の突起。
「……何だこれは。」
「ペダルと靴を固定するやつです。」
金之助の顔色が変わった。
「固定?」
「はい。」
「足を?」
「はい。」
「鉄馬に?」
「はい。」
沈黙。
「……それはつまり。」
金之助はゆっくりと後退した。
「吾輩を自転車の一部にする呪術ではないか。」
「違いますってw」
「笑うな。」
しかし。
数分後。
カチッ。
右足。
カチッ。
左足。
金之助は目を見開いた。
「……。」
「先生?」
「……合体した。」
「え?」
金之助はロードバイクを見下ろした。
「吾輩と鉄馬が合体したのだわッ!!」
その瞬間。
風が吹いた。
ペダルを踏む。
進む。
軽い。
速い。
ママチャリでは感じなかった世界。
まるで自分の身体が延長されたかのようだった。
「なるほど……。」
金之助は感動した。
「道具とは、人間を縛るものではない。」
「はい。」
「人間の可能性を広げるものなのだわ。」
編集者も少し感動する。
「先生、いいこと言いますね。」
だが。
現実は甘くなかった。
数分後。
赤信号。
金之助は停止する。
そして気付いた。
「……。」
「先生?」
「編集者君。」
「はい。」
「足が。」
「?」
「外れん。」
「あ。」
「外れんのだわッ!!」
必死に足を捻る。
右。
左。
しかし鉄馬は主人を離さない。
まるで永遠の契約を結んだかのように。
「おのれッ! 吾輩は主人だぞ! なぜ貴様に拘束されねばならんのだ!」
通行人が振り返る。
大島紬……ではない。
今はピチピチのサイクルウェア。
髭面の文豪が、高級そうな自転車の上で格闘している。
そして。
ゆっくり。
ゆっくり。
倒れる。
ドサッ。
静寂。
数秒後。
編集者が駆け寄る。
「先生、大丈夫ですか!?」
金之助は地面を見つめた。
膝。
無傷。
自転車。
無傷。
しかし。
心。
粉々。
「……。」
「先生?」
「吾輩は。」
金之助は呟いた。
「自転車に乗ったのではない。」
「?」
「自転車に敗北したのだわ。」
⸻
その日の夜。
金之助はSNSに一枚の写真を投稿した。
倒れたロードバイク。
そして真顔の自撮り。
文章は一言。
『人は、自ら作った便利な道具によって、ときに自由を奪われる。これを世間では文明開化と呼ぶらしい。』
数分後。
通知。
一件。
十件。
百件。
そして。
『先生、それビンディングあるあるですw』
『初心者全員通る道w』
『漱石先生ロード乗ってて草』
金之助は画面を見つめた。
「……また草か。」
だが。
今回は不思議と腹が立たなかった。
なぜなら。
その「草」の中に。
かつて明治の新聞で感じたものと同じ、
人々が文章に反応する熱があったからだ。
金之助は静かにスマホを置いた。
「なるほど。」
「令和の文壇とは……このような場所なのだわ。」
しかし。
次の通知。
『この人、本物の漱石じゃね?』
その一文を見た瞬間。
金之助の目が鋭く光った。
「……。」
「ついに、吾輩を疑う者が現れたか。」
文豪・夏目金之助。
令和の電子文壇へ。
本格参戦の時である。




