第10章:草を生やす者、根を枯らされる
「……おのれ。」
夏目金之助は、スマホの画面を睨みつけていた。
そこに並んでいるのは、数え切れぬほどの短い言葉。
しかし、そのどれもが、吾輩には未だ理解し難い。
『草』
『ワロタ』
『乙』
『それな』
「……。」
金之助は眉間に皺を寄せた。
「編集者君。」
「はい?」
「令和の人間は、なぜ会話の最後に植物を植えるのだわ。」
編集者は吹き出した。
「先生、それまだ言ってるんですかw」
「笑うな。」
金之助は真剣である。
「先ほどから皆、吾輩の文章を読むたびに『草』を生やしている。これはつまり、吾輩の言葉が人々の心に森林を作っているという理解でよいのだな?」
「違います。」
即答だった。
「じゃあ何だ。」
「面白いって意味です。」
「……。」
金之助は画面を見る。
そこには、先日の投稿。
『人は、自ら作った便利な道具によって、ときに自由を奪われる。』
それに対する大量の反応。
『漱石構文すげえ』
『本当に本人だったら面白すぎる』
『でも古臭い文章だよね』
その一文。
金之助の指が止まった。
「……古臭い。」
編集者が顔を見る。
「先生。」
しかし金之助は怒鳴らなかった。
静かに画面を見つめる。
「なるほど。」
「?」
「これが令和の批評か。」
「まあ、そうですね。」
「明治にも存在した。」
編集者が笑う。
「評論家ですか?」
「そうだ。」
金之助は頷いた。
「ただし、明治の評論家は新聞を使った。」
スマホを見る。
「令和の評論家は、この小さな板に住んでいるのだな。」
その時。
通知音。
新しい返信。
『漱石気取りのおじさん痛すぎw』
『今の時代、文豪とか需要ないでしょ』
『AIの方がマシな文章書ける』
金之助の目が細くなる。
「……。」
「先生、無視しましょう。」
編集者が言う。
「ネットの人なんで。」
だが。
金之助はスマホを手に取った。
「否。」
「先生?」
「吾輩は作家だ。」
「はい。」
「批評される覚悟なくして、文章を書く資格などない。」
編集者が黙る。
金之助はゆっくり文字を打ち始めた。
時間はかかった。
何度も打ち間違える。
しかし。
一文字ずつ。
文豪の指が、令和の画面を叩く。
投稿。
「古いと言われることを恐れる者は、新しいものもまた作れない。なぜなら新しさとは、昨日まで存在しなかった古さの始まりだからだ。」
数秒。
反応なし。
十秒。
一分。
編集者が言う。
「先生、たぶん負けです。」
その瞬間。
通知。
一件。
十件。
百件。
そして――
『これ誰が書いたんだよ』
『普通に刺さる』
『AIじゃ出せない文章』
『この人、本当に漱石なんじゃ……』
数字が伸びる。
金之助は画面を見つめた。
「……。」
編集者が叫ぶ。
「先生! またバズってます!」
金之助は首を傾げた。
「ばず?」
「人気爆発って意味です。」
「爆発……。」
少し考える。
「ならば、これは大砲ではないか。」
「違います。」
「では何だ。」
編集者は笑った。
「令和の新聞みたいなものですよ。」
金之助は静かにスマホを見る。
かつて自分は新聞で作品を発表した。
読者から手紙が届いた。
今は。
一瞬で。
見知らぬ何万人もの人間へ届く。
「……恐ろしい道具だわ。」
「怖いですか?」
金之助は少し笑った。
「いや。」
画面に映る無数の反応を見る。
「面白いのだわ。」
その夜。
夏目漱石のアカウントには、新たな名前が付いた。
――令和文壇の異物。
本人確認不能。
しかし文章だけは、本物。
夜が明けるその瞬間、金之助の知らぬところで、その「異物」の文章はさらなる大きなうねりを引き起こそうとしていた。




