第11章:黒き十字と、黒き板の密書
静まり返った夜の資料室に、無機質な電子音が響いた。
ピコン。
夏目金之助は、愛用のスマホ――黒曜石の如きiPhone15の画面を一瞥し、不快感を露わにするように美しい眉をひそめた。
「また何かの呪文か。この板は、一日のうちに何度吾輩の神経を逆撫ですれば気が済むのだわ」
ぼやく金之助の背後から、編集者がのそりと顔を突っ込んでくる。
「あ、先生、それ通知っすよ。しかも……お、これ」
編集者の目が、にわかに輝いた。
画面に表示されていたのは、見慣れぬアイコンと一つの文字。
【X 新しいメッセージがあります】
「えっくす……?」
金之助は怪訝そうに首を傾げた。
「あの『草』を生やす平和な牧場のような広場(SNS)の、一体どこに十字架があるというのか。サタンの陰謀か、それとも文明開化の新たな罠か」
「いや、サタンとかじゃないです。DMってやつっすよ」
「でぃーえむ?」
「ダイレクト・メッセージの略です。要するに、不特定多数の目に触れない、個人間の密書みたいなもんですね」
金之助は、その説明を聞いてハッと息を呑んだ。
「密書……とな? つまり、諜報のやり取りか! 吾輩を令和の暗黒社会に引きずり込もうという、裏社会からの脅迫状ではないのかッ!」
「違いますって。そんな昭和のヤクザ映画みたいな展開にならないですから。まあ、読んでみてくださいよ」
半信半疑のまま、金之助は恐る恐るその画面をタップした。
表示されたのは、整えられた丁寧なフォントの文章だった。
『突然のご連絡失礼します。
SNSでの先生の御投稿を拝見し、その圧倒的な筆力と、現代社会を鋭く抉るユーモアに心底感銘を受けました。
弊社で書籍の編集をしております佐伯と申します。
もし可能でしたら、一度お話を伺えませんでしょうか。
ぜひ、令和の世における新しい物語を、弊社から世に問い出したいのです。』
資料室の空気が、ピタリと止まった。
金之助は、画面の文字を上から下へ、そして下から上へ、二度、三度と舐めるように読み返した。
その沈黙に耐えかねたのか、隣の編集者がそっと声を漏らす。
「……先生?」
金之助はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、かつて明治の文壇を震え上がらせた、鋭い光が宿っていた。
「編集者君。」
「は、はい!」
「これは……罠だな?」
「いやガチのスカウトですよ!! 出版社からの正式なオファーじゃないですか!」
編集者は自分のことのようにスマホを奪い取り、発信元のプロフィールを確認して叫んだ。
「ほら見てください! 実在する大手出版社の編集部アカウントじゃないですか! 先生、バズったの冗談じゃなくてガチで仕事になってますよ!」
しかし、金之助は静かに首を横に振った。
彼は窓の外の夜空を見上げ、遠い目をする。
「かつて吾輩は、原稿を分厚い封筒に包み、下駄を鳴らして郵便局へと走った」
「……はあ」
「編集者からの返事を待つ数日間は、まるで地獄の釜の底にいるかのような焦燥感に満ちていたものだ。届いた手紙の封を切る時の指の震え……あれこそが、文学と人間の格闘の証であったのだわ」
金之助は手元の薄っぺらい黒い板を見下ろした。
「それがどうだ。今はどうだ。この小さな、冷たいガラスの板を指先でチョイと突くだけで、見知らぬ他人の、それも金儲けを企む出版の徒からの密書が、一瞬で我が手元に届く」
「便利でいいじゃないですか、タイムラグなくて」
「便利すぎるのだわッ!」
金之助は机をドンと叩いた。
「文明の利器とは、人間の情緒を削ぎ落とす毒薬に他ならん! 手紙を待つ間のあの浪漫はどこへ行った! 一瞬で連絡がつくなど、せっかちな猿どもの発想だ!」
怒りをぶちまけた後、金之助はふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「だが……まあ、よい」
「いいんすか」
「悪くはない。この板が、かつて吾輩の原稿を載せた『紙』の代わりになるというのなら、この令和の編集者とやらが、どのような手管で吾輩の機嫌を取るのか、一度会って吟味してやろうではないか」
金之助は、再びスマホの画面に視線を戻した。
フリック入力に苦戦しながらも、震える指で返信の文字を打ち始める。
『――承知した。明日、指定の場所へ赴こう。ただし、茶の用意と、あの甘美なる宝石箱(チョコあ〜んぱん)の準備をしておきたまえ』
送信ボタンを押す。
一瞬にして、文字の海へと消えていくメッセージ。
「……ふっ、実に味気のないことだわ」
そう呟きつつも、金之助の口元には、隠しきれない文豪としての誇らしげな笑みが浮かんでいた。
令和の電子文壇、その中心へと、夏目金之助の足音が静かに響き始めようとしていた。




