第8章:中古の鉄馬には、前の主人の魂が宿るのだわ
「……痛い。」
夜の資料室。
夏目金之助は、椅子に腰を下ろした瞬間、静かに天を仰いだ。
「……痛いわ。」
もはや怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、そこには純粋なる人体からの抗議があった。
「先生、またですか?」
編集者が呆れた顔で覗き込む。
「何度も言いますけど、ママチャリで新宿中を走り回る人、今どきそんなにいませんよ」
「何を言うかね。」
金之助は、誇らしげに胸を張った。
「吾輩は明治の文豪だぞ。倫敦の街も歩いた。神経衰弱とも戦った。そして今は、この令和の坂道と戦っているのだわ。」
「いや、先生の場合、坂道よりサドルとの戦いですよね」
「黙りたまえ。」
金之助はスマホの画面を見た。
そこには、配達報酬の記録。
一件。
また一件。
少しずつ積み重なった数字。
「……増えている。」
「何がです?」
「金だわ。」
編集者は笑った。
「そりゃ働いてるんだから増えますよ」
「違う。」
金之助は真剣な顔で画面を見る。
「これは単なる数字ではない。」
「?」
「吾輩が尻の痛みに耐え、雨に打たれ、令和の猿どもの冷たい置き配指示に耐えた証だわ。」
編集者は少し黙った。
「……先生、意外とちゃんと働くんですね。」
「何だその失礼な感想は。」
金之助は鼻を鳴らした。
「吾輩は物書きである前に、一人の人間だわ。食わねば死ぬ。金がなければ宝石箱(チョコあ〜んぱん)も買えぬ。」
そこへ。
スマホの画面に表示された広告。
中古自転車販売店。
そこには、一台の銀色の自転車が映っていた。
細い車体。
細いタイヤ。
ママチャリとは比べ物にならない流麗な姿。
「……何だ、これは。」
編集者が覗き込む。
「あ、それロードバイクっすね。」
「ろーど……ばいく?」
「速く走るための自転車です。」
金之助は画面を凝視した。
「速く……」
その言葉に、胸が高鳴った。
今までのママチャリ。
重い鉄の車体。
坂道では唸り、サドルは門を攻撃する。
だが、これは違う。
まるで鳥の骨組みのように軽い。
「……美しい。」
編集者が驚く。
「先生、そこに反応するんですか。」
「筆もそうだ。」
金之助は呟く。
「良い道具は、使う者の魂を引き出す。」
画面の中の鉄馬を見つめる。
「これがあれば……」
「?」
「吾輩は、もっと遠くへ行けるのではないか。」
その夜。
金之助は決意した。
ママチャリを捨てるのではない。
逃げるのでもない。
己の力で、新しい鉄馬を手に入れる。
翌朝。
新宿。
「遅い!」
「重い!」
「尻が割れる!」
文句を言いながらも、金之助はペダルを踏む。
一件。
二件。
三件。
報酬が積み上がる。
スマホの数字が少しずつ増える。
一万円。
二万円。
三万円。
そして――
数週間後。
中古自転車店。
店員が言った。
「これなら、先生の予算でも買えますよ。」
そこにあったのは、一台の中古ロードバイク。
傷はある。
新品ではない。
だが、金之助には分かった。
「……前の持ち主の魂が宿っている。」
店員が苦笑する。
「いや、ただの中古です。」
「それを言うな。」
金之助は静かにハンドルへ手を置いた。
「物には歴史があるのだわ。」
編集者が笑う。
「先生、それじゃあ名前付けます?」
金之助は少し考えた。
そして、堂々と言った。
「決めた。」
「何です?」
「吾輩の新たなる鉄馬だわ。」
その日。
夏目金之助は、生まれて初めて自分の力で買った令和の鉄馬を手に入れた。
ただし。
店員の説明を聞き忘れていた。
ロードバイクには、もう一つ。
明治人の誇りを粉砕する、恐るべき文明の仕掛けがあることを。




