驚きと、喜びと(1)
騒がしくはあるものの、フィリアスにとって酷く居心地の良い時間を全くもって唐突に打ち壊したのは、部屋中に大音量で響き渡る扉の開閉音だった。
フィリアスの首にしがみついていたミルフェリアも、それを眺めるヴィーツェルアも、そして、三人の様子を面倒そうに。けれど少しだけ面白そうに見ていたジェラルディアスも、皆一様に動きを止めて先程ミルフェリアとヴィーツェルアが入室してきた時より余程の音を響かせた元凶である扉へと丸く見開いた瞳を向けた。
どくん、と心臓が跳ねる。
自分の鼓動なんて普段全く気にしないというのに、こういう時ばかりはやけに煩く響く。
「…嘘…」
ひゅう、と上手く酸素を取り込めない侭に生み出した声は、笑ってしまうほどに掠れていて、誰の耳にも届かなかったかもしれないが、今はそんな事に気を払う余裕すらない。
嘘。何故。どうして。
「な、まさか……!」
絶句しているのはフィリアスだけでは無い。
怠惰気味に机へしだれかかっていたジェラルディアスは、まるで背を叩かれたかのように勢い良く椅子から立ち上がったし、ミルフェリアは可憐な唇を両手で押さえて綺麗な瞳を丸々と見開いている。
冷静沈着なヴィーツェルアでさえも、思わぬ“訪問者”の姿に絶句するばかりだ。
「――フィリ…ッ」
嗚呼、もうだめだ。
目の奥がジン、と熱くなると、忽ちに視界がぼやけ始める。
普段早々に泣く程泣き虫でも無い筈だったのだが、ここ数日で随分と泣いている気がした。
ぼやけた視界でも、はっきりと分かる太陽のように煌く金の髪。
美しい青金石の瞳を持つ人を、フィリアスは一人しか知らない。
まるで花に蝶が惹かれるように椅子から立ち上がり、ふらりとその声へ近付いたフィリアスを迎えたのは、力強く優しい腕と、広い胸板と、そして懐かしい香りの持ち主だった。
泣きそう。いや、もう泣いている。
混乱の余り泣き笑いな上、恐らくそれは酷い泣き顔を晒しながら、フィリアスは間近から見下ろしてくる青金石色の瞳を見上げた。
「…イク、ス?」
「フィリ」
ラティリカ王国第二王子。
フィリアスと同じく精霊を見、精霊と想いを交わす稀人。
そして、上位魔導師になるという約束を交わした、大切な人。
「イクトゥース殿下が、何故…」
王族の一人が供も連れずに一人で、しかも唐突に現れる事自体早々にしてあるべきでは無いのだが、更に驚くべきことにこの国の第二王子は一人の少女をしっかりと抱き締めていた。
それが、単なる挨拶では無い事くらい、この場に居る全員が一目見ただけでも分かる。
「怪我は、してないか」
「…うん……うんっ…」
優しくも、気遣わしげな言葉にフィリアスは何度も頷きながら、次第に声が震え始めるのを止める事が出来なかった。
その震えは指先から肩を、背を、全身を駆け巡り、自分では御する事が不可能な程に迄広がって、軈て嗚咽となって零れ落ちる。
久し振りに見た顔と、温かな手が、緊張に強張っていた心を緩々と解してゆく。
怖かった。
とても、怖かったのだ。
ぼろぼろと頬を伝い、顎から高価な衣服に落ちてゆく涙を温かくてフィリアスよりも大きな指先で拭いながら、もう大丈夫だよ、と小さく囁いた声にフィリアスは余計涙を零した。
●●●●●
「成程、君がどうしても会いたいという方は殿下だったのか」
「だからどの方なのか教えて下さらなかったのですね、お姉さま!」
ああ、今すぐにこの空間から消え去りたい。
感心と呆れの入り混じった表情をするヴィーツェルアは、まだどうにでも対応できるのだ。
問題は、陶器人形のように滑らかで整った白い頬を薔薇色に染め、両手を胸の前で組む麗しい少女…ミルフェリアである。可憐な唇からほうっと、甘い吐息を吐き出してどこか夢うつつな眼差しを虚空へと向ける姿は、知らぬ者が見たら恋する天使と見紛うばかりの美しさなのだが。
先程からその視線がフィリアスへ頻繁に向けられているのは、気のせいではあるまい。
根掘り葉掘り、じっくりと聞き出したそうなミルフェリアを、それ以上騒がないように纏う雰囲気と咎めるような視線で何とか止めてくれているヴィーツェルアが今は有り難いが、それも何時までもつのやら。
今現在、ミルフェリアの目下の興味対象であるイクトゥースは、先程ジェラルディアスと共に部屋を出て行ってしまった。
恐らくは、王城から一人で、しかも何の前触れも無く公爵邸へと現れたイクトゥースの対応だとは思うのだが、その辺りは一介の一般市民であるフィリアスには分からない。
けれど、どちらでも良いから早く帰って来て欲しいと切実に願う事が罰あたりでは無い事くらい、痛い程の視線を受け続けてみれば誰しも思うだろう。
悪い事をしたつもりも、されたつもりも無いのだけれど。
久々に人前で涙した事も相俟って、胸中から湧き起こる言い知れない気まずさと気恥ずかしさを隠す為に、すっかりと温くなった珈琲へ口を付けたフィリアスは、けれどたっぷりの砂糖菓子を含んだ錯覚に陥る甘い甘い声に、思わず含んだばかりの珈琲を吹き出しそうになった。
「お姉さま、殿下と恋仲でいらっしゃるのですね!」
「ぐっ、こいなかっ……!?あ、あのね、ミルリィ、ちが……」
「イクトゥース殿下も精霊の愛し子でいらっしゃいますし、小さな頃にお姉さまと出会われたなんて……ああ、素敵……」
駄目だ、聞いてない。
年頃の少女らしく、色恋の話に目のない彼女へ今何を言ったとしても、フィリアスの声はミルフェリアに全く届かないことは誰が見たとて明瞭だった。
ううう、頭痛までしてきた。そういえば頭を打っていたし。
今更になって痛み出した頭部に片手を当てて、フィリアスは深い溜息を漏らした。あんまり情けない顔をしていたのか、一人できゃっきゃと盛り上がるミルフェリアに辟易したのか、ヴィーツェルアも苦虫を噛み潰したように押し黙っている。
「……なんだ?先程まで喧しかったのが、妙に静かだな」
奇妙な沈黙が降りた室内の空気を一変させたのは、何時の間にか戻って来ていたらしいジェラルディアスだった。
盛り上がる一人と、陰鬱な二人の沈黙に軽く眉をひそめ、奇妙そうな眼差しで室内を見渡す。今のフィリアスにとって、そんな視線ですらも救世主のように感じられた。
「ジェイ!随分時間が掛かっていたようですけど……」
嬉々として椅子から立ち上がり、軽く両手を広げて歓迎の意すら示しながら弾んだ声すら出して見せる様子は、ジェラルディアスからしてみても奇妙に映ったらしい。
ピクリ、と柳眉を軽く跳ねさせ、物言いたそうな眼差しをフィリアスへと向けるが、知った事ではない。今は、いかにして噂好きの少女が向けるだろう質問の嵐がくる前に、この危機を乗り越えるかが肝心なのだ。
それに、勝手に王城から抜け出して来たのかもしれないイクトゥースの事も気になる。
「ああ、心配無い。 王城へ連絡を取っていた故、多少遅くなった……執務中、急に転移魔法を使って姿を暗まされたそうだ。 矢張り、王城はてんやわんやだったが」
イクトゥースもまた、フィリアスと同じく精霊と意思を交わす者であるが為に、高等連携魔法と呼ばれる自分を任意の場所へと転送する魔法を織り出すが、呪文を使用する魔導師達は本来ならばそう易々と使えない魔法なのだ。
さして魔法に精通していない使用人達なら、尚更にきっと突然“消えた”ように見えたことだろう。すわ誘拐かと大騒ぎになる様子が容易に想像できて、思わずフィリアスは苦笑いを浮かべた。
「――後で皆には謝っておくさ。 執務よりも、大切な事があったからね」
「……イクス」
ジェラルディアスの背後から、スルリと室内へ滑り込んできたイクトゥースに反省の色は微塵も無い。むしろ、悪戯が成功した子供のように、青金の瞳を輝かせて小さく笑っていた。
そういえば、幼い頃“聖域の森”で遊んでいた時は、よく悪戯をされたものだなあとしみじみ追憶に浸っていたフィリアスは、慌てて緩みかけた口元を引き締めた。
いかんいかん、イクトゥースは王族なのだ。何があっても一人で出歩いて良い筈は無い…のだが、やっぱり会えた事は嬉しくて、ぼそぼそとした反論になってしまった。
「だ、……だからって、だめよ。 何があるか分からないのに」
「フィリ」
「それにっ、どうしてこのお屋敷に居る事知ってるの。 まだ手紙だって書いてないし……」
「まあ、殿下とお手紙のやり取りをしていらっしゃるのね!ますます素敵だわ!」
「……ミルフェリア君」
うああああ、しまったあああ。
ミルフェリアから、後で追及されそうな事を自分で増やしてしまった。
ヴィーツェルアが嗜めてはくれるが、お花畑の幻覚さえ見えそうな程にキラキラと瞳を輝かせている少女に、聞いている様子は全くない。
ええい、こうなればもうヤケだ!
聞ける事は今のうちに聞いておこう。
「君を守護している精霊達はとっても心配性なんだよ。 君は気付いていないようだけど」
「……はい?」
平然と、サラリと、とんでもないことを言う王子様に、室内へ暫しの沈黙が満ちた。
ややあって、凝固していたフィリアスは何とも間抜けな声を漏らす。
つまり、つまりである。
大体の事はイクトゥースに筒抜けだったということか!?
今なら顔で目玉焼きが出来るかもしれない。
あれやこれやの過去に悶死しそうなフィリアスを傍目に、ヴィーツェルアが納得顔で頷いた。
「成る程、それで私達しか知り得ない筈の、フィリアス君の居場所が分かったという訳ですね。 しかしながら殿下、何故貴方様ともあろう御方自らが参られたのですか」
「……一つは彼女の無事をこの目で見る為。 もう一つは、“月代の君”の確認と…――」
「王立魔導学院への入学許可を伝えに」