優しい朝(2)
フィリアスは笑顔を固まらせた。"ロートリゲン"と言ったかこの人は?
余り貴族の名等に詳しくもない一般市民のフィリアスですら、聞いた事の有る家名。
「ろっ、ろろろろろろーとりげ……!?」
「驚きすぎだろう。 お前が名を言えと言ったのに」
椅子から軽く仰け反り、露骨に驚くフィリアスが面白いのか少し瞳を細めてテーブルに片肘を着くと、ジェイ……ジェラルディアスは意地悪気に口角を持ち上げて見せた。だって、ロートリゲン家と言えば、王家の次に位が高いと言われている公爵家で、古くからの大貴族ではないか!
とてもではないが、一般市民でも下っ端に位置するフィリアスは、普通なら一生のうち一度でも会う事も、ましてやこうやって食事を共にする機会も無い筈の、雲上人である。
まさか此処は、ロートリゲン一族の屋敷になるのだろうか。
フィリアスは軽く意識が飛ぶ感覚を覚えた。
王都での追い掛けっこから誘拐されて、ベルベリトルティリゥスを召喚されて、主になって――目が覚めたら公爵家のご子息と食事を一緒にする羽目になっている。
この部屋に比べると、物置にもならない自分の小さな部屋が、酷く恋しい。奮発して買った少々金額の張るとっておきの紅茶を淹れて、読みかけの本を片手に、窓際へ毛布を持ち込んで月明かりの下、精霊達と穏やかな時間を過ごしたい。
儚い願いすらも、此処数日突拍子も無い出来事の連続で叶えられておらず、フィリアスは心中でハラハラと涙を零したが、まさか大貴族のご子息であるジェラルディアスの前で其の様な事が出来る筈も無く、幾度か唇を開閉させるのみであった。
市場ではフィリアスを毛嫌いしていたというのに、森での一件を隔てて目を覚ましてみれば今の現状。知らなかったとはいえ、数々の不敬を罪状にしで生皮剥がれる前に、とジェラルディアスが取り計ってくれた最後の食事かもしれない……などと、陰鬱な思考に陥り、今のフィリアスは、酸欠過多で今にも息絶えそうな魚よりも、酷い顔をしているに違い無かった。
「お前はコロコロと良く表情が変わるな。 何を考えている?」
「いえっ、するなら一思いにと思いまして……」
「何?」
「な、なんでもありませんっ!」
しまった。顔に出ていた。
先程からしげしげとフィリアスの表情を見ていたジェラルディアスの声でフィリアスは我に返ると、思わず言って仕舞った本音をぎこちなく浮かべた笑みに隠して、今一番聞きたい質問を投げ掛けるべく口を開いた。
「あの、それでロートリゲン様」
「ジェイでいい」
「でも……」
どうやら呼び方が気に食わなかったらしい。
忽ちの内に、端正な顔を少し歪めるジェラルディアスにこそ、フィリアスは慌てた。「ジェイ」と軽々しく呼ぶな、なんて言ったのは貴方じゃないか。とは言えない。
どうにも、気が小さくなって仕舞っている気がする。
「で、では……ジェイ、さ…………」
様、と敬称を付けようとした事は早々にお見通しらしい。言う前に薄い青色の瞳がフィリアスを射抜くと、何とか出掛けた言葉を喉の奥に追い遣り、四苦八苦しながらも伺うように軽く首を傾けた。
ヴィーツェルアやミルフェリアと違って、長い付き合いでもない彼(しかも大貴族)を軽々しく愛称で呼べる程、豪胆な性格ではないのだが。
だが、ジェラルディアスの不興をこれ以上買うのもいただけない。フィリアスは内心恐々としながらも、何とか声を絞り出した。
「それじゃあ、……ジェイ。 どうして貴方のお屋敷に?私、確か森で……」
「ボタボタ泣いたと思ったら、俺の上に気絶ときた。 邪魔で仕方無かった故、俺の屋敷にへ一緒に連れてきた」
「うっ……」
何とも、容赦の無い方である。いやいや、前から毒舌というか棘のあるという人だという認識はあったのだが。実際言い返す事が出来ない為、どうにも心痛が増えるばかりである。
それにしても、よくよく考えると、森にはヴィーツェルアや師達が居た筈であり、態々(わざわざ)貴族も貴族、大貴族であるジェラルディアスがフィリアスを屋敷まで連れてくる必要は無い筈なのだが……。
心中で発した疑問がまるで聞こえていたように、ジェラルディアスは端正な顔を少しだけ歪めると、フィリアスを凝視していた視線をあらぬ方向へ向けて、多少不機嫌そうに口角を持ち上げて見せた。
「俺は、借りをその侭にするのは好かぬ。 誰であろうとな」
「借りって……」
借り、といえる程の事をした覚えは無いのだが。一体自分は知らない間に何をしたのだろうか?
何時迄経っても借りの意味を理解出来ないで居るフィリアスの様子に、ジェラルディアスは一つ大仰な溜息を吐き出してから、呆れたように目を細めた。
「それは素で分かっていないのか、それともお前にとって、アレは些細な事なのか?」
素で分からないだけです。
「命を」
「……は?」
「俺の命を、お前は救っただろう」
「……えーっと、治癒なら精霊達が――」
「あの場にお前が居らねば、精霊達とて動かぬ。 今お前が従えている聖魔も、お前という存在が居たからこそ、誤った召喚魔法陣で喚びだされているに関わらず、恭順の意を示しただろう」
話題に上った事が分かるのか、フィリアスの右手首に這う銀色の蔦が、仄かに熱を持った。今は話さないのか、それとも話せないのか沈黙した侭のベルベリトルティリゥスが何を言いたいのかはフィリアスにも分からない。
ジェラルディアスに同意しているのか、否定しているのか。どちらにしても、フィリアスからしてみればベルベリトルティリゥスの気紛れで"主"に認めてもらっただけであり、自分自身が何かをした、という気は無かった為慌ててしまう。
「……過ぎた謙遜は時に不興を招くぞ。 俺が良いと言っている、有り難く受け取れば良い」
何ともまあ、随分な言い様である。
だが、確かにこれ以上違うと言っても、対する本人がそう思っているのならジェラルディアスの好意を無碍にする行為にも他ならない。
フィリアスは曖昧な笑みを弱く浮かべると、首を縦に振った。
昨夜から驚きやら何やらで衝撃的な事が続いたが、今この場所の暖かい空気や美味しい料理、そして分かり難くはあるがジェラルディアスの好意は本物だ。これからこんな贅沢な朝食を摂る機会に巡り合う事など、一般市民のフィリアスには絶対に無い。
言葉を借りる訳では無いが、存分に満喫しなければ!
躊躇いがちであった態度を変えて、喜々として食事の続きを始めたフィリアスをジェラルディアスは密かに盗み見ると、幾許かの後に歯切れ悪く口を開き掛けたものの、声が出るよりも前に食堂の扉が勢い良く開かれて、けたたましい音を響かせた。
「フィリアス君!」
「お姉さま!ご無事ですかっ!?」
「ヴィル!ミルリィも……?」
「騒がしい……」
"風の詠み手"の二つ名を持つ青年と、将来有望な魔導師の少女。
フィリアスの友人である二人は、何時も身に着けている学院の長衣では無く、高級な布地で作られた貴族の衣服を身に纏っていた。といっても、余程急いでいたのか、二人とも少々衣服が乱れている。
珈琲の入ったカップを片手に、露骨に眉を顰めるジェラルディアスを余所に、二人は目を丸くするフィリアスを見つけるなり、走るこそしないが競歩並みの早歩きで近付いて来た為、フィリアスは思わず仰け反った。こ、怖い。
「フィリお姉さま、私……っ!心配したんですよ!」
「う、ええ?」
「怪我は無いか?変な事はされていないようだけど……」
「はい?」
「失礼な奴等だな。 こんな小娘、俺は何もせぬ」
「……」
ミルフェリアは何時も猪突猛進気味だが、ストッパー役でもあるヴィーツェルアが此処迄取り乱しているのも珍しい。どうにも噛み合わない会話にフィリアスは目を丸くしたが、不快さを隠そうともしないジェラルディアスの様子から、どうやら昨夜フィリアスが意識をなくした後に一悶着あったようだ。
「全く……学院での話等あてにならん……アイシェール、食事が済んだらその喧しい二人を連れてさっさと帰れ」
「は、はあ……」
やれ怪我は無いか、やれ何もされていないかと尚も質問攻めにする二人にジェラルディアスは辟易したらしく、苦々しい顔で珈琲を啜ると眉を顰めた。
心配してくれるのは嬉しいが、確かにこれでは落ち着いて会話も出来ない為、思わずフィリアスも同情というか同意というか、苦い笑みを湛えて頷くに留めた。
何時も思うのだが、この二人、揃うと何かと最強なのである。




