ラストダンスはあなたと
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煌びやかなシャンデリアの照明が白亜の大理石を眩く照らす。ダンスフロアには多くの男女が楽団の演奏に合わせてくるくると見事な足捌きを見せている。
さざめく人々の声。愉快そうに、あるいはわざとらしく、あるいは腹の底から楽しげに、あるいは嘲笑うかのように。
賞賛と羨望、嘲笑と嫉妬、笑顔の下に渦巻く人々の思考が音となって会場に反響していた。
一体どれほどの人間が、この中の全ての顔を把握しているのだろう。これでは私と面識のある人間を見つけることすら難しいのではないかと思われた。
「無謀だったかしら」
広げた扇子の中でひっそりと溜息を吐く。持ち手と軸に薄く削った香木を使い、扇部分にはモスグリーンの生地のなかに黄色と白の糸で薔薇の刺繍が施されている。口許を隠せば香木からふわりと優しい香りがして気持ちを落ち着かせてくれるお気に入りの一品だ。
「まぁ、ホント?」
すぐ近くにいる二人の若い女性が黄色い声を上げる。
「ランドルフ殿下がいらっしゃるなんて珍しい」
冬の間に、長く続いていた隣国との小競り合いに一段落がついた。第二王子殿下は此度の働きを認められ、軍部をまとめる地位に就くという。とはいえ社交シーズンの初めの王城での夜会でそれを発表された以降は、相変わらず気まぐれに姿を現すばかりで社交には積極的ではないと聞く。
王家主催の大夜会は毎年夏の満月の夜に行われ、王都にいる貴族のほとんどが参加する。これが終われば社交シーズンも終わりを迎え、領地のある貴族たちの多くはそれぞれの居城へ帰っていく。
「ご挨拶できるかしらねぇ。逃げ足の早い方だから……」
「だけどお聞きになりまして? 今回の叙勲を機にお妃候補を立てられるのではないかと噂されておりますでしょ」
ダンスホールから数段の階段を上がったところには彩りの良い料理が並べられている。見た目にも美しいそれらが人の目に触れやすい高さにあるのはもちろん計算されているのだろう。まるでそれ自体が会場を飾るオブジェのようで、きらきらと存在感を放っている。
私はふらりと壁を離れて階段を上る。
食事をする人は少なく、テーブルの奥に給仕人が控えているのが見えた。壇上を囲う手摺りに、空いた手を置いてフロアを見やれば案の定人々の顔が見やすくなり、ちらほらと知った顔をみつけることができた。
眺めているうちに友人のひとりと目があって、あちらが目を見開く。久しぶりに夜会で私を見かけた彼女は、こちらへ来るという身振りを見せた。そうか、ここはあちらからも丸見えなのだなとそこで気がつく。今日は生憎彼女の興味につきあって上げる気はないので壇上を降りようかと迷ったその時、
わぁっ、
と人々の歓声が湧き上がった。
友人の視線が私から離れて慌てたようにそちらを伺った隙を縫い、ダンスホールへ降りて庭園へ繋がるテラスへ向かった。
月明かりの綺麗な夜だった。
大夜会の夜は必ず晴れる。宮廷魔導士が王城の権威を保つため、雲を払っているというのは本当だろうか。
晴れ上がった夜空に浮かぶ真円の灯り。庭園の瑞々しい花々や樹木の香りが会場の喧騒を遠く感じさせた。
私は人いきれから逃れてほっと息を吐く。
兄に無理を言って連れてきてもらったが、成人してから毎年参加しているはずの会場はいつも以上に余所余所しい空間に思えた。エスコートする相手がいないことが心細いのではない。ここは私のいるべき場所ではないという疎外感が強くて、何やら現実味がなかったのだ。
「夜会で君を見かけるとは、どういう心境の変化だ?」
つと、背後に人の気配がして男性の声が掛けられた。
振り返ったそこには、見慣れた顔があった。けれどいつもの軽装ではなく、夜会に相応しい正装だ。黒の布地に複雑な金糸の刺繍。体格が良いので見栄えも良く、思わず視線を寄せてしまう。そこらの女性が放っておくとも思えなかったが、その眼の鋭さに躊躇する者も多いだろう。
現実味のない絵画から抜け出したように、彼のシルエットだけがそこに浮き立つ。
「もう、図書館へは行けなくなってしまったので」
びく、と彼は手にしたグラスが傾くほどに反応した。
「わたくし、婚約することになりました」
「図書館で見かけなくなったのはそのためか」
婚約予定の相手の素行調査が始まっているのであれば、大人しくしている必要がある。執筆活動が見つかると不味いのはもちろん、どこかで男性と待ち合わせするような女は婚約後に余計な支障をきたすとも限らない。
図書館で彼と会うのは約束をしているわけではないが、会えば同じベンチに座って一時間以上も男女が共に過ごすことは、一般的にみれば褒められた行為ではない。
今より家にとって良い条件がくるとは思えず、家にとってはまたとない機会だ。父が断ることはないだろう。
「……そうか」
ただ、彼に何も言わないうちに図書館通いをやめてしまったことは心残りだった。
「貴方ももう領地に帰るんでしょう?」
社交シーズンにしか見かけないのは領地持ちで宮仕えをしていない貴族だからだろう。
王室主催の大夜会は社交シーズンの締めに行われる大規模なもので、そのタイミングまで王都に滞在している貴族はほとんどが参加する。参加人数が多いから会えるのか不安はあったが、それも賭けだと思っていた。
「ねぇ、」
返事をしない彼に私は小首を傾げて見せる。珍しく結い上げた髪の飾りがしゃらりと音を立てた。
「『私に思い出をくださらない?』」
それは、私の書いた小説の台詞のひとつ。
思い出として最後のダンスを踊って欲しいという意味だった。
けれど、小説の中ではこれは象徴的な誘い文句として位置付けられている。
同盟国の国王へ嫁ぐ身となったヒロインが、長年恋い慕ってきた護衛騎士に願う最後のダンス。
月明かりの庭園で、会場から漏れ聞こえるワルツに合わせて踊る二人。視線を交わらせ、呼吸を合わせ、体温を感じる内に、二人はダンスが終わっても離れることが出来ずただ抱き合う。そして初めて重ねた唇は、徐々に深くなり互いの劣情を暴き出し、気付けば控室で朝になっている。
当然無責任な行動を咎められた二人は引き離され、乙女ではなくなったヒロインは嫁ぎ先で罪が暴かれることを覚悟していた。が、輿入れした矢先に同盟国の国王が何者かに暗殺されて、この婚姻自体が初めから仕組まれた陰謀の一部だと知れる。
ヒロインは権謀術数を潜り抜けながら事あるごとにあの時の台詞を思い出し、それを心の支えにしながら忘れられた王妃としてかろうじて生き延びている。そこへ国外追放され傭兵から身を立てたあの護衛騎士が現れる、という物語だ。
ニーナ・クロイツの作品を読んでいたとしても、いくつもある内のそのワンシーンを読んでいるのか、また覚えているかはただの賭けだった。
女性から男性を誘うことははしたない。まして経験のない女が具体的な言葉で艶事を仄めかすなどあってはならない。だからそれは知らなければただのダンスのお誘いと受け取られるだけの何気ない日常会話。
誰かを好きになったのは初めてだった。
私の気持ちは平坦で、ただ物語を読んでいる時だけはいつでも自由で奔放でいられた。
貴族女性として愛想を振り撒くことの重要性は理解できても、素直にそれを実行できない頑なさ。兄よりも文官向きだと言われながらも誰も女の自分に文官になれとは言わない。婚約者にはつまらない女だと貶され、親には無謀な夢を見るなと諭される。
だけど彼は私の好きな本を読んでくれた。私の作品まで読んでくれた。色眼鏡なしに、かと言って私の機嫌を伺うように迎合するわけでもなく、淡々と意見を述べて、時には面白いと、時には自分には理解し難いと素直な感想をくれた。
同じ本を読んで、共に過ごす時間がこれほど幸せだったことはない。読むこと以外に時間を忘れさせてくれるものがあるとは思わなかった。
貴方と過ごす時間が何より楽しみだった。
「ワルツでいいのか」
バルコニーの手摺りへグラスを置いて、彼は私へ手を伸ばした。剣を握るのであろう大きな手は、手袋をしていても節が高いのが見てとれる。私は頷いて手を取りながら、そういえば、彼に触れるのはこれが初めてだと思い至った。
図書館の中庭のベンチで並ぶ二人の間には、いつも本があった。貸し借りをする際に指先が触れ合って気まずくなるようなありきたりなロマンスはなかった。
「ええ」
答えると同時にそのまま庭園へエスコートされ、月明かりを水面に反射させる噴水の前へ二人立つ。会場から聴こえる楽団の演奏もちょうど次の曲に差し掛かるところだった。
軽やかな足取りでダンスが始まる。
久しぶりに踊る私は所々不安なステップを踏んでいるのに、少しも足がもつれたり彼の足を踏んでしまうことがなかった。相手の呼吸を読むのが上手いのか、完璧なリードだった。
私は緊張から彼の顔をまともに見ることが出来ず、喉元から下ばかりを見ていた。
近くで見ると、ヒールを履いた私よりさらに頭ひとつ大きく見上げる高さ。手を置いた胸板は想像以上に分厚い。フォールドされた腰を引き寄せる腕は見た目以上にがっしりとしている。文官の我が家の男性陣にはいない雄々しい体格は、やはり武官の家柄なのだろう。
「お上手ですわね」
「体を動かすことは嫌いじゃない」
「それは御令嬢と何曲でも踊れそうですわね」
「……君はすぐにバテそうだな」
細過ぎる、と小さく嘯いて腰を引き寄せられた。既に早鐘を打ち始めていた心臓が、どきりと大きく波打った。
「日がな一日本ばかり読んでおりますので」
「馬には乗れるか?」
「え? まあ、嗜む程度に?」
腰を引き寄せた手がさらりとその辺りを撫でた。
「少し運動した方がいい」
乗馬に必要な筋肉がないとおっしゃりたいらしい。
「乱暴に扱ったら壊れてしまいそうだ」
腰骨を硬い指先でなぞられて身を震わせる。思わせぶりな台詞にはっと顔を上げると、鋭い猛禽類の眼がこちらを見下ろしていた。
彼には私の台詞の意味するところが、きちんと伝わっているようだった。
肩をフォールドしていた手が、鎖骨を辿って頸を撫で上げる。
「っ!」
覚悟はしていたはずが、男の漂わせる剣呑な空気に息を詰める。
「君は名前も知らない男にその身を委ねようとするのか」
唇が、噛み付くように重なる。震える顎を捉えられ、深く交わり吐息を奪われる。優しさのない蹂躙するような口付けに、頭がくらくらした。
「私は顔も知らない男に君を奪われるのか」
酸素が足りず、涙で朦朧とする視界の向こうで、彼の顔が歪んで見えた。
「『私は貴女の思い出にしかなれないのか』」
震える声に、
私の台詞が、
彼を傷付けたのだと知る。
「最低な台詞だな」
ダンスは最後まで踊られないまま、彼は放心する私を会場の入口まで律儀に連れて戻り、そのまま人混みに紛れて姿を消してしまった。
バルコニーの手摺りには、未だ回収されていない彼の置いたグラスがひとつ、汗をかいて残されていた。




