兄と妹
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「それがフロレンツィア様はご存じなかったと言うのよ」
ユリウスが朝の出仕の準備をする中、妻のナターリエがジャケットを羽織るのを手伝いながらぼやくように言った。
「宰相閣下の口利きじゃないってこと?」
「クリスティナに仲の良い方がいらっしゃるようだと言うの。だからそんな話があったらもう少し内々に様子をうかがうって。あなた何かあの子から聞いていらっしゃらない?」
ナターリエは男兄弟の中で育ったためか姉妹というものに憧れがあって、ユリウスの妹を大変可愛がっている。何なら夫である自分より妹の方を気にかける、ちょっと構い過ぎな押しかけ義姉なのだが、人間関係に冷めている妹には押すくらいがちょうど良いのか、仲は悪くない。
ただ秘密を打ち明けるほどの仲ではないようで、実兄であるユリウスの方で何か聞いていないかという。
「あのクリスティナに男がいるって?」
「仲が良い方、です」
粗野な物言いを嫌って言い直される。彼女は古くからある子爵家の出で礼儀作法には煩い。
若い頃は遊び人と謳われた自分などのところへ嫁いできて気の毒にと思っていたが、なかなか根性が据わっていて夫にも平気で意見するし、世話焼きだし、何より身体が丈夫だ。美人ではないけど好ましい容姿で、政略結婚にしては仲良くやれていると思う。少なくとも彼女を差し置いて愛人を作るくらいなら妻を愛せばいいと思う。
「ユリウス?」
昨晩の営みを思い出して朝から良からぬ妄想が膨らみ始めた辺りで妻に鋭い調子で名前を呼ばれ、誤魔化すように咳払いをする。
「ああうん聞いてるよ。いや、君の話は聞いている。クリスティナの話は聞いてない」
タイを整える妻の額に口付けを落とすと、彼女は不満そうに唇を尖らせた。
「ということは直接申し出があったの、今回の話」
話を戻すと彼女は頷く。
その昔、ユリウスとナターリエの縁談を持ってきたのも宰相閣下とその奥方のフロレンツィアだ。閣下の政略図の上に描かれた婚姻関係だが、奥方の観察眼が素晴らしいのか、仲人としても二人は優秀だ。
両親はこういった人の機微に疎いというか、自分達のことを模範的で一般的な貴族と思っていて、そしてそれはけして間違いではないのだが、どうにもその多数派の考え方こそが正しいと信じている節がある。
何やら不穏な空気を感じて、ユリウスは鏡の中の自分を見ながら前髪を後ろへ撫で付けた。
妹と同じ淡く黄味色の強い金髪は父方の血筋だ。癖も少なくて前髪は香油で撫でつけないと直ぐに降りてくる。端正な顔は華やかではないが笑うと色が乗って魅力的だとご婦人方には評判がいい。自分によく似た妹は、元婚約者から黙っていると怒っているようだと言われてますます表情を硬くしていたものだ。
「まぁ僕も今回の話があって初めて、辺境伯ってまだ独身だったんだと驚いたけど」
この度、妹に婚約の打診があったのは、東方に位置する辺境伯の嫡男だ。元婚約者の領地と地続きなのは偶然とは考えられない。クリスティナへ慰謝料代わりに分与される鉱山の利権を狙っていることは間違いないだろう。
しかし嫡男とはいえ既に成人した子供がいてもおかしくない年齢のはずで、貴族でありながら未だに結婚していない原因を勘繰ってしまう。
「わたくしは存じておりましたよ。ランドルフ殿下とは交流がある方ですから」
「ああ、そうなんだ?」
ナターリエの母は第二王子の乳母だ。二人目の兄が王子の乳兄弟なので、彼女も面識がある。社交も最低限で軍部に特化した方なので、ユリウス自身、お見掛けしたことはあれど拝謁とまではいかない程度にしか存じ上げない。大抵はどこかの戦場に詰めているので王都にいないことも多いのだ。
「そういえばランドルフ殿下も独身だな」
襟に階級と所属を示すラペルピンを差しながら、ナターリエは眉を顰める。
「そうですよ、良い年して妃を迎える気配がないので周りは大層気を揉んでいるとか」
だが殿下の場合は王太子たる兄との政権争いに一線引いていることを明らかにするためだと言われてきた。けれど為人を知るナターリエからすると違う見解のようだ。
「あんなの、面倒がっているのが丸分かりです。花園で好みの花を見繕うより、剣を振り回している方が気楽なんでしょう。近頃では女性に興味がないのではないかと噂されているほどで、側近の兄などは良い迷惑だとぼやいております」
「ふ、それはご苦労だな」
ナターリエの兄は小柄な彼女に似ない大柄な男で、大変に男らしい。殿下がそうならどの男といった想像はどうしても切り離せないから、当然一番近くにいる男に視線はいくもので、ユリウスは思わず吹き出してしまった。
だが側近とはいえもちろん妻帯しているし、産まれた頃から忠誠を誓う主と冗談とも付かない噂を立てられるとは思ってもみなかっただろう。
「ひょっとして、辺境伯もそうなのかな?」
「え?」
「女性に興味のない方で、後継は別の当てがあるから結婚の必要もない。ただ外聞は良くないから、今回辺境伯領に都合の良い条件の娘を見つけて形だけの妻として求めたーーとか」
うんなかなか良い推理かもしれない、などと不敬は承知でふざけた考察を繰り広げていたら、両頬にぺちんと音の鳴る平手をかまされた。妻が両手でユリウスの顔を挟み込み、じっと恐い顔でこちらを見上げている。
「もしそれが真実でしたら、わたくし、お義父上に直談判して息子共々実家に帰らせていただきますわ」
「えぇ、冗談だよ。ちょっと、ナターリエ、」
真面目な相談を冗談で混ぜ返す夫に呆れた妻に、とっとと出仕しろと背中を強かに扇で打たれたユリウスは、結構真面目に考えたんだけどなぁとぼやきながら妹の部屋へ寄り道することにした。
妹は今朝も朝の食卓に顔を出さなかったのだ。
この国では朝食は家族の時間だ。昼や晩の食事は仕事や外出で揃わないことがあるが、同じ家で就寝する者として朝は共に起き出して食事を共にする習慣がある。
クリスティナは具合が悪いと言い訳して、婚約の打診をされた翌日以降、家族と食卓を囲むことを拒否していた。
「あらお兄様、出仕の時間ではないの?」
「いつもは早めに出てるんだよ。ほら僕って真面目だから」
顔を見せることすら断られるのではないかと内心心配していたユリウスに対し、妹は首を傾げただけでいつも通り兄を部屋へ通してくれた。真面目云々のくだりは触れもせず流すあたりが通常運転である。
朝食は部屋でとったようで、食後のお茶を飲みながら膝の上に広げていた書籍を閉じた。
「新刊?」
「いいえ、『紅の魔女』のシリーズを読み返してました」
「ああアレ? 面白いよね。ってかそれひょっとして僕が持ってたヤツ?」
「ええ。お兄様が結婚されるからと書斎を整理する際に譲っていただいたもののひとつですわね」
「うわ懐かしい。ってことはそこに積んであるの全部そのシリーズ?」
言われてみれば見覚えのある背表紙がカウチの隣のサイドテーブルに積まれている。確か十巻以上はあるはずだ。
全部読むつもりなのか、と尋ねれば、当然のように頷いてみせる。
「辺境伯領に封じられた魔女がモデルなんだそうです」
「え?」
「この物語の主人公です」
「え、実在してるの?」
「出版業界では割と有名な話ですわ」
箔押しのタイトルを指先でなぞりクリスティナは口元だけで笑う。
それはひとりの平民出身の魔女が貴族令息と恋に落ちる物語だが、主役二人の関係よりも男側が持ち込む問題を魔女が解決していく推理小説のような展開が面白くて人気の作品だ。書かれたのはユリウスが産まれるよりずっと前。名作として読まれる類のそれにモデルがいたとしても不思議ではないが、まさか辺境伯が関わっているとは思わなかった。
そしてその書籍を妹が読み返しているのは、
「まさかクリスティナ、あの婚約話、受ける気じゃないよね?」
「お父様が断ると思います? これ以上ない好条件じゃありませんか」
侯爵とも並ぶ格上の家門からの申し出。領地を持たない宮廷貴族の収入源は王領から配布される俸禄と投資を中心とした財産の運営だから、娘が辺境伯夫人となれば交易面での選択肢の幅が広がるし、万が一損益が出たとしても援助を期待できる。何よりこちらは代々文官の家柄だから、軍部に繋がりができるのも悪い話ではない。
頭の回る妹は、利点を前に考える癖がある。感情よりも義務を果たすことの意味を知っている。
父は絵に描いたような仕事人間で家にいる時間が少なく、たまに帰れば夕食時に子供達の教育経過を報告させる始末。まともに微笑む姿など見たことはない。
ユリウスはそんな父に反抗して若い頃は家に戻らず遊び歩いた。学院の成績こそ上位を保っていたが、周りからしてみれば要領の良い遊び人というのが自分の評価だろう。
そんな兄を見て育ったからなのか、妹のクリスティナは頑ななほど真面目に育った。
学院の成績は常に首席でマナーも申し分無く、社交に出ればどんなに仲が悪くても婚約者を立てて前に出ない。表向きには楚々とした印象で、典型的な貴族の御令嬢だった。
「だけど、今度の相手はアイツと違って王都からは離れてしまうだろ? お前にそんな田舎暮らしができるとは思えないんだけど。今みたいに隠れて執筆することだってできないじゃないか」
クリスティナの元婚約者は王都より少し離れた領土を持つ伯爵家だが、数代前にヴァンシュタイン家から嫁を迎えている縁戚関係にある。王都のタウンハウスに滞在していることも多いので、家族ぐるみで付き合いがあり幼い頃から交流があった。
爵位を継がない次男との婚約だったので、領内の鉱山の利権を財産として分与して、王宮で文官の道へ進む段取りだった。
「結婚すれば、どの道諦めるつもりでした。元より理解のある人ではありませんでしたし、大抵の貴族の男性はそう言うものでしょう?」
クリスティナが自筆の小説を出版していると知ったのは偶然だ。彼女がまだ学生の頃、試験と締め切りに追われて力尽きている所を見つけて、どれ兄が勉強を見てやろうと持ち上げた書類が原稿だったのだ。
コレを隠すための首席であり、淑女の鑑なのだと知って、むしろ安心したものだ。目的があるなら理解もできた。現実でないところに彼女の逃げ場はあって、その逃げ場を守るために問題のない娘を装っていたのだ。
紳士クラブで夜更けまでカードに興じて友人宅や懇意な未亡人の寝室で目を覚ました自分の感じていた虚無は、妹の中にも少なからずあったのだ。
「誰かいるかもしれないじゃないか。現にここに続けていいと思ってる兄がいるんだけど」
「残念ですわ、お兄様とは結婚できなくて」
そういえば幼い頃はあの頭の悪い男と結婚するくらいならお兄様と結婚したいと言われた記憶がある。引き合いに出す相手が酷過ぎて喜べなかったが。
どうにも頑なな妹の態度に、ユリウスはかえって何か理由があるのかと勘繰ってしまう。
「ねぇ、クリスティナ。お前ひょっとして、」
妻から聞かされた話題を振ろうとしたまさにその時、部屋の扉が強い調子で叩かれて、護衛騎士のクロードが飛び込んできた。
「クリスティナ様! ああ、ユリウス様もこちらに、」
慌てた様子の彼は本来の主人であるユリウスを見つけてほっとしたような顔をした。
「どうした」
護衛騎士のひとりである彼は自分の乳兄弟で、クリスティナが執筆活動するためにメイベルが動くときは、事情を理解している彼を付けていた。
「メイベルが尾けられています」
ひゅ、とクリスティナが息を吸う。
「ご安心ください、危害は加えられておりません」
その顔を見てクロードは慌てて付け加えた。彼は今ほどメイベルの朝の用事に付き合って帰宅したところだという。
「ただ、お嬢様がお出掛けの際にもこれまでに似たような気配がありました。おそらく同じ手の者かと思います。図書館にいらっしゃる間はメイベルを尾行しているようです。ここのところお嬢様が外出を控えられているので、メイベルの方を追跡したのでしょう」
「相手は見たか?」
クロードは頷いたが、一瞬クリスティナを見て躊躇う。ユリウスは気にせず続けるよう指示した。
「その、おそらく辺境伯公の手のものかと。特に隠す様子もないことから、おそらく身辺調査といったところではないかと思われます」
それを聞いたクリスティナは、急に声を立てておかしそうに笑った。
「ほらね、どの道そろそろ潮時なのよお兄様。私の自由時間は終わったの」
笑いながら、手にした書籍の表紙に額を寄せて表情を隠す。
紅の魔女。
辺境伯に封じられた魔女。
確か、あのシリーズは十三巻まであった。
最後の話で魔女がどうなったのか。
途中、貴族令息の出生の秘密を知って、簡単に手が引けなくなったことまでは覚えている。
だがその後は?
「私はきっと、もうこの王都に戻ってくることはできなくなるのね」
主人公二人が結ばれるところまで、果たして描かれていただろうか。
ユリウスはその夜、最終巻を貸して欲しいと妹に頼むことになるのだが、何故だか笑いながら断られたのだった。




