恋愛主義を地で行く妹
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この国で、月明かりが最も美しいとされる夏の夜。白亜の城壁は光を跳ね返して眩いばかりだが、庭園の樹々は濃い陰を伴いひときわ闇を深くしている。
城の中から漏れ聞こえる人のざわめきと奏でられるワルツの旋律。
喧騒を遠くに聞きながら、二人は最後のダンスを終えた。
「貴女を諦めることができない私を愚かだと思うだろうか」
頬を撫でると、小さな唇から吐息が漏れる。その甘さに、彼女は恥いるように目元を赤く染めた。
「その言葉だけで十分です。貴方がいたという事実がこれからの私を支えてくれるでしょう」
残酷なことをこともなげに言って見せる口許。しかし男を映す瞳は揺れている。いつも泰然と澄ました顔をしているくせに、嘘をつくのは下手だった。
「私は貴女の思い出にしかなれないのか」
瞬いた瞳から涙が溢れないのが不思議なほどだった。とろりと溶ける蜂蜜のような琥珀。月明かりにも似た淡く儚い金の髪。
薄紅色の唇が微笑むのを、視線でなぞる。
男が彼女の顔に影を落とした。
吐息が、近い。
* * *
ごとん、
と重いものが床へ落ちる音に我に帰る。
カウチの上で本を読んでいるうちに眠ってしまったらしく、手にしていたはずの書籍が床の上に落ちていた。
「……何だ今の夢は」
内容や台詞は今落とした本のワンシーンに違いなかった。
この街屋敷の書斎の一区画は、母や妹が集めているこうした恋愛小説に埋められている。その中に王立図書館で出会った令嬢を介して知った作品を見つけて、何となく暇潰しに読んでいるうちに眠ってしまったらしい。
前線に身を置いていた自分にとって、争いが収束し戦う必要のなくなったものの領主としては未だ両親は健在で、正直身の置き所が定まらない。仕事があると仕事しかしないと嘆かれて、社交をしろと王都へ放り出される始末。
しかし中央の連中はすっかり平和ボケしていて軍部の話になど興味はなく、政治と金儲けの話ばかりしている。経済成長は重要な案件だと理解できるが話の論点が合わず、とりあえず聞き役にまわって後で裏付けをとる作業と化していた。まだまだ不勉強な点が多いと思う一方、上辺だけで話している輩も相当多く、価値のある会話ができているとは言い難い。
令嬢のいる夜会へ行けばそれなりに紹介もされるが流行りの話題に乗ってやることもしないので二度目の声がかかることはない。むしろ香水の匂いに辟易してテラスへ出れば、何やら勘違いした好色な未亡人に声を掛けられることもある。どうやら王宮内での騎士の身体というものはご婦人方に一定の需要があるらしい。
とにかく慣れない人付き合いにほとほと疲れ果て、人気の少ない静かな所を求めて彷徨いた結果、王立図書館で〝彼女〟と出会った。
成人して間もないのだろう、若い娘らしく半分だけ結い上げて肩に流れる淡い黄色の髪。
伏し目がちな琥珀の瞳。
澄ました顔。
本のことを話すときだけこもる熱。
おとなしそうに見えて、意志の強い芯のある様子。
この時期の王都の華やかな場から逃げるために寄った王立図書館に日参することになるとは思わなかった。
幼い頃から物語を読むことは嫌いではなかった。教養として読まされるもの以外にも、子供らしい冒険譚から母が若い頃から読んでいるような恋愛物語まで、時間の許す限り読んでいた。戦術書や成長するにつれ騎士としての鍛錬に割く時間が長くなって読書量は減ったが、戯曲の原作になるような話題の作品に触れるだけでも息抜きになるので私的な時間があれば手に取るようにしていた。
だが前線に出ている間はさすがにそんな悠長な時間を取ることは出来ず、事態が収束して本城へ戻ってからも頭の回転を元に戻すことが難しかった。両親が自分から仕事を引き剥がして王都へ放り込んだのは、そうして働き詰めになる息子を憐れんだのかもしれない。
久々に手に取ったのは、幼い頃に貴族の男児教育の教本として読んだエルディラート戦記だった。優れた戦略によって国土を広げた英雄として語られることが多いかの御仁だが、その凄まじい生い立ちと皇帝に上り詰めるまでの才能、それに反して愛する女性と結ばれることなく、代わりに数多の美姫との間に子供を残し、没後に後継の混乱を招いた。彼の人生を史実と伝承を元に書き上げられたこの歴史書は何度も読み返したものだ。
けれど淑女教育では採用されることはない分野だから、彼女がそれを読んだのだとしたら自ら手に取ったのだろう。出会った初日は思わず見解を語り合ってしまったが、しっかりと読み込まれていてなかなかに楽しめた。
拾った本も中身はなかなかに卑猥な内容がオブラートに包まれた表現で描かれていたが、背景に広がる世界観が作り込まれていて、続き物の途中から読んだ印象だったので始めから読んでみたいと思っていたところへ現れた持ち主が彼女だったのだ。
コンコンとノックが響く。
「お兄様、お部屋にいらして?」
高い声に思考を遮られて眉を顰めるが、居留守を使うと後でうるさいので返事をする。
「何だ?」
返事を待って開かれた扉の向こうには、華やかな赤毛の美人が立っていた。
「あら、良かったいらしたのね。近頃よく出掛けてらっしゃるから、今日もいらっしゃらないかと思ったわ」
今日は生憎の雨だった。約束したわけではないが、彼女と会うのは中庭と決まっていたため雨の日は会うことがなかった。実際には何度か訪ねてみたことはあるが、急ぎでもない雨の日にわざわざ御令嬢が出掛けるはずもなく、出会えたことはない。
「またニーナ・クロイツ? 確かに人気の作家ですけど、他にもおススメはたくさんありましてよ?」
拾って膝に置いた本の表紙を見て、妹は軽く眉を上げる。歴史的要素を背景に作り込まれた世界観が人気の作家だが、彼女としては恋愛要素がもっと強いものが好みらしく、とりあえず話題の作家だから揃えているのだという。
書斎にある読むべき蔵書はひと通り目を通したからと言い訳しながらそれら恋愛小説を読み始めたのだが、妹のおススメとやらは少女趣味が強くて途中で匙を投げてしまった。
いかにも暇そうな兄を見て、彼女は呆れたよう要件を切り出した。
「夜会のエスコートをお願いしたいのよ」
艶やかに彩られた指の先に、品の良い招待状がひらひらと揺れる。
「王城の必要な会には出席したと思ったが」
妹は既に結婚して二人の子供もいる。本来なら夫がエスコートして然るべきなのだが仕事の都合で領地から離れられずにいた。夫婦仲の良い二人なので、妹本人も兄を誘うことには乗り気でなく肩をすくめて仕方なさそうな溜息を吐く。
「宰相夫人からご招待をいただいたの」
ぱらりと翻された招待状には、見覚えのある封蝋印が押されていた。
確かにそれは無碍にはできない相手だ。そういえば、昼の議会の合間にも宰相本人から声を掛けられることがあった。社交については茶会を中心に妹が立ち回っていたが、その際にお誘いを受けたのだろう。
「お兄様に好い人がいるならそちらにお任せするのだけど?」
招待状で扇のように口許を隠しながら、妹はにやりと目で笑った。妹に先を越され、未だに婚約者も決まらない自分への当て擦りに辟易としつつ、けれどふと図書館の彼女の顔が浮かんで手元の本を見つめた。
どこの家の令嬢ともしれないが、過去形とはいえ婚約者もいたというし貴族の娘であることは間違いない。出入りに鉢合わせたことはないものの、図書館の入口までは必ず侍女が同行していることは知っていたし、外には護衛が数名控えていることにも気が付いていた。
後をつければ家名は知れるだろうが、敢えてそれをしないのは壁を作られることを恐れたからだ。明け透けな物言いをする令嬢だが、それは始めに彼女の秘密の趣味を垣間見てしまったことで本人が開き直っているからであって、あくまでも身元を知られていない気安さからくるものだ。家名が知れたとなれば距離を置かれるに決まっている。
彼女の自由は図書館の中だけだった。
貴族令嬢である以上、許される範囲でしか自由が利かないのは当然のこと。男であっても家に縛られる息苦しさに鬱屈とすることがあるのだから、例えひと時でもしがらみから解放される瞬間は特別なものだろう。
その安らぎを彼女から奪いたくはなかった。
「なぁに、黙りこくっちゃって。え、なにひょっとして気になる方でも!?」
後半は上擦って若い娘のような声を上げる。若々しい容貌をしていることを除いても、元の落ち着きのない性格が災いして今ひとつ貴婦人になりきれず、いつまでもどこかの令嬢に間違われる妹だ。
「……お前は気楽でいいな」
本来なら政略結婚させられる身分だが、大変に甘やかされて育った彼女は兄の部下であったひとりの騎士と恋に落ちて早くに結婚を決めてしまった。二人の男児にも恵まれて幸せそうだし、母となってからはそれなりに責任というものを考えるようになったようなので喜ばしいことではあるが。
「人を能天気みたいに言うのはやめてくださる? お兄様だっていつまで気楽な独身貴族を謳歌なさるつもりなのかしら?」
つんとそっぽを向く澄ました横顔は、やはり未だに少女の頃の面影を残している。
「俺の婚期が遅れているのはお前のせいでもあるんだぞ。俺が前線に駆り出されたのはアイツがお前の旦那になったせいだからな」
騎士団の中でも生え抜きの幹部候補だった男は、彼女を娶るために前線から後退して領内警護の任に着いた。本来なら自分より位の高い家の娘を娶るならそのまま団長などの要職に就けて体裁を整えるところだろう。だが孫娘を大変に可愛がっている先代から待ったがかかり、男は前線から外された。
自分が前線に行くこと自体は決まっていたことなのでその全てが妹のせいではないが、彼女の夫となった男がいればこうも前線に張り付いている必要はなかっただろう。片腕とも言える腹心の部下を奪われたのだからこれくらいの嫌味は言っても良いはずだ。
「お兄様は恋をしたことがないからそんなことをおっしゃるんだわっ!」
そのことを気にしている妹は、話を打ち切るかと思いきやムキになって声を張り上げる。
「いつだって冷静沈着、優秀だと持ち上げられてますけど、人の気持ちを理解しない殿方はモテなくて当然だわ!」
どうやら話の振り方を間違えたようだ。
「そうか。分かった。俺は冷血漢で恋を理解しない男だ。夜会には出席する。それでいいだろう」
あからさまに話を切り上げようとすれば、妹はなおも噛み付いてくる。
「いいえ! こうなったらこの機会に朴念仁のお兄様に恋に落ちるとはどういうことか、恋愛脳の私が教えて差し上げます!」
恋愛脳とは誰かに言われたのだろうが、多分悪口だと思う。
「いや、要らな……」
「まずはですわね! そう、眼! 目が合ったとたん、体が痺れるのよ!」
それは自分より強い敵に遭遇した時じゃないだろうか。
「その人のことばかり気にして他のことが手につかなくなったり、偶然を装って会えないかと出没スポットをうろうろしてしまったり、それとなく周囲の異性に気がないか探りを入れてしまったり、」
妹がそれらをしていたであろうさまを思い浮かべて、周りの人間の苦労を思った。
「たとえそんな相手ができたとして、俺がそんな非効率的なことをすると思うか?」
効率主義の性格が災いしてか今ひとつ分からない。
「ああもう! そういう効率とかどうでも良いの! そう、くだらないとお思いかもしれないけど、それこそ花を見て女性の顔が浮かぶなら、それは恋に落ちているということなのよ!」
拳を握って力説する妹の手元の招待状の端が歪み、紙に皺が寄らないか不安になる。
「赤い薔薇を見るとお祖母様かお前が思い浮かぶが」
「それは誰もが私のお祖母様似の赤い髪と美貌を見て赤い薔薇と讃えるからでしょう!? それは刷り込みというの! そうじゃなくて、こう、美しい花を見て見せてあげたくなるような、何なら手折って髪に差してあげたくなるような、近しくありたいと思う気持ちが自然と生まれるようなことよ!!」
「……なるほど?」
分かったような分からなかったような、曖昧な返事とともに首を傾げた。




