恋愛は小説の中だけ
ブックマーク登録、評価、いいね、ありがとうございます。
窓から差す日差しで、空気中の埃がきらきらと瞬いていた。
幼い頃、あれは妖精の羽ばたきが目に見えているんだよと教えてくれたのは兄だった。後からただ幼子を揶揄う常套句だったのだと知ったけど、その表現が好きで今でもそこに妖精がいるのではないかと期待してしまう。
見慣れない天井は装飾も何もない板張り。お日様の匂いがする清潔だが目の粗いリネン。ぼんやりと開いた目に映るものをゆっくりと認識しながら視線を動かしていくうちに、
「クリスティナ様!」
心配そうな顔で私の顔を覗き込んだメイベルが声を上げ、見知ったシスターがその後ろでほっとしたように頷いた。どうやら教会にはたどり着いていたらしい。いつも見る孤児院の部屋ではなく、子供たちの声もしないから教会側の客室のようなところだろうか。
急に馬車の速度が落ちたと思ったら、車体が大きく揺れてしたたかに体を打ち付けてしまったところまでは覚えている。どうやらそのまま気を失ってしまったらしい。
気分はどうだと問われ、壁で打ち付けた半身が少し痛むと応える。
「外傷は大きなものはありません。頭も強く打った訳ではなさそうですし、目が覚められたなら大丈夫でしょう」
聖職者には治療の心得があるのでひと通りの診察はしてくれたが、念のため帰ったら主治医にも様子を見せるように言われた。
「あの、何が……事故に遭ったんでしょうか?」
彼らは顔を見合わせて、どうしようかと迷うそぶりをした。何か言いづらいことでもあるのかと首を傾げていると、部屋の扉の方から声が掛かった。
「詳しくは私から話そう。シスターは隣で侍女殿を休ませてやってくれ。怪我はないが、かなり疲弊しているだろう」
聞き覚えのある男性の声にはっとなる。
「どうして、」
頬に掛かる栗色の髪、
凍てつくような薄氷、
その姿は普段は見かけない騎士のような詰襟姿で、
けれど扉の隣の壁に寄りかかって立っているその男性は、
見間違えようもないあの人。
「院長には許可を得ている。扉は少し開けておくから、しばらく二人にしてほしい」
シスターは心得たとばかりに頷き、戸惑うメイベルの肩を叩いた。忠実な侍女は心配そうに私と彼を見比べていたが、やがてふらつく足で隣の部屋へ移っていった。
早々に気を失ってしまった私には分からないが、彼女はさぞかし怖かったし疲れていることだろう。
「体は辛くないか」
「……はぃ」
掠れる声で返すと、彼は枕元に近づいてサイドテーブルに置かれた水差しを手に取った。グラスを差し出されたので素直に受け取って喉を潤す。口が渇くのは疲労からか緊張からか分からなかった。
「君ともう一度話をしたくて兄君には話を通したのだが、まさか野盗に出くわすとはな」
飲み干した頃合いを見計らって差し出された手にグラスを戻す。
「兄に? というか野盗?」
まともに彼を見ることができず、グラスを滑り落ちていく水滴を見ていた。
「あの夜会の後、」
私はその言葉にびくりと肩を震わせた。彼はそれに気がついて言葉を切ったが、諦めたように溜息をついた。
「あの後、君の素性を知る機会があって、伝手を辿って兄君にお伺いした。君が外出するタイミングに合わせて話をさせてもらうために、孤児院の院長にも話を通してあった」
その道すがら私の馬車が野盗の強襲に遭い、彼が手を貸してくれたのだと言う。
「助けていただいたことは御礼を申し上げます。しかし、貴方とお話しすることはありません」
膝の上で硬く両手を握り締める。気がつけばそれは血の気がなくなり、氷のように冷たくなっていた。
「すまない、あの夜、あんな風に感情に任せて君を突き放すべきじゃなかった」
そう、私は突き放された。
私の都合で、
一方的に、
彼の気持ちなど考えることもなく、
彼を傷付けて。
「……わたくしは恥知らずな女です」
それなのに、どうして貴方が私に謝るのだ。
「見ず知らずの男性に猥褻な小説を見られ、貴族のくせに小説をしたため、女でありながら学問に傾倒し、婚約者には愛想をつかされ、挙句、政略結婚の前の思い出に抱いてほしいと迫るような、そんなはしたない女です」
声が震える。お願いだから、こんな女のために傷付かないで欲しい。他愛のない男女のひと時の過ちとして忘れて欲しかったのに。
「貴方も、わたくしを物語と現実の区別がつかない愚かな女だとお思いでしょう? こんなわたくしを憐れに思って慰めの言葉など掛けに来ないで」
過去に婚約者に言われた言葉は、自分でも知らない内に私の心に深く根を張っていたようだった。
いつか物語のような王子様が迎えに来ると思っている現実を見ない女、と言うのが元婚約者の私への評価だった。そのくせ自分は平民の恋人との結婚を認められないからと逃げ出すロマンチストだったわけだから、結局私のことが気に入らなかっただけなのだろう。
あんなことを言い出さず、ただお別れの手紙でも残しておけば良かった。貴方の中で変わった女と暇潰しに過ごした他愛のない日常のワンシーンとして、本を手に取った時に時折思い出してもらえる程度で良かったのだ。
欲を出したから、私は私の思い出を自分で穢してしまった。
「君の安息を邪魔したくなかったんだ」
彼はそれでも悔やむように言葉を落とした。
「君が私に向ける顔は楽しそうで、私は少しでも長くその顔を見ていたかったんだ。だから君のことを調べるような無粋な真似はすまいと」
彼もあの日々を楽しいものとして過ごしてくれていた。それはお互いあの空間に通い続けたという事実が物語っていた。
だからこそ綺麗なままにしておかなかった自分を責めて、私はあれからしばらく小説を読むことも書くこともできなくなった。文字という文字が上滑りして、ただあの時の〝最低な台詞〟を悔いている。
「だが君と踊ったあの日、己の愚かさに気付かされた。君を手に入れる権利がない男に身を委ねさせてしまった。君を抱いても拒んでも傷付けることになるだろう」
けれど気づかないふりをすることは出来なかった、と彼は嘯いた。
「君が腕の中にいて、冷静でいることなんて出来なかった。馬鹿な男だろう。あれが戦場なら私は間違いなく死んでいた」
はぁと溜息を吐き、がしがしと頭を掻く姿はいつもの冷静さは感じられなかった。彼は思わず顔を上げた私に気が付いて苦笑した。
「ああそうだ。今も冷静じゃない。人生でこんなに心臓が煩いのは初めてだ」
薄氷の瞳が揺れる。
「好きなんだ」
それはどんな小説よりも、飾らない真っ直ぐな言葉だった。
「君が田舎が嫌だと言うなら、領地に来なくてもいい。領民の識字率を上げて、君の作品を読めて、本を広く普及させる地盤を作ろう。執筆も続けてくれ。君の好きな本を送ってくれれば全て読んで感想文を書いて送ろう」
だから、と続ける声は、いつものように自信に満ち溢れたものでは全然なくて、
「私と結婚してくれないだろうか」
項垂れて言う貴方の手は、心なしか震えていた。
「わたくしは、」
やっとのことで出した声は自分のものではないようで、
「恋愛と結婚は別だと、ずっと考えてきました」
憧れていたその感情に、蓋をするように目を伏せる。
「貴方のことを好きなのだと、自分の気持ちに気がついた瞬間には諦めていたんです。世の中思い通りになることなんてほとんどない。きっとこれまでのように何かがわたくしの邪魔をして、〝正しい〟道へ補正されていくのだと思っていたのです」
女性であること、貴族であること、婚約者であること、それらを含めた全ての要素が私を〝そうあるべき〟姿へ導き、道から外れることを許さない。
「だから、本当に欲しいものは手に入らなくて当然なんです。こんな、」
彼の目を見ることができないまま、私は自分の掌を見つめる。どんなに努力してもこの指の間から零れていってしまったものがどれだけあったことか。
「こんなことは小説の中だけのことなんです。わたくしの望むことは叶わない。わたくしには決められた役割があります。わたくしは、」
「クリスティナ」
気がつくと、目の前に彼が膝をついていた。
「そんなに私が欲しかったのか」
硬くて無骨な手が、私の頬を包み、顎を持ち上げた。
顔が、近い。
ちゅ、と唇の脇に皮膚の薄い温かな体温が触れた。薄氷の瞳がこちらを覗き込んでいる。その目が少し困ったように笑って、また近づく。
今度は少し湿った温かいものがちゅ、ちゅ、と繰り返し唇を喰んでいく。
「な、」
キスされている、と気がつくのに時間がかかり過ぎた。
驚いて開いた唇に、角度を変えて、さらに深く彼のそれが重なる。咥内に自分とは異なる体温を感じてびくりと体が震えた。
「あ、む、んっ、んんんっ」
深く、押し込まれた彼の舌を噛みそうになるが、いつの間にやら顎を掴まれて口が閉じられなかった。可愛らしい音を立てていたはずのキスは、今やちゅぷちゅぶと内部を舐り、弄り、絡み合わされている。
「ん、ぁ、ちょ、ちょっと、」
息を吸う間が分からず声を上げても、すぐに隙間を詰められてまた深くまぐわう。そのまま呼吸困難でこちらがぐったりしたことに気がつくまで、それは続いた。
「はーっ、はーっ、はぁっ」
何、何でキスする流れになったの? 今私そういう話してた!? と言いたいのだが、本格的に酸欠を起こして息をすることで精一杯だ。
「君は肺活量も鍛えた方がいいな」
息するだけで肋骨が折れそうだ、と脇の辺りを撫で上げられ、ぞくぞくと腰を捩らせる。
「……感度がいいな」
ぼそりと呟かれたひと言に、既に赤い顔にまた血を昇らせる。
「ぃ、いやらしいです!」
このままでは逆上せてしまいそうだった。
「ああ。こんな男は嫌いか? 幻滅したか?」
額をこつんと合わされて、鼻先に彼の顔がある。鋭い薄氷の瞳。
「もっと正式に君にいやらしいことをしたい」
つ、と顎のラインをなぞられて、
「なぁ、君の望むことは何でも叶えてやる。だから君の恥ずかしい姿を存分に見る権利を私にくれないか」
こちらが答えを用意する前に質問の難易度を上げないでいただけないでしょうか。
「あ、貴方こそ、あの夜、私に幻滅なさったんじゃなかったんですか?」
「何?」
「最低だって、」
彼はぐ、と喉を詰まらせて頭痛を堪えるようにこめかみを抑えた。その捨て台詞が私を刺した自覚はあるらしい。
「思い出という言葉を盾に、君を都合良く抱いてしまうという選択肢が最低だと言ったんだ。大体、あそこで処女を捨てて傷モノになったら嫁ぎ先で何と良い訳する気だったんだ」
「そんなの、長く婚約していたんですから元の婚約者とそういう関係にあったとでも何とでも言い訳が立ちます!」
すると鷹のような鋭い瞳に昏い闇が灯る。
「……あるのか、経験」
背筋に怖気が走り、私は焦る。
「あっ、あっ、あるはずないでしょう!? あちらも私に興味などありませんでしたし、わたくしだってあんな男、夜会のダンスで触れられることすら嫌でしたのに!!」
「そうか、」
すとん、と彼の額が私の肩へ落ち、ほっと安心したように肩の上で呟かれた。
しかしそこで私ははっと思い出して彼の胸を押し返し、押し返し……押し返せなかった。びくともしないわこの胸筋。
「でもあのわたくし、だから、辺境伯令息との婚約が進んでおりましてっっ」
非力な私の手の感触がくすぐったかったのか、彼はくつくつと笑い始める。
「私だ」
「へっ?」
何が?
「私が手をこまねいている間に、まさか妹が手筈を整えているとは思わなかった。滑稽にも程がある。アイツには端から私の気持ちなどお見通しだったんだろう。何しろ脳味噌が恋愛でできているらしいからな」
自己紹介がまだだったな、と彼は自嘲気味に笑う。
「東方辺境伯が長男、テオドール・フォン・ドランバルトだ」
それは紛れもなく、私と婚約の話が進んでいる男性の名前で、ぽかんと間抜けに目と口を開けたまま彼を見返す。
夜会から帰った数日後、父は私を執務室へ呼び出し、辺境伯との婚約を受けることにしようと言わなかったか。
「顔合わせの際に正式な返事をいただけるそうだな? もう顔は合わせたから、君は正式に私の婚約者だ」
ひょっとして、私は先の馬車事故で頭を強く打ってまだ夢の中にいるのだろうか?
放心している私に、彼はあの不敵な笑い方をして、
「よくも私との婚姻を前に、他の男と関係しようとしてくれたな?」
それは私にしか聞こえない小さな声ではあったのだけど、しっかりとした怒りを孕んでいた。
「……うん?」
でもそれは貴方だったんですよね?




