第009話 隣の窓口は処理が速い
白い床の線の向こうに集まった光は、すぐには人の形にならなかった。
まず、宙に浮かんだ画面が増えた。
一枚。
二枚。
三枚。
了の目の前だけではない。少し離れた右側にも、同じような白い台があり、同じような光の線が走っている。
さっきまで何もない部屋だと思っていた場所に、窓口が並んでいた。
見えなかったのではない。
そういう場所だと知らなかっただけだ。
「……増えましたね」
「転生案内の時間帯ですので」
コヨリは白い台の向こう側で、神妙な顔をしていた。
神妙な顔だけなら、女神に見える。
腕元の書類が上下逆でなければ、もっとよかった。
「コヨリさん」
「はい」
「その書類、上下逆です」
「これは、あえてです」
「何のために」
「緊張をごまかすために」
「ごまかせていません」
コヨリはそっと書類を回した。
トバリが受付台の横で紙片を浮かべた。
「初勤務状態、継続中」
「継続しないでください」
「開始済みの状態は、終了記録が出るまで継続します」
「仕事を始めた覚えがありません」
「認識差異は記録済みです」
「その記録、便利すぎませんか」
「便利ではありません。事務です」
同じ返答を何度も聞いている気がする。
了はもう何度目か分からない息を吐いた。
「まずは、最低限の手順だけ説明します」
コヨリは書類を両手で持ち直した。
「案内対象の魂が到着したら、前世照合をして、魂評価を確認して、候補世界を提示して、救済適性と需要の均衡を見て、本人の反応を見ながら説明して、必要に応じて補足を入れて、もし不安が強ければ少し話を聞いて、それから同意欄へ」
「長い」
「まだ前半です」
「前半でそれなら、聞く側は後半で生まれ変わっています」
コヨリの神妙な顔が崩れた。
「でも、ちゃんと説明しないと」
「説明は大事です。ただ、今のは手順というより、あなたの心配事一覧です」
「心配事も大事です」
「勤務初日の説明としては重いです」
了が言った時、右側の窓口から澄んだ音がした。
鈴の音に似ている。
けれど、余韻は短かった。
事務的に鳴って、事務的に消える。
右隣の白い台の前に、ぼんやりとした男の魂が立っていた。
中年くらいに見える。
作業着のようなものを着ていて、帽子を両手で握っている。
その向こうに、一人の女神が立っていた。
黒髪を低くまとめ、細い金縁眼鏡をかけている。
白い神衣には皺ひとつない。
袖口には、羽根の形をした小さな書類留めが光っていた。
コヨリの神衣を思い出す。
カップ麺の湯気。
洗濯物の下に埋まっていた腕章。
同じ職場の制服とは思えなかった。
「前世確認」
隣の女神が言った。
声は低すぎず、高すぎず、よく通る。
「名は佐伯道夫。最終年齢六十一。未練項目、家族挨拶は夢路処理済み。希望傾向、静かな土地、手仕事、土に触れる生活」
男の魂が小さくうなずいた。
「候補世界、第三案。緑境ルファ。危険度低。戦闘義務なし。農耕補助職。寿命補正あり。読み上げは必要?」
「あ、いえ。さっきので、だいたい」
「だいたいで同意欄に触らないでください。必要事項だけもう一度」
女神の指が宙を払った。
白い文字が、男の前に並ぶ。
速い。
紙をめくったわけではない。
それでも、了には書類がめくられたように見えた。
「戦闘なし。領主奉仕なし。信仰義務なし。手仕事中心。病苦の軽減あり。ただし、前世記憶は夢程度に薄まります」
「それなら、お願いします」
「本人意思確認」
「はい」
「逃げでも投げやりでもない?」
「はい。今度は、畑をやってみたいです」
「確認しました」
男の前に小さな同意欄が浮かんだ。
男がそこへ触れる。
白い光が、静かに男を包んだ。
「よい来世を」
女神が短く言った。
男は帽子を胸に抱えるようにして、少し笑った。
そして、消えた。
最初から最後まで、息を吸って吐くより少し長いくらいだった。
了は思わず隣を見たまま固まった。
「……今ので終わりですか」
「はい」
答えたのはコヨリではなかった。
隣の女神が、こちらを見ていた。
金縁眼鏡の奥の目が、了を上から下まで一度で確認する。
名札。
腕章。
頭上の輪。
たぶん、全部見られた。
「コヨリ」
「は、はい。シオリさん」
「あなたの窓口、また書類が上下逆」
「今は直しました」
「直したあとも顔が上下逆みたいになってる」
「顔は逆ではありません」
「実務は逆よ」
コヨリが反論できずに、小さく縮んだ。
シオリ。
隣窓口の女神は、そう呼ばれているらしい。
了が名札を探すと、彼女の胸元に小さく名前が出ていた。
シオリ。
表示の下に、処理件数のような数字が淡く光っている。
見ない方がいい数字に見えた。
「それで」
シオリは了の方を見た。
「あなたがカンスティウス様?」
「真木了です」
「ああ、例のカンスト事故」
「事故名で呼ばないでください」
「登録名よりましじゃない?」
「どちらも本人名ではありません」
「面倒な魂ね」
「面倒にしたのはそちらの登録処理です」
シオリの眉が、ほんの少しだけ上がった。
怒ったのではない。
面白がった、に近い。
「コヨリ」
「はい」
「この人、書類を読むタイプ?」
「はい。とても読みます」
「最悪」
「本人の前で言う言葉ですか」
了が返すと、シオリは肩をすくめた。
「褒め言葉よ。窓口側から見ると、最悪というだけ」
「褒め言葉の形をしていません」
「天界の褒め言葉はだいたい書類に隠れてるの」
「探したくないですね」
トバリが紙片に小さく書いた。
真木了、シオリと初接触。
了はその紙片を横目で見た。
「それも記録するんですか」
「勤務中の接触です」
「勤務を認めていません」
「認識差異は」
「記録済み、ですよね」
トバリはうなずいた。
シオリが短く息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか分かりにくい。
「最低限だけ教えるわ」
シオリは自分の窓口の画面を一枚、了たちの方へ滑らせた。
白い薄板のような画面が、音もなく移動してくる。
「呼び込み。前世照合。候補提示。重要条件の読み上げ。本人意思確認。同意欄。以上」
「短い」
「仕事は短くするものよ」
「短くしすぎると、本人が置いていかれませんか」
「置いていかないために、要点を削らない。余計な不安は増やさない」
シオリはコヨリを見た。
「あなたの場合、要点の前に魂の顔色を十回見る」
「見るのは、大事です」
「大事よ」
シオリはあっさり認めた。
コヨリが少し目を丸くする。
「でも、見ている間に次の魂が来る。来た魂を待たせる。待たせた魂の不安も増える。だから、速さも大事」
了は、隣の窓口があった場所を見た。
さっきの男の魂は、もういない。
白い床の線だけが残っている。
男は納得していたように見えた。
少なくとも、押し流されたようには見えなかった。
だからこそ、引っかかる。
あの速さで、本当に全部分かるのか。
あるいは、分かる魂だけが速く流れていくのか。
「今の方は、納得していたんですか」
了が聞くと、シオリはすぐに答えなかった。
代わりに、眼鏡の位置を指で直した。
「少なくとも、聞かれた条件には答えた。迷いも少なかった。夢路処理も済んでいた。あの魂は、待たせるより送った方がいい」
「迷いが多い魂は?」
「コヨリが長く話す」
「シオリさん」
コヨリが困った声を出した。
シオリはその声を無視しなかった。
ただ、甘やかしもしなかった。
「あなたの長話で救われる魂もいるわ。だから面倒なのよ」
コヨリの指が、書類の端を握った。
その表情だけ、四畳半で腕章を差し出した時に少し似ていた。
了は何も言わなかった。
言えるほど、まだ何も見ていない。
鈴の音が鳴った。
今度は、了たちの窓口の正面だった。
宙に浮かぶ画面が淡く光る。
次案内対象。
候補区分:聖女候補。
コヨリの背筋が、ぴんと伸びた。
シオリの視線も、少しだけ鋭くなる。
「聖女候補」
了は表示を読み上げた。
「職業ですか」
「役割に近いです」
コヨリが小さく答えた。
「説明すると長いので、まずは案内します」
「さっきの手順を思い出してください」
「はい。呼び込み、前世照合、候補提示、重要条件の読み上げ、本人意思確認、同意欄」
「言えるじゃない」
シオリが言った。
「言うだけなら得意です」
「得意分野が狭い」
「応援してください」
「見ています」
「応援ではない」
淡い光が、白い床の線の上に集まった。
今度は、ゆっくりと人の形になる。
現れたのは、少女だった。
制服のような服を着ている。
年は、高校生くらいに見えた。
両手を体の前で重ね、背筋を伸ばしている。
礼儀正しい。
けれど、その礼儀正しさは、白い床に少しだけ浮いて見えた。
コヨリがやわらかく声をかける。
「ようこそ、転生の間へ」
少女は一瞬だけまばたきをした。
それから、深く頭を下げた。
「はい。よろしくお願いします」
返事は、きれいだった。
早すぎるくらいに。
宙の画面に、もう一度文字が浮かぶ。
候補区分:聖女候補。
了は、手に持ったままだった臨時の腕章を、無意識に握りしめた。




