第008話 臨時職員の初出勤
初勤務。
その言葉は、押し入れよりも狭く感じた。
了は、コヨリの四畳半の真ん中で頭上の輪に触れた。
やはり、つかめない。
外れない。
そして、規則上は働くことになっている。
「トバリさん」
「はい」
「初勤務というのは、俺が承諾した仕事ですか」
「いいえ」
即答だった。
「では、なぜ初勤務が発生するんですか」
「登録済みだからです」
「原因と結果が雑です」
「規則上は十分です」
十分ではない。
少なくとも、本人にはまったく十分ではない。
ちゃぶ台の上には、トバリが浮かべた白い紙片が残っている。
初勤務開始、未記録。
記録期限、近。
近、の文字が嫌だった。
会社で見たら、誰かが急いで資料を作る文字だ。
死後にまで同じ気配が追ってくるとは思わなかった。
「押し入れの件はどうなったんですか」
「条件付きで一時保管場所として記録可能です」
トバリは規則集を抱えたまま答えた。
「ただし、一時保管は勤務免除ではありません」
「便利な逃げ道ではないと」
「はい」
「押し入れに入っても働くんですか」
「押し入れに入る前に働きます」
「順番がおかしい」
「記録上は」
「それはもう聞きました」
コヨリが、押し入れの前で両手を合わせた。
「真木様。まず、最低限の準備だけしましょう」
「俺は準備をすると言っていません」
「はい。なので、準備されるところから」
「もっと悪い」
「すぐ終わります。たぶん」
「その言葉を使う時は、だいたい終わりません」
コヨリは反論せず、押し入れとは反対側の隅へ駆け寄った。
そこには、転生マニュアルと古い申請書の山があった。
彼女は山に手を突っ込み、何かを探し始める。
紙の束。
羽根ペン。
空のカップ麺容器。
学神祭と書かれたヨレヨレのジャージ。
順番に畳へ置かれていく。
「職場の備品を生活用品の下に埋めないでください」
「生活用品ではありません。思い出の品です」
「カップ麺容器もですか」
「それは、ええと、昨日の判断ミスです」
「昨日から片付いていない」
「天界時間では最近です」
「便利ですね、天界時間」
コヨリは聞こえなかったふりをして、紙の山の奥から薄い冊子を引っ張り出した。
表紙には、臨時職員の手引き、とある。
角が曲がっていた。
少し湿ってもいた。
了は距離を取った。
「それ、何で湿ってるんですか」
「カップ麺の湯気です」
「手引きを湯気に当てないでください」
「乾かせば読めます」
「読めるかどうかの問題ではない」
トバリが紙片に文字を書いた。
臨時職員の手引き、状態不良。
「記録しないでください」
コヨリが小さく叫んだ。
「見ました」
「見ないでください」
「私は見ていません。記録はしました」
「その言い方、便利すぎませんか」
了が言うと、トバリはまばたきを一度した。
「便利ではありません。事務です」
コヨリは次に、ちゃぶ台の下へ潜った。
白い衣の裾が畳の上でばたばた動く。
しばらくして、彼女は小さな名札をつかんで戻ってきた。
名札には、金色の文字でカンスティウスと書かれている。
了は受け取らなかった。
「誰ですか」
「登録名です」
「名前で呼べ」
「真木様です」
「なら名札も真木了にしてください」
「今は、手書きで横に」
「公的な名札に手書きで横に足さないでください」
コヨリは名札を裏返した。
裏は白かった。
「では、裏に」
「もっと駄目です」
トバリが規則集を開いた。
「臨時職員の貸与備品は、登録名表示が原則です。ただし、本人呼称を補助記載することは可能です」
「補助」
「小さく書けます」
「名前の方が小さいんですか」
「登録名が優先されます」
了は深く息を吐いた。
コヨリは名札の端に、羽根ペンで小さく真木了と書いた。
カンスティウスの下に、小さな本名。
状況は何ひとつ解決していない。
けれど、コヨリが本名を書いた時だけ、少しだけ筆圧が強かった。
「次は腕章です」
コヨリは言って、今度は洗濯物の下を探り始めた。
了は目をそらした。
トバリも目をそらさなかった。
事務的に記録していそうだった。
「コヨリさん」
「はい」
「備品を探す場所として、洗濯物の下は不適切です」
「昨日、急いでいたので」
「昨日から急いでばかりですね」
「天界の仕事は、だいたい急いでいます」
その言い方だけ、少し笑えなかった。
コヨリは洗濯物の下から、白い腕章を引っ張り出した。
臨時、と書かれている。
大きく、はっきりと。
「これを」
「着けません」
「着けなくても、持っているだけで」
「着けさせる前提でしたよね」
「少しだけ」
「少しだけ腕章は着けられません」
コヨリは腕章を抱えたまま、了を見上げた。
さっきまでの焦りとは違う顔だった。
困っている。
それは変わらない。
けれど、丸投げしようとしている顔ではなかった。
「真木様」
「はい」
「一人で窓口に立たせるつもりはありません」
了は黙った。
コヨリは腕章を握りしめた。
「これは、私の失敗で始まったことです。登録も、名前も、宿舎も。だから、初勤務も、私が横に立ちます」
四畳半が静かになった。
押し入れのふすま。
ちゃぶ台。
カップ麺。
湿った手引き。
カンスティウスの名札。
どれも信用できる材料ではない。
それでも、コヨリの声だけは、さっきより少しまっすぐだった。
「信用したわけではありません」
「はい」
「臨時職員を認めたわけでもありません」
「はい」
「ただ」
了は、白い転生の間へ続く扉の方を見た。
自分は、あの部屋で転生を案内された。
同意した覚えのない来世を、当然のように告げられた。
もし次に来る魂も、同じように席へ座らされるなら。
自分がどうなるかも分からないまま、見なかったことにはできない。
「また誰かが、本人抜きで行き先を決められるなら、横で黙っている気はありません」
コヨリは小さくうなずいた。
「はい」
トバリが紙片に文字を書いた。
真木了臨時職員、初勤務準備に同席。
「職員は認めていません」
「認識差異は記録済みです」
「便利ですね」
「事務です」
コヨリは腕章を了へ差し出した。
了は少し迷ってから、受け取った。
腕には巻かない。
手に持っただけだ。
名札も胸につけない。
手引きも、湿っているので読みたくない。
それでも、四畳半から出る準備だけは整ってしまった。
白い扉が開く。
カップ麺の匂いが薄れ、代わりに白い光が差し込んだ。
了はコヨリの後について、白い転生の間へ戻った。
最初に見た時、その部屋は何もない白い空間に見えた。
天井も床も壁も白い。
声が吸い込まれるような、神聖すぎる場所。
だが、今は違う。
中央の白い台は受付台に見えた。
隅に積まれた紙は、転生同意書の束だった。
宙に浮かぶ画面には、次案内待機、と小さく出ている。
床の白い線は、魂が立つ位置を示す目印だった。
神聖な部屋ではなく、白すぎる窓口だった。
「見え方が変わりましたね」
了が言うと、コヨリは少しだけ困った顔で笑った。
「最初から、そういう場所でもあります」
「最初に説明してください」
「すみません」
トバリはいつの間にか受付台の横に立っていた。
規則集を抱えたまま、白い紙片を浮かべる。
「初勤務開始を記録します」
「まだ開始していません」
「窓口側に立ちました」
「立っただけです」
「開始条件を満たしました」
「条件が軽い」
トバリは紙片に文字を書いた。
登録名:カンスティウス。臨時職員、初勤務開始。
その下に、小さく追記される。
真木了。
「順番を逆にしてください」
「登録名が主です」
「本人が主です」
「意見として記録します」
了はもう何度目か分からない息を吐いた。
コヨリは白い台の向こう側に立った。
その姿勢だけは、四畳半でカップ麺を隠していた女神とは少し違う。
背筋が伸びている。
袖口を整えている。
目の前に来る誰かを、待とうとしている。
「真木様」
「はい」
「まずは、横で見ていてください。勝手に進めません。私が案内します。でも、気になることがあったら止めてください」
「止めていいんですか」
「私が、止まります」
了はコヨリを見た。
それは規則として正しい言葉ではないのだろう。
トバリも記録しなかった。
ただ、コヨリはそう言った。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「仕事を受けるという意味ではありません」
「はい」
「監視です」
「はい。監視でも、横にいてください」
白い部屋に、澄んだ音が鳴った。
鈴の音に近い。
けれど、余韻は事務的だった。
宙に浮かぶ画面が淡く光る。
次の案内対象が到着します。
了の手の中で、臨時の腕章が少しだけしわになった。
自分の処遇も、名前も、輪も、何ひとつ片付いていない。
それなのに、今度は案内する側に立っている。
コヨリが小さく息を吸った。
トバリが紙片を構えた。
白い床の線の向こうに、淡い光が集まり始める。
了は一歩だけ前へ出た。
転生を断った男の、初勤務が始まろうとしていた。




