第007話 事務天使トバリは見ていません
事務確認。
その言葉を聞いた瞬間、コヨリの四畳半から生活音が消えた。
カップ麺の湯気も、押し入れのふすまも、壁の転生ノルマ表も、全部が息をひそめたように見える。
もちろん、実際には畳もふすまも息をしない。
息を止めていたのはコヨリだった。
「コヨリさん」
「はい」
「事務確認とは」
「手続きの、確認です」
「言葉を分解しただけですね」
「規則に沿っているかを見ていただくものです」
「押し入れに人を入れる件を」
「一時的な待機場所の件を」
「言い換えが早い」
ちゃぶ台の上で、伏せられた白い板が赤く光っている。
確認担当、派遣済み。
了はその文字を見た。
「派遣済み、ということは」
「来ます」
「誰が」
「トバリさんが」
コヨリはその名前を出した途端、ものすごい勢いで動き始めた。
まず、押し入れのふすまを半分閉める。
閉めたふすまの隙間から、未開封のカップ麺の箱が見えている。
次に、ちゃぶ台の上の転生マニュアルを重ねる。
重ねた一番上に、食べかけのカップ麺を置いてしまい、慌てて下ろす。
最後に、床に落ちていた白い羽根ペン三本を拾い、なぜか自分の袖の中へ隠した。
「何をしているんですか」
「通常の部屋にしています」
「通常の部屋は、羽根ペンを袖に隠しません」
「これは備品です」
「備品ならなおさら隠さないでください」
そのとき、壁が鳴った。
白い転生の間へ続く扉ではない。
四畳半の、何もなかった壁の一部が、こんこん、と控えめに鳴った。
了は壁を見た。
コヨリも壁を見た。
もう一度、こんこん。
「壁をノックしましたよ」
「天界の事務経路です」
「玄関は」
「ありません」
「生活空間としてだいぶ問題があります」
コヨリが返事をする前に、壁に細い線が走った。
白い線が四角く切れ、そこから小柄な天使が入ってきた。
銀色に近い短い髪。淡い灰色の事務服。背中の小さな羽。
腕には分厚い規則集を抱えている。
その天使は部屋の中を一度見回した。
ちゃぶ台。
カップ麺。
押し入れ。
袖からはみ出した羽根ペン。
それから、了の頭上で光る輪。
「確認担当、トバリです」
声は平らだった。
事務処理の時間になったから来た、という声だった。
「ト、トバリさん。これはですね」
「私は見ていません」
コヨリの顔が明るくなった。
「ですよね」
「記録はしました」
明るさが消えた。
トバリは規則集を左腕に抱え直し、右手で宙に文字を書いた。
何もない空中に、小さな白い紙片が浮かぶ。
紙片には、四畳半内状況確認、とだけ出ていた。
「部屋の状況は、規則確認の範囲です」
「見ていないのでは」
了が聞くと、トバリはまばたきを一度した。
「私的には見ていません。事務的には記録しました」
「分けられるんですか」
「分けます」
「強い」
トバリの視線が、了へ向いた。
正確には、了の顔を通り越して、頭上の輪へ向いた。
「カンスティウス臨時職員」
「真木了です」
「登録名はカンスティウスです」
「本人の名前は真木了です」
「差異を記録しました」
トバリはまた宙に文字を書いた。
登録名と呼称に差異あり。
了は眉を寄せた。
「訂正ではなく、差異なんですね」
「今の権限では訂正できません」
「誰ならできますか」
「一輪期終了後の審査担当です」
「遠い」
「近道は規則集にありません」
トバリは淡々と答え、規則集を開いた。
「確認事項。臨時職員の入寮申請」
コヨリの肩が跳ねた。
「それは、いま申請中で」
「却下です」
早かった。
「早いですね」
了が言うと、トバリはページを押さえたまま答えた。
「採用経緯欄に不備があります」
「勢い、ですか」
「はい」
コヨリが両手で顔を覆った。
「消したいです」
「消せません」
「ですよね」
「採用経緯欄に『勢い』とある臨時職員は、通常宿舎の自動割当対象外です」
「天界でも勢い採用は駄目なんですね」
「駄目です」
トバリは一切ためらわなかった。
そこだけは妙に信頼できた。
「では、俺はどうなるんですか」
「次の確認事項へ移ります」
「答えを飛ばさないでください」
「飛ばしていません。順番です」
トバリは規則集を数ページめくった。
小さな指が、行の上で止まる。
「臨時職員の一時保管場所について」
「保管という言葉を使うんですね」
「規則上の語です」
「人間に使う語ではない」
「魂です」
「あなたもその分類で返すんですか」
「規則上は」
了は額に手を当てた。
天使の輪に指が触れる。
やはり、つかめない。
トバリは気にせず読み上げた。
「一時保管場所は、担当者の管理下にあり、扉、壁、境界、棚、箱、押し入れ、その他これに類する区画を含みます」
部屋が静かになった。
了はゆっくり顔を上げた。
「今、押し入れと言いましたか」
「言いました」
コヨリが、小さく拳を握った。
「押し入れ、入ってました」
「喜ばないでください」
「すみません」
トバリは規則集から目を上げない。
「規則上は、押し入れも一時保管場所に含まれます」
「人を入れていいと書いてあるんですか」
「魂です」
「では、魂を入れていいと」
「条件付きです」
了はその言葉に反応した。
条件。
そこだけは聞く価値がある。
「条件を全部言ってください」
トバリはまたページをめくった。
「危険物を撤去すること。換気を妨げないこと。責任者が所在を把握すること。本人が拒否した場合、物理的に閉じ込めないこと」
「最後が当然すぎます」
「当然の規則も、書かれているものだけが確認できます」
「書かれていなければ」
「確認できません」
「怖いことを平らに言いますね」
「平らに読む係です」
「それで、押し入れは」
「条件を満たせば、一時保管場所として記録可能です」
「記録可能」
「許可ではありません。記録です」
「違いは」
「責任の置き場です」
「そこを一番ごまかさないでほしい」
トバリは紙片に文字を追加した。
一時保管場所候補:押し入れ。
条件付き記録。
コヨリはそれを見て、ほっと息を吐きかけた。
吐ききる前に、トバリが次のページを開いた。
「次の確認事項。臨時職員の登録維持」
コヨリの息が止まった。
了も嫌な予感がした。
「俺は登録を保ちたいと言っていません」
「登録解除条件は満たしていません」
「そちらが勝手に登録したんです」
「登録済みです」
トバリはまた平らな声で読んだ。
「臨時職員は、登録後すみやかに最低限の研修を受け、初勤務記録を残すこと」
「初勤務」
了はコヨリを見た。
コヨリは明らかに目をそらした。
「コヨリさん」
「はい」
「初勤務とは」
「ええと、転生課の簡単なお仕事を」
「俺は働くと言っていません」
「はい」
「言っていませんよね」
「はい」
トバリが紙片に文字を書いた。
本人、勤務同意なし。
「記録しないでください」
「聞こえました」
「聞こえたものを全部記録するんですか」
「必要なものだけです」
「今のは必要なんですか」
「後で揉めます」
「もう揉めています」
トバリは規則集を閉じた。
ぱたん、という音が四畳半に落ちる。
その音で、話が終わったのだと分かってしまうのが嫌だった。
「結論を読み上げます」
了は身構えた。
コヨリも身構えた。
トバリだけが、まったく身構えていなかった。
「通常宿舎への入寮申請は、現時点では差し戻し見込みです。押し入れは、条件を満たせば一時保管場所として記録可能です」
「保管という言葉には最後まで納得していません」
「差異を記録します」
「それ便利ですね」
「便利ではありません。事務です」
トバリは最後に、了の頭上の輪を見た。
「カンスティウス臨時職員は、最低限の研修および初勤務へ進む必要があります」
「真木了です」
「呼称差異を記録済みです」
「名前で呼んでください」
トバリは少しだけ考えた。
本当に、少しだけ。
「真木了臨時職員」
「職員もまだ認めていません」
「認識差異を記録します」
了は深く息を吐いた。
押し入れは、条件付きで生き残った。
宿舎はなく、名前は違い、働く気がないのに初勤務へ進めと言われている。
「トバリさん」
「はい」
「これは助言ですか」
「違います」
トバリは規則集を胸に抱えた。
「私は助言していません。規則を音読しています」
コヨリが、押し入れの前で小さく手を合わせた。
「では、真木様」
「嫌な予感しかしません」
「まずは押し入れを片付けて、それから」
トバリが白い紙片をもう一枚浮かべた。
初勤務開始、未記録。
記録期限、近。
「それから、初勤務です」
了は押し入れを見た。
ちゃぶ台を見た。
白い板を見た。
最後に、何も見えない頭上の輪を見上げるように目だけを上げた。
転生を断った。
なのに、次に待っているのは転生課の初勤務らしい。
「順番がおかしい」
了が言うと、トバリは平らな声で答えた。
「記録上は、これが順番です」
一番困る種類の正しさだった。




