第006話 押し入れは宿舎に入りますか
押し入れ。
古いふすま。
転生課の名札。
空き容量。
了は、コヨリの言葉を頭の中で並べた。
並べても、まともな文章にならない。
「コヨリさん」
「はい」
「今の、空き容量という言葉は」
「収納に関する一般的な表現です」
「俺に関する話でしたよね」
「広い意味では」
「狭い意味で答えてください」
コヨリは押し入れから視線を外した。
外した先には、ちゃぶ台がある。
ちゃぶ台の上には、湯気の薄くなったカップ麺と、転生マニュアルと、白い小さな板があった。
コヨリはその板を両手で持ち上げる。
板の表面に、淡い光が浮かんだ。
宿舎申請。
了はその四文字を読んだ。
「それです」
「はい。正規の手順では、臨時職員用の宿舎申請を出します」
「最初からそれをしてください」
「しようとしています」
「しようとしている間に押し入れを見ないでください」
「押し入れは見ていません」
「見ました」
「収納状況の把握です」
「俺は荷物ではありません」
「はい。そこは重々承知しています」
コヨリは板を操作した。
白い文字がいくつも浮かび上がる。
所属。
区分。
登録名。
採用経緯。
受け入れ責任者。
宿舎種別。
どこを見ても、死後すぐに読む言葉ではない。
了は畳の上に正座する気にはなれず、入口近くに立ったまま画面を見ていた。
頭上の輪だけが、部屋の低い天井に近い。
白い転生の間では気にならなかったが、四畳半だと妙に近い。
「所属は転生課で合っていますか」
「はい」
「区分は臨時職員」
「はい」
「登録名は」
「カンスティウスです」
「名前で呼べ」
「すみません」
コヨリは謝りながら、登録名の欄に触れた。
欄の横に、小さな赤い印が出る。
登録名変更不可。
一輪期終了まで固定。
了は目を細めた。
「固定」
「そこは、今は触らない方が」
「触っていないのに固定されています」
「そうですね」
「そうですね、で済ませるには俺の名前が違います」
コヨリは言い返せず、画面を下へ送った。
採用経緯。
その欄を見た瞬間、コヨリの指が止まった。
了も見た。
採用経緯:備品誤装着および緊急確定。
備考:勢い。
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
カップ麺の蓋が、湯気で少しだけ持ち上がる。
「勢い」
了が言った。
「見間違いです」
「読めます」
「光の加減です」
「天界の画面で光の加減を言い訳にしないでください」
コヨリは板を胸に抱え込んだ。
隠すには遅い。
「採用経緯が勢いの臨時職員に、宿舎は出るんですか」
「通常なら、出ます」
「通常なら」
「通常の臨時職員は、採用前に申請が通っているので」
「俺は」
「採用後に、申請を」
「採用に同意していません」
「はい」
「登録名も違います」
「はい」
「経緯欄は勢い」
「はい」
「宿舎申請は」
コヨリは板をそっとちゃぶ台に置いた。
置き方が丁寧だった。
危険物のようだった。
「通りにくいです」
「通りにくい」
「正確には、差し戻されやすいです」
「何が違うんですか」
「戻ってくるか、帰ってこないかです」
「どちらも困ります」
了は頭上の輪に手を伸ばした。
指先は輪に触れる。
相変わらず、つかめない。
つかめないもののせいで、宿舎も決まらない。
この世でもあの世でも、書類が人を動かすらしい。
死んだ後までそうだとは思わなかった。
「責任者はコヨリさんですよね」
「はい」
「責任者として、俺の待機場所を決める必要がある」
「はい」
「正式な宿舎はすぐ使えない」
「はい」
「だから」
了は押し入れを見た。
コヨリは見ていないふりをした。
ふりをしたまま、目だけが押し入れへ寄っていた。
「だから、押し入れなんですか」
「押し入れとは言っていません」
「では何ですか」
「一時保管場所です」
「人間を保管するな」
「魂です」
「分類を変えても駄目です」
コヨリは両手を胸の前で組んだ。
神に祈るような姿勢だった。
本人が女神なので、誰に祈っているのか分からない。
「真木様。聞いてください」
「名前は合っています」
「ありがとうございます」
「内容はまだ許していません」
「宿舎申請が通るまでの、本当に一時的な措置です。押し入れなら、部屋の外から見えませんし、白い転生の間にも出ませんし、私が責任を持って」
「持って」
「管理を」
「人間を管理するな」
「魂です」
「だから駄目です」
押し入れのふすまは、部屋の奥に黙って立っていた。
片方の取っ手に引っかかった転生課の名札が、妙に事務的に見える。
了は近づかなかった。
近づいたら負けのような気がした。
コヨリは押し入れの前へ小走りで行き、ふすまに手をかけた。
「見てください。意外と広いんです」
「見ません」
「上段と下段があります」
「物件紹介を始めないでください」
「日当たりは」
「ないでしょう」
「静かです」
「閉じ込められているからです」
「布団も」
コヨリがふすまを少しだけ開けた。
中から、畳まれていない布団が見えた。
その上に、転生案内用と思われる白い羽根ペンが三本、ばらばらに転がっている。
さらに奥には、未開封のカップ麺の箱。
転生マニュアルの古い版。
片方だけのスリッパ。
了は黙った。
コヨリも黙った。
「すみません。先に片付けます」
「そういう問題ではありません」
「衛生面は改善します」
「そういう問題でもありません」
「では、何の問題ですか」
「死後、本人同意なしに転生を案内され、拒否したら最終処分と言われ、備品を触ったら臨時職員にされ、名前を間違えられ、宿舎がないから押し入れに入れられそうになっている問題です」
コヨリは口を閉じた。
了は自分で言って、少し疲れた。
長い。
状況が長い。
一日の出来事として長すぎる。
「……すみません」
コヨリの声は、小さかった。
さっきまでの言い訳ではなかった。
了は押し入れから視線を戻した。
コヨリはふすまに手をかけたまま、畳の縁を見ていた。
「私の処理が悪いのは、その通りです。けど、真木様を白い部屋に出したままだと、登録事故の確認が入って、もっと早く別の処理に回るかもしれません」
「別の処理」
「今は、言い方を選ばせてください」
了は黙った。
魂破棄。
その言葉は、もう聞いている。
コヨリが今それを言わなかっただけで、消えたわけではない。
了は押し入れを見た。
嫌だ。
当然、嫌だ。
だが、白い部屋でただ待っているよりは、コヨリが何かを止めようとしていることだけは分かった。
信じたわけではない。
状況が最悪な方向へ転がる速度を、少し遅くしようとしている。
それだけだ。
「仮に」
「はい」
「仮にです」
「はい」
「押し入れを、一時的な待機場所として検討するとして」
コヨリの顔が少し明るくなった。
「はい」
「中を全部出してください」
「はい」
「清掃してください」
「はい」
「ふすまは閉めない」
「はい」
「俺のことを保管物と呼ばない」
「はい」
「宿舎申請は続ける」
「はい」
「そして、登録名は真木了です」
「はい、真木様」
コヨリは勢いよくうなずいた。
勢いよくうなずいた拍子に、頭の横の髪が揺れる。
その勢いで、ちゃぶ台の上の白い板が小さく震えた。
板の表面に、赤い光が灯る。
了とコヨリは同時に見た。
宿舎申請。
一時保管場所欄。
記入内容:押し入れ。
確認中。
了はコヨリを見た。
「入力しました?」
「まだです」
「では、なぜ押し入れと出ていますか」
「音声を拾ったのかもしれません」
「天界の申請画面、感度が高すぎませんか」
赤い光が、もう一度点滅した。
規則確認が必要です。
担当確認を要請しました。
部屋の空気が、すっと冷えた。
カップ麺の湯気も、押し入れのふすまも、壁のノルマ表も、その一文の前で急に静かになる。
「コヨリさん」
「はい」
「担当確認とは」
コヨリは白い板を見つめたまま、少しだけ笑った。
笑顔だった。
泣きそうな笑顔でもあった。
「規則に詳しい方が、来ます」
「今から」
赤い光が三度目に点滅した。
確認担当、派遣済み。
了は押し入れを見た。
それから、自分の頭上の輪を見上げようとして、見えないことを思い出した。
「押し入れに入る前に、監査が来るんですか」
「監査ではありません」
「では」
コヨリは、白い板をちゃぶ台にそっと伏せた。
伏せても、赤い光は畳に漏れている。
「事務確認です」
その言葉も、まったく大丈夫ではなさそうだった。




