第011話 納得していないなら同意じゃない
「また、失敗できない場所なんですか」
少女の声が消えたあと、白い部屋には何も残らなかった。
白い床。
白い台。
白い画面。
右下に浮かぶ、同意する、の四文字。
その全部が、急に薄情に見えた。
コヨリの指先は、同意欄の手前で止まっている。
少女は、自分が何を言ったのか分からないような顔をしていた。
「あ」
少女が小さく息をのむ。
「すみません。今のは」
「謝るところではありません」
了が言う前に、コヨリが言った。
声は少し震えていた。
けれど、聞こえないほどではない。
シオリは隣で画面を見ていた。
金縁眼鏡の奥の目が、同意欄と少女を一度ずつ確認する。
「質問が出たなら、回答してから意思確認」
シオリは淡々と言った。
「ただし、本人は拒否していません。大丈夫とも言っています。通常なら、説明補足のあと同意欄へ進めます」
「通常なら」
了はその言葉を繰り返した。
「便利ですね、それ」
「便利ではありません。現場の手順です」
トバリと同じような返し方をされた。
この職場は、便利という言葉に厳しい。
「手順としては、そうなんでしょう」
了は少女の手元を見た。
重なった指は、まだほどけていない。
「でも、今のを聞いて、同意欄へ進むんですか」
シオリは表情を変えなかった。
「同意欄に触れるかどうかは本人が決めます」
「本人が決められる状態ですか」
その言葉で、少女の肩がわずかに揺れた。
了は声を落とした。
責めたいわけではない。
怖がらせたいわけでもない。
ただ、見なかったことにはできなかった。
「すみません。あなたに怒っているわけではありません」
「はい」
少女はすぐに返事をした。
やはり早い。
早すぎる。
了は首を横に振った。
「それです」
「え」
「今の『はい』です。俺が何を聞いても、あなたは先に返事をしている」
少女は唇を結んだ。
コヨリが息を止める。
シオリは黙っている。
「何が正解か、探していませんか」
少女の指が、親指の爪の横を押した。
白い光の中で、その動きだけが妙にはっきり見えた。
「正解、ですか」
「はい。コヨリさんが安心する返事。シオリさんが処理しやすい返事。俺が納得しそうな返事」
「そんな」
少女は否定しようとした。
けれど、否定の言葉も途中で止まった。
画面の右下では、同意する、の四文字が変わらず浮いている。
了はそれを見てから、少女へ向き直った。
「正解じゃなくて、あなたがどうしたいかを聞いています」
少女の目が揺れた。
「どう、したいか」
「聖女候補になりたいなら、それでいい。怖いけれど行きたいなら、それもあなたの選択です。だけど、怖いのに『はい』と言っているなら」
了はそこで一度言葉を切った。
自分の声が強くなりすぎないように、少し息を置く。
「それは、同意とは違うと思います」
シオリが小さく息を吐いた。
「カンスティウス様」
「真木了です」
「真木さん」
初めて、シオリが登録名でも事故名でもなく呼んだ。
その分だけ、声が少し硬い。
「窓口では、本人が拒否していない返事を拾わないと進みません。全員が自分の本音をきれいに言えるわけではない」
「そうでしょうね」
「だから、短く確認するんです。条件を読んで、質問を受けて、同意欄を出す。本人が触れるなら記録上は同意です」
「記録上は」
了はまた、その言葉を拾った。
シオリの眉が少し動く。
「記録に残らない同意は、仕事で扱えません」
「記録に残る同意が、本心とは限らない」
白い部屋が、もう一度静かになった。
コヨリの手が、同意欄から少し離れる。
少女はその手の動きを見ていた。
「私」
少女が言った。
声は細い。
けれど、さっきより遅かった。
返事ではなく、言葉を探している声だった。
「期待されるのは、嫌じゃないんです」
同じ言葉。
けれど、今度は少し違って聞こえた。
「期待されると、うれしいです。ちゃんと見てもらえた気がして。頑張ったことが、無駄じゃなかった気がして」
少女は白い床を見たまま続けた。
「でも、期待されたら、断れなくなります」
指先がほどけかけて、また重なった。
「できるでしょう、って言われたら、できないって言えなくなります。あなたなら大丈夫って言われたら、大丈夫じゃないって言えなくなります」
コヨリは何も言わなかった。
シオリも止めなかった。
「前も、そうでした」
少女の声が少しだけ震えた。
「いい子だから。優等生だから。任せても大丈夫だから。みんな、そう言ってくれて」
褒め言葉のはずだった。
了にも、それは分かる。
悪意のある言葉ではない。
けれど、逃げ道をふさぐ言葉になることがある。
「失敗したら、みんなががっかりすると思いました」
少女はようやく顔を上げた。
同意欄ではなく、コヨリを見る。
「だから、聖女候補って聞いて、すごいことなんだろうなって思いました。ありがたいことなんだろうなって」
「はい」
コヨリの声は、さっきよりずっと小さかった。
「でも」
少女はそこで詰まった。
了は待った。
シオリも、待った。
白い画面だけが、何も知らない顔で光っている。
「また、失敗できない子になるのは、怖いです」
その言葉は、同意欄よりずっと重かった。
了は、手に持っていた臨時の腕章を見た。
臨時。
登録名。
勤務開始。
自分の意志より先に、記録が進んでいく感覚。
それとは違う。
違うが、似ている。
「今のは」
シオリが静かに言った。
「拒否ですか」
少女は反射的に口を開いた。
「いえ、そんな」
言いかけて、止まる。
また正解を探している。
了は、同意欄の前に一歩出た。
少女と画面の間に立つほどではない。
ただ、コヨリの手元が見える位置まで。
「拒否かどうかを急いで決めなくていいでしょう」
「真木さん」
シオリの声に、少しだけ警告が混じった。
了はシオリを見ずに言った。
「納得していないなら、同意じゃないでしょう」
言ってから、白い部屋の明るさが少し変わった気がした。
実際には何も変わっていない。
画面も同じ。
同意欄も同じ。
少女も、コヨリも、シオリも同じ場所にいる。
それでも、同意する、の四文字だけが、さっきより遠く見えた。
コヨリがゆっくりと息を吸った。
「真木様」
「はい」
「私も、そう思います」
声は小さい。
けれど、今度は震えていなかった。
コヨリは同意欄から手を離し、画面の左下を開いた。
そこに、小さな項目が現れる。
処理保留。
同意欄よりも小さい。
見つけにくい場所にある。
了はその文字を見て、少しだけ嫌な気分になった。
用意されているのに、使わせたくない場所に置かれている。
そんな配置に見えた。
「コヨリ」
シオリが呼んだ。
短い声だった。
責めてはいない。
止めてもいない。
ただ、その先を知っている声だった。
コヨリの指が、処理保留の上で止まる。
少女はそれを見つめていた。
「今すぐ決めなくて、いいんですか」
コヨリは少女を見た。
今度は、画面ではなく。
「はい」
そして、自分で少し驚いたように、もう一度言った。
「今すぐ、決めなくていいです」
シオリのまつげが、一度だけ硬く伏せた。
「それ」
彼女は、淡々とした声で言った。
「記録に残りますよ」




