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第012話 処理遅延アラート

「記録に残りますよ」


シオリの声は、白い部屋によく通った。


責めている声ではない。


脅している声でもない。


ただ、窓口の先輩が、押す前に必要なことを言っただけの声だった。


だから余計に重かった。


コヨリの指は、処理保留の上で止まっている。


同意欄より小さな項目。


画面の左下。


見落とそうと思えば、見落とせる場所。


了は、その配置が気に入らなかった。


「記録に残ると、どうなるんですか」


「残ります」


シオリが言った。


「その説明、少し足りません」


「足りないくらいでちょうどいいのよ。全部聞いたら、押す手が止まるから」


コヨリの指が、わずかに震えた。


少女はその指を見ている。


自分のせいで何かが起きるのだと、もう気づき始めている顔だった。


「あの」


少女が小さく言った。


「私、やっぱり」


「待ってください」


了は反射的に口を挟んだ。


少女の肩が跳ねる。


強すぎた。


了は声を落とす。


「すみません。決め直させたいわけではありません」


「はい」


少女はまた、すぐ返事をした。


けれど、そのあとで唇を噛んだ。


今の「はい」も早すぎたと、自分で気づいたようだった。


コヨリが少女へ向き直る。


「あなたのせいではありません」


神々しい言葉ではなかった。


女神の宣告でもない。


ただ、窓口で迷っている相手へ向けた、少し不器用な言葉だった。


「これは、私の窓口で、私が選ぶ処理です」


「でも」


「でも、です」


コヨリは一度、シオリを見た。


シオリは何も言わない。


金縁眼鏡の奥の目だけが、画面とコヨリの指を見ていた。


「今すぐ決めなくていいと、私は言いました」


コヨリは少女に戻る。


「言ったからには、今すぐ決めさせません」


その声で、了は少しだけ息を吐いた。


安心したわけではない。


安心していい場面でもない。


ただ、コヨリが同意欄へ戻らなかったことに、胸の奥の固いものが少し緩んだ。


「処理保留を選択します」


コヨリの指が、処理保留へ触れた。


白い画面が、ふっと細くなる。


聖女候補、と金色に光っていた文字が薄まり、同意欄が閉じた。


同意する、の四文字が消える。


代わりに、小さな灰色の文字が浮かんだ。


状態:保留。


少女はそれを見て、目を瞬いた。


「送られない、んですか」


「はい」


コヨリは答えた。


「今は、送りません」


少女の手が、体の前でほどけかけた。


完全にはほどけない。


けれど、親指が爪を押すのをやめた。


それだけで、白い部屋の空気が少し変わった。


了は、よかった、と言いかけた。


言わなかった。


よかった、で終わるほど簡単な場面ではない。


その直後だった。


白い台の端が、赤く光った。


短い音が鳴る。


鈴ではなかった。


金属を軽く弾いたような、硬い音。


宙に浮かぶ画面の上に、赤い文字が出た。


処理遅延アラート。


了は赤い文字を見上げた。


白い部屋には、赤が似合わない。


だから余計に目に刺さる。


「早いですね」


了が言うと、シオリは即答した。


「早く出るようにできています」


「便利ですね」


「不便にするための警告よ」


トバリがいつの間にか受付台の横に立っていた。


淡い灰色の事務服。


短い銀色の髪。


小さな羽。


手元の紙片が、赤い表示と同じ間隔でかすかに震えている。


「処理保留を確認」


トバリが淡々と読み上げた。


「対象、聖女候補。窓口、コヨリ。関連臨時職員、カンスティウス」


「真木了です」


「補助記載、真木了」


「補助を主にしてください」


「記録順は規則に従います」


こういう時でも、トバリはぶれない。


ぶれないことが少し腹立たしく、少し助かる。


「違反ですか」


了が聞くと、シオリが答えた。


「違反ではないわ」


コヨリの肩が、ほんの少し下がった。


だが、シオリは続けた。


「ただし、記録には残る。保留一件。処理遅延一件。後続案内への影響あり」


赤い文字の下に、数字が増えた。


後続案内、待機中。


遅延見込み、増加。


了は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。


「後続案内」


「次に来る魂よ」


シオリは白い床の線を見た。


まだ誰も立っていない。


けれど、宙の画面には待機という文字が出ている。


「この窓口が止まれば、次の案内が遅れる。遅れれば、待つ魂が増える。待つ魂が増えれば、不安も増える」


「だから、流す方がいいと」


「流す、ではありません」


シオリの声が少しだけ硬くなった。


「案内するの。条件を読み、確認し、本人が触れたら送る。速さだけで雑にしているわけではない」


了は黙った。


それは、分かっている。


シオリの隣窓口で見た男の魂は、雑に扱われてはいなかった。


短く、必要なことを確認され、本人が選んで送られた。


あれを悪いとは言えない。


だからこそ、今の赤い文字が重い。


「でも、今の子は触れられなかった」


了は少女を見た。


少女は赤い文字と灰色の保留表示を交互に見ている。


顔色は悪い。


けれど、同意欄を見ていた時より、呼吸は浅くない。


「ええ」


シオリは否定しなかった。


「だからコヨリは止めた。止めた以上、その分は記録に乗る」


コヨリは赤い文字を見上げていた。


いつものように慌てて、言い訳を探している顔ではない。


怖がってはいる。


けれど、同意欄へ戻る気配はなかった。


「コヨリさん」


了が呼ぶ。


「はい」


「今から取り消すことはできるんですか」


少女がびくりとした。


コヨリも目を見開く。


「取り消すという意味ではありません」


了はすぐに言った。


「できるなら、あなたはどうするのかを聞いています」


コヨリは、少しだけ困った顔をした。


それから、少女を見た。


「取り消しません」


短い答えだった。


「この魂は、まだ返事を探しています。行きたいのか、行きたくないのか、怖いけど行くのか、今は決められないのか。それを聞かないまま同意には戻しません」


トバリの紙片が小さく動いた。


記録しているのだろう。


「私は見ていません」


トバリが言った。


「今の流れでそれを言いますか」


了が思わず返す。


「記録はしました」


「でしょうね」


コヨリが少しだけ笑った。


本当に少しだけだった。


すぐに、赤い表示へ視線を戻す。


「ただ」


シオリが言った。


「これを続けるなら、覚悟は必要よ。正しさで仕事が回るなら、天界に締切は存在しない」


その言葉に、了はすぐ返せなかった。


正しい。


たぶん、それも正しい。


納得していない魂を送らないこと。


待っている魂を増やさないこと。


どちらも、正しく聞こえる。


どちらか一つだけを選べば済むなら、最初からアラートなど鳴らないのだろう。


赤い文字が、もう一度またたいた。


処理遅延アラート。


今度は音が一つ増えた。


硬い音のあとに、低い音が重なる。


白い床の線の向こうで、淡い光が一瞬だけ揺れた。


次の案内対象が、遠くで待っている。


そんな気配だけがした。


少女はまだ、保留表示の前に立っている。


コヨリはその隣で、画面を閉じない。


シオリは腕を組み、赤い文字を見上げている。


トバリは紙片を構えたまま、淡々と記録を続けている。


了は、自分の手の中の臨時の腕章を見た。


しわになった白い布に、臨時、の文字が残っている。


止めれば終わると思っていたわけではない。


それでも、止めたあとに何が来るのかまでは知らなかった。


白い部屋に、赤い警告がもう一度光る。


処理遅延アラート。


了は、その文字から目をそらせなかった。

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