第5章 第9話:深層からの帰還(リリンク)
『システム警告:最上位オブジェクトの静的消失を検知しました』
『エラー:メイン関数の制御スレッドが喪失。アルカナ・コアの魔力制御回路が暴走を停止しています』
「――っ、は、あ、ガハッ……!?」
テオの意識が、猛烈な「現実(物理定数)」の感覚と共に、冷たい白磁の床の上へと力任せに叩き落とされた。
剥離されていた視覚、聴覚、触覚といった生身のプロトコルが、脳内の全演算領域へと超高速で再接続されていく。その凄まじい情報流入のGにより、テオは激しく咳き込みながら、自身の両手を床へと突いた。
彼の両手には、精神世界へダイブする前と変わらず、ロックから託された血塗れの大型レンチと、自身の真鍮のスパナが、確かに力学的な質量を持って握られていた。
「テオ……! おい、テオッ! 戻ってきたのか!?」
すぐ隣から、かすれた、しかし魂の底から安堵したようなロックの声が響いた。
テオが急いで額のゴーグルを叩き、その視界の焦点を合わせると、そこには、全身のギアを噛み潰されて完全な鉄クズと化したジャンク・ゴーレムのハッチの側で、泥と血に塗れたまま生身の左腕を突き出しているロックの姿があった。
そして、そのロックの強固な左腕の中。
「……ん……っ、あ……」
微かな、本当に微かな喘鳴と共に、ライトブルーの瞳をゆっくりと開く少女の姿があった。
セレナだった。
ジレットの冷酷な論理の檻から、テオが精神世界の底でその名前を呼び覚まし、救い出した彼女の魂。それが、物理現実の肉体へと寸分の狂いもなくインポート(帰還)されたのだ。彼女の喉の魔導回路は焼き切れたままであり、言葉を発することはできない。しかし、テオを見つめるそのライトブルーの瞳には、かつてないほどに力強く、そして温かい「人間の意志」の輝きが、確かにバックアップ(再起動)されていた。
「セレナ……、よかった……。コンパイルは、成功したんだな」
テオの目から、熱い涙が再び溢れ落ち、白磁の床に小さな水滴のログを刻んだ。
(テオ、ありがとう。……私、もう迷わない。このツギハギの世界を、最後まであなたと一緒に直すから)
声なき彼女の思考のトレースが、テオの脳内リンクへと、これまでで最も優しく、そして力強く割り込んできた。
「へっ……。感動の再起動のところを悪んだがな、新入り。のんびりデバッグしてる暇は、1ミリ秒も残されてねえぞ!」
ロックが、痛む生身の身体を強引に引きずりながら、統制室の中央を震える右指で指し示した。
テオが弾かれたように正面を見上げると、そこには、「勝利」とは程遠い、世界の完全なる終焉の光景が広がっていた。
ジレットという精神中枢(メイン関数)を精神世界の底で完全に消去された、超巨大メインシステム『アルカナ・コア』。
そのライトレッドの数式ツリーは、制御を失ったことで不気味な漆黒の亀裂を全身に走らせ、統制室の天井へと届くほどの、凄まじい魔力の暴走渦となって猛烈に回転を始めていたのだ。
ジリジリ、バリバリバリバキィィィン!! と、コアから放たれる漆黒の論理放電が、統制室の頑強な白磁の壁や柱を、分子レベルで物理的に次々とへし折り、粉砕していく。
カインの仕込んだバックドアによって一時的にフリーズ(動作停止)していた世界の物理法則。それが、ジレットの消滅によるコアの暴走によって、今度は「適用限界」へ向けて完全に崩壊を始めていた。空間の重力定数は1ミリ秒毎にマイナス5Gから10Gへとデタラメに跳ね上がり、大気中の酸素の結合比率すらも狂い始め、呼吸をするだけで胸が引き裂かれるような真空の激痛が走る。
『最悪のエラー:システム全体のメモリリークを検知しました』
『完全な世界崩壊(全データデリート)まで、あと――600秒』
テオのゴーグルの奥にポップアップした、血のような赤色のファイナル・カウントダウン。
猶予は、わずか10分。
ジレットの精神をシャットダウンしたことで、全人類の精神を強制統合する『ラスト・パッチ』の執行は完全に阻止された。しかし、その代償として、世界を支えていた基底OSそのものが、制御プログラムを失って完全な強制終了へと向かっているのだ。この10分が経過すれば、地上も、地下も、この魔導都市アルカナ・ハイヴに存在するすべての構造データと生命は、等しく宇宙の塵(NULL空間)へと消去される。
「テオ! ロック! セレナ! 全員生きてるかッ!?」
インカムから、激しい電子ノイズに混ざって、カインの悲痛な絶叫が響き渡った。地下のバッファ・ノードもまた、コアの暴走による部分的な物理崩壊の直撃を受け、激しい地鳴りの音が通信越しに漏れ聞こえていた。
「カイン! ジレットのアバタープロセスの消去には成功した! だが、アルカナ・コアが制御不能で暴走している! このままじゃ、あと10分で世界がフォーマットされるぞ!」
テオはレンチとスパナを構え、暴走する黒い魔力の嵐に抗いながら叫んだ。
「分かっている! だがな、テオ! ジレットが消え、ルート権限(最上位の開発者権限)が空白になった今、そのアルカナ・コアのコンソールに直接アクセスして、システムを安全にシャットダウンできるのは、現場にいるお前しかいないんだよ!」
カインの言葉が進むたび、統制室の天井から巨大な白磁の破片がガシャァァン! とロックたちのすぐ傍らに向かって崩落してきた。
「お前がコアのルート権限を完全に掌握し、新しい仕様(OS)のコードを流し込んで、世界を『再起動』させるんだ! それ以外に、全員が生き残る道はねえ!」
「……新しい仕様(OS)の、コンパイル……!」
テオは、激しく明滅するアルカナ・コアの、その暴走する光の渦のど真ん中に鎮座する「メイン制御コンソール」を凝視した。
そこへ至る大階段は、今やコアから放たれる漆黒のデリート放電によって、近づいただけで精神ごと構造消去される、最悪の絶対死線と化していた。
「行くぞ、ロック、セレナ」
テオは、手にした二つの工具を限界まで強く握り直し、不敵に口元を歪めた。
「10分(600秒)もありゃあ、現場のデバッガーにとっては、すべての数式を書き換えるには十分すぎるバッファだ。ジレットの残した理不尽な仕様書を、俺たちのプロトコルで、根底からすべてリブート(再起動)してやる!」
「ヘッ……。そのツギハギのコードの執行、俺のハードウェア(命)を賭けて前線を護りきってやるぜ、新入り!」
ロックが残された生身の腕で超大型レンチを担ぎ直し、覚醒したセレナがそのテオの肩へとそっと手を重ねる。
深層世界から帰還し、本当の意味で思想を一つに同期させた三人のエンジニア。世界の完全崩壊という最悪のタイムリミットの中、すべての生命の未来をかけた、前代未聞の『世界再起動』のための最終ハッキング・アクションが、いま、轟音を立てて崩落していく統制室の真ん中で、劇的に幕を開けるのだった。




