第5章 第8話:失われた歌声の波形
「――不合理な再計算(論理のブレ)だ、テオ・アルカディア。どれほど過去の残存ログを並べ立てようとも、彼女のオブジェクト定義が『バグ』であるという仕様(根底)は覆らない」
白銀のアバターとして具現化したジレットの残滓が、冷酷な光を放って右手を振り下ろした。
空間を埋め尽くすライトレッドのコードの滝が、ジレットの最上位命令によって一瞬にして「巨大な解体コードの槍」へと変形し、テオの精神体を全方位から貫こうと超高速で収束していく。テオの自我整合性はすでに45%を割り込み、ワイヤーフレームの身体の半分はノイズの砂嵐に呑まれかけていた。
だが、ジレットの放った絶対のデリート・コードがテオの胸元を貫く、まさにその1ミリ秒前の瞬間だった。
パリィィィィィィィン――ッ!!!!
統制室の最下位ディレクトリに存在していた、あの漆黒の立方体(NULL空間の檻)が、内側から爆発的な「ライトブルーの演算光」によって粉々に打ち砕かれた。
データの破片が精神世界の深淵へと美しく飛び散る中、そこから一歩を踏み出したのは、膝を抱えて蹲っていたあの無力な少女ではなかった。
ライトブルーの瞳に、かつてないほど激しく、そして美しい「人間の意志」の炎を宿した、覚醒したセレナの精神体だった。
(――私は、エラーじゃない。……私の歌は、みんなの心を繋ぐための……最高の、パッチ(希望)だ!)
彼女の脳内リンクから、テオの演算領域、そしてジレットの深層世界全体へと、ひび割れ一つない完璧な超高解像度の思考のトレースがダイレクトに叩き込まれた(割り込み処理)。
「な……に……!? 彼女のソースコードが……完全に、自己書き換え(アップデート)を実行している……!?」
ジレットのアバターの論理走査線が、驚愕のノイズを散らして激しく明滅した。
ジレットが完璧に構築していたはずの、彼女を初期化するための拘束プログラム。それが、セレナ自身が「自らの価値」を全演算領域で肯定した瞬間、仕様不整合を起こして内側からすべてパージ(パージ)されたのだ。
セレナは、抽象化された精神世界の中で、ゆっくりと両手を広げ、その喉の魔導回路を最大クロックで駆動させた。
現実世界における彼女の声帯は、あの高熱パッチの過負荷によって分子レベルで焼き切れ、二度と美しい歌声を響かせることはできない。
しかし、ここは物理法則に縛られない『深層ソースコード(精神世界)』。すべてのデータが周波数と波形によって記述されるこの情報空間において、彼女の魂そのものが、世界で最も純粋な『アコースティック・センサー(発振器)』だった。
セレナは、声を失った唇を美しく開き、歌った。
耳から聞こえる音ではない。ジレットの深層世界の全領域、流れるコードの滝、回転する定数の歯車、そのすべての「システム・アドレス(情報階層)」に、彼女の魂から紡ぎ出された、かつてないほどに澄み切った、圧倒的な『精神の逆位相波(魂の歌)』がダイレクトに響き渡ったのだ。
その失われた歌声の波形は、悲哀のノイズを一切排した、純粋な「明日を信じる人間の意志」そのものだった。
「ガ、アガガ……!? 空間の……データ整合性が……劇的に、崩壊していく……! 彼女の歌そのものが……『ラスト・パッチ』の基底ライブラリを、内側から直接解体しているだと……!?」
ジレットのアバターが頭を抱え、その白銀の身体を激しく歪ませて床へと膝をついた。
ジレットが地上の数百万人の市民の脳を繋いで構築した、絶対の精神統合パッチ。それは「個人の意志を消去する」という均一な冷徹さによって維持されていた。しかし、そのシステムの心臓部のど真ん中で、セレナが放った圧倒的な「人間を肯定する逆位相ノイズ」が炸裂したことにより、システムに並列接続されていた数百万人の脳細胞が、一斉に「個としての自我」をバックアップ(再起動)し始めたのだ。
共有ライブラリが完全にクラッシュ(ハングアップ)を起こす。
「ジレット。お前の言う『完璧な調和』なんてものはな、最初から人間の心を1ミリも理解していない、ただの未熟な仕様書だったんだよ」
テオは、覚醒したセレナの隣へと並び立ち、右手にロックの大型レンチの概念を、左手に自身の真鍮のスパナの概念を、最大出力で顕現させた。
セレナの歌声によって、ジレットの防衛プログラムの特権ロック(カーネル・ロック)は、今度こそ完全に、1行のコードすら残さず粉砕されて剥き出しになっていた。
(テオ、今! ジレットの精神中枢(メイン関数)のアドレスが、正面、偏角【0.00度】に完全に固定された! ……私たちのハックを、ねじ込んで!)
「――同期、コンパイル、実行!!」
テオは咆哮し、セレナの放つライトブルーの歌声の波形(走査線)と完全に一体化して跳ね上がった。
両手の工具を十字に交差し、ジレットのアバターの胸元に輝く、世界の理不尽な仕様を司る『メイン・コアアドレス』へと、全力のデバッグコードを突き立てた。
カギィィィィィィィィン――ッ!!!!
精神世界の最深部が、眩いばかりのライトブルーと漆黒の閃光によって完全に真っ白にホワイトアウトした。
ジレットの残滓のアバターは、テオとセレナの完全な共鳴(共生ハック)による圧倒的な論理過負荷(G)を処理しきれず、その白銀の構造データを一瞬にしてミリ単位で粉砕され、悲鳴のような電子ノイズを撒き散らしながら、深層世界の闇の底へと完全に消滅(消去)していった。
『最高監査役ジレットのアバタープロセスの完全消去を検知しました』
『メイン関数の制御権(ルート権限)を、一時的に解放します』
システムログが冷酷に流れ、ジレットの精神の最深部は完全にハングアップ(完全停止)した。
テオは光の粒子となって崩壊していく空間の中で、ゆっくりと着地し、隣に立つセレナの手をそっと力強く握りしめた。
彼女のライトブルーの精神体は、これまでで最も美しく、そして誇らしげに微笑んでいた。
ジレットの精神の残滓(防衛プログラム)を精神世界の底で完全に粉砕した二人。しかし、彼らの本当のハック――世界の物理法則を完全に書き換え、全住民の精神を解放する『世界再起動』の秒読みは、現実世界の『アルカナ・コア』の暴走と共に、いよいよ最終局面へと突入しようとしていた。




