第5章 第7話:エラー名:セレナ(深層意識)
「――処理の無駄だ、テオ・アルカディア。彼女の意識は、すでに自らNULL(虚無)であることを選択している」
白銀の輝きを放つジレットの残滓が、漆黒の立方体の前で冷酷に腕を振るった。
空間を流れるライトレッドのコードの滝が激しく波打ち、テオの精神体を全方位から圧殺せんばかりのデータ過負荷(G)となって降り注ぐ。テオは右手に顕現させたロックの大型レンチのデータ残像を盾のように構え、内側から自我プロトコルを削り取られる激痛に耐えながら、立方体の奥で膝を抱えるライトブルーの少女を見つめ続けた。
「セレナ……! 聞こえるか、セレナッ! 目を開けろ!」
テオの声(データ波形)が、漆黒の防壁に阻まれて虚しく跳ね返る。
立方体の内部、極限の静寂が支配する『NULL空間』の底で、セレナの精神体は光の粒子をボロボロと剥離させながら、ただ虚ろな瞳で自分の手元を見つめていた。
彼女の喉の魔導回路は完全に焼き切れ、精神世界においても、彼女の周囲には1文字のコード(言葉)すら描写されない。ジレットの圧倒的な「完璧主義(OS)」のドクトリンに全演算領域を支配された彼女の深層意識は、自らの存在そのものを、システムを乱すだけの『致命的なエラーコード(バグ)』であると完全に誤認させられていたのだ。
(――私の、歌声は……誰も、救えなかった。……私の、せいで……みんなが、傷ついて……。私は、システムを狂わせる……ただの、不良オブジェクト……)
彼女の脳内から漏れ出る、絶望に満ちた思考のトレース。それが、灰色のノイズとなって彼女のライトブルーの光を侵食していく。
「そうだ。彼女の声帯は失われ、彼女の歌が放っていた相殺波は、都市のインフラを破壊するエラーフラグに過ぎなかった」
ジレットのアバターが、冷徹な論理の走査線を明滅させた。
「彼女の精神をこのままシステムの一部として初期化し、調和の定数へと変換することが、この世界のエネルギー効率において最も『正しい仕様』なのだ。君がどれだけ感情という非効率なバグを叫ぼうとも、彼女自身のソースコードが、自らの消去を肯定している」
『警告:対象オブジェクトのデータ融解度が92%に到達』
『完全消去まで、あと――120秒』
テオの意識の抽象階層にポップアップする、最悪のシステムログ。
テオ自身の自我整合性もすでに60%を切っていた。下層の仲間たちの顔、カインの言葉、ロックの怒号。それらの記憶がジジジ……と砂嵐のように薄れ、今や「セレナを救う」という一筋の論理スレッドだけが、彼の精神の崩壊をかろうじて繋ぎ止めている。
(クソッ……! ジレットの言う通り、彼女の心が自らをエラーだと定義しているなら、外部からどんなパッチを当てても『仕様不整合』で弾かれる……。だったら……)
テオは、両手の工具を床へと静かに下ろした(概念を消去した)。
ハッキングによる力技での解放を諦めたかのようなその挙動に、ジレットのガラス細工の瞳が微かに動く。
だが、テオの硝子のような瞳の奥で、現場のデバッガーとしての、そして一人の人間としての、最も深く、最も熱い「論理の再構築」が始まった。
「ジレット。お前はシステム(OS)として世界を見ているから、数式の美しさ(効率)だけでしかデータの価値を測れないんだ」
テオは一歩、また一歩と、真っ赤な特権エラーの防護壁に向かって生身の精神のまま歩みを進めた。防壁に触れるたび、テオのワイヤーフレームの身体から激しい火花が散り、足元から消滅の波が這い上がってくる。しかし、彼のトーンは全くブレなかった。
「セレナ! お前は自分の声を、みんなを傷つけるバグだと言ったな。――なら、俺がお前の全記録(過去ログ)を、エンジニアとしてここで完璧に『逆コンパイル(解析)』してやる」
テオは自身の全演算領域を解放し、これまでの旅の中で彼のゴーグルが記録してきた、セレナに関するすべての「生データ(メモリログ)」を、精神世界の空間全体へと大画面で強制展開した。
映し出されたのは、ダークセクターの薄暗い路地裏。
ジレットの冷酷な仕様によってランク不足と切り捨てられ、泥水をすすりながら絶望していた下層の市民たちが、セレナのあの不格好な拡声器から流れる「声なき歌」を聞いた瞬間のログファイルだった。
数字で表される彼らのバイタルデータ。
セレナが歌を響かせたその瞬間、市民たちの脳内のストレス値は劇的に減少し、逆に「生存意欲」を示すアドレナリンの分泌定数が、システムの予測値を遥かに超越して跳ね上がっていた。彼らは、ランク選別という冷徹な計算式の中で死を待つだけのオブジェクトから、もう一度自分の足で立ち上がる不確実な「意志を持った人間」へと、その構造を劇的に再起動させていたのだ。
「見ろ、セレナ。これが、お前の歌声が世界に残した『真の処理結果』だ」
テオは激しく火花を散らしながら、ついに漆黒の立方体の表面へと両手を叩きつけた。
「お前の歌は、システムにとっては確かに計算を狂わせるバグだったかもしれない。だがな……その不確実なバグ(歌)があったからこそ、俺たちは理不尽な仕様の中で、明日を信じるための『遊び(バッファ)』を貰えたんだ! 綺麗に整えられたジレットの数式じゃあ、傷ついた人間のハードウェアは1ミリも直せやしない! お前はエラーなんかじゃない、この凍りついたディストピアを人間らしく動かすための、唯一の『特異点(希望)』なんだよッ!」
テオの魂の叫び――二進数では決して記述できない、最大級の人間の意志(情動ノイズ)が、漆黒のNULL空間の壁を内側から激しく揺るがした。
ジレットの完璧な論理の檻。その強固な防壁の数式に、テオの提示した「人間の希望のログ」が、解決不可能な矛盾エラーとして劇的に噛み合い、ビキビキと無数のライトグリーンの亀裂を走らせ始めた。
(……あ……、……っ)
漆黒の立方体の底で、セレナが初めて、ハッとそのライトブルーの瞳を見開いた。
彼女の深層意識の最深部で、テオが命を削って流し込んできた「お前は希望だ」という最強のバッチプログラムが、自らを虚無と定義していた絶望のソースコードを、根底から劇的に上書き(アップデート)し始めた。
「セレナ! お前の歌はまだ終わってない! 声が出ないなら、俺たちのエンジニアリングをツギハギしてお前の魂をコンパイルしろ! もう一度、俺と一緒に、この理不尽な世界をデバッグするぞォォォォッ!!」
テオの右手から放たれた、ロックの魂が詰まった真鍮の大型レンチの輝き。
それが、セレナの心の中に残されていた最後の「人間の意地」と、時空間を越えて完全に同期(共鳴)した瞬間だった。




