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0.01度の特異点 ―計算不能な未来へ―  作者: 最後に残った形


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第4章 第6話:昏睡のディレクトリ


――システム階層:ディープ・ソースコード(深層ディレクトリ)。

――現在の環境:論理の純粋抽象空間。物理オブジェクトの定義、存在しません。


「……ここが、世界の裏側か」


テオは、自らの『精神の足元』を見つめながら呟いた。

物理的な肉体も、衣服も、手にした真鍮のスパナも、ここには存在しない。彼の存在のすべては、一本の洗練された「ワイヤーフレームの描写データ」へと変換され、抽象的な論理のパーツとしてかろうじてその輪郭を維持しているに過ぎなかった。


周囲に広がっていたのは、基底現実の白磁の統制室とは完全にかけ離れた、異形にして圧倒的な情報の深淵だった。

上下左右の概念はなく、天から地へと向かって、数百万、数千万行のライトレッドに輝く「演算コードの滝」が、轟音のような電子ノイズを立てて絶え間なく流れ落ちている。空間の至る所で、重力や摩擦といった世界の物理法則を司る定数(変数)が、まるで巨大な歯車のような幾何学模様となって噛み合い、不気味に回転を続けていた。


この空間そのものが、魔導都市アルカナ・ハイヴを支配する絶対OS『神の声』の心臓部。そして、そのシステムと完全に融合した宿敵ジレットの「脳内(思考)」そのものだった。


(冷たいな……。1ミリの遊び(バッファ)も存在しない、完全な論理の檻だ)


テオが一歩を踏み出す(意識を移動させる)たび、周囲のコードの滝から強烈な「ガベージコレクション(メモリ掃除プログラム)」の引力が走り、彼の自我プロトコルを外縁からジリジリと削り取ろうとする。

カインの言う通り、素の精神のままこの深層に長く留まれば、人間としての記憶や感情はすべて「不要なエラーデータ」として綺麗にフォーマット(消去)され、システムの一部へと同化させられてしまうだろう。


テオは、ロックから託された真鍮の大型レンチの「概念(データ残像)」を右手に強くイメージして固定し、自身の自我の崩壊ハングアップを必死に食い止めながら、深く、さらに深い下位ディレクトリへと潜っていった。


彼が探しているのは、ジレットの特権ロック(カーネル・ロック)を解除するメイン関数。

そして何より、この狂った論理の海に呑み込まれた、セレナの精神(魂のデータ)だった。


「セレナ……! どこにいる、セレナッ!」

テオは声を(データ波形を)空間へと放った。しかし、彼の叫びはコードの滝が発する凄まじいシステムノイズによって一瞬にしてかき消され、共有ライブラリの海の底へと沈んでいく。


『警告:外部オブジェクトの滞在時間が設計限界リミットに接近中』

『残存自我整合性:78.4%……なおも低下中』


網膜の代わりに意識の抽象階層に表示される、残酷なエラーフラグ。

テオの記憶の端々から、下層のジャンク街の風景や、そこで食べた泥臭い食事の味といった「非効率なデータ」が、次々とデリートされていく感覚が走る。焦燥感がテオの論理を狂わせかけた、その時だった。


前方の巨大な「条件分岐(if-else)の幾何学回廊」の奥から、微かな、しかし世界中のどのコードよりも純粋な『アコースティック(音響)の振動波形』が、テオの受信プロトコルへと届いた。


チカチカ……と、ライトグリーンの微弱な光が、ライトレッドの論理の壁の隙間で瞬いている。


「この波形……セレナか!?」

テオは自我の崩壊を無視して、その光の元へと一直線に精神を走らせた。コードの滝を突き抜け、データの濁流を割って進んだその先――。


そこは、ジレットの精神統合パッチが最も強固にロック(隔離)している、最下位の『昏睡のディレクトリ(NULL空間)』だった。


無機質な漆黒の立方体の中心。

そこに、ライトブルーの光の粒子で構成された、華奢な少女の精神体が、まるで死んだように膝を抱えて蹲っていた。

セレナだった。

現実世界で昏睡状態に陥っている彼女の魂。それは、ジレットの「完璧な調和」という圧倒的な論理の檻に囚われ、外部からのすべてのアクセスを遮断されたまま、データとして消滅(完全パージ)させられる寸前の状態にあった。


「セレナ……!」

テオは回廊を飛び越え、その漆黒の立方体の前へとたどり着いた。

しかし、彼が彼女の身体に触れようとした瞬間、空間に巨大な『特権エラー(Access Denied)』の真っ赤な防護壁が立ち塞がり、テオの精神体を強烈な衝撃波と共に弾き飛ばした。


「無駄な処理(割り込み)だ、テオ・アルカディア」


漆黒の立方体の背後から、滝のように流れるコードを身に纏い、白銀のアバター(精神体)として具現化したジレットの残滓が、ゆっくりと姿を現した。彼のガラス細工のような瞳は、この精神世界において、現実世界以上の圧倒的な威圧感(ルート権限)を放ってテオを見下ろしていた。


「彼女の意識は、すでに我がシステムが執行した『ラスト・パッチ』の基底ライブラリの中に完全に取り込まれている。個としての『セレナ・アコースティック』というオブジェクトは、間もなく消去パージされ、都市を護るための純粋な環境定数へと完全統合される。それが、彼女自身が望んだ自己犠牲のハックの『結末(仕様)』だ」


ジレットの声が響くたび、昏睡するセレナのライトブルーの光が、じわり、じわりとジレットの赤い数式の中へと溶け出し、その個の輪郭を消滅させていく。


「違う……! セレナは、お前の狂った仕様を止めるために命をかけたんだ! お前のパーツになるために、その声を捨てたんじゃない!」

テオはロックのレンチと自身のスパナの概念を両手に強く顕現させ、ジレットの防護壁へと叩きつけた。


カギィィィィィィン――ッ!!


精神世界の底で、現実世界の戦闘を遥かに凌駕する、純粋な論理と論理の衝突音が轟き渡る。

しかし、ジレットのアバターは一歩も退かない。この世界において、ジレットはOSそのもの。彼の放つ一言一言が、テオの精神体の構造データを直接解体する『デリート・コード』となってテオを内側から削っていく。


「テオ……アルカディア……。君の自我の整合性も、あと数分で完全に枯渇する」

ジレットは冷酷に右手を突き出した。

「君がどれほど人間の意志バグを叫ぼうとも、このソースコードの最深部において、すべての数式は私の『調和』を肯定している。彼女の魂を救うバッファなど、この世界には最初から1バイトも存在しないのだ」


漆黒の立方体の奥で、セレナのライトブルーの光が、いよいよ完全に消えかけようとしていた。

人間の意志をバグと切り捨てる絶対OSの深層で、テオは自らの記憶を失いかけながらも、失われた少女の心を呼び覚ますための、絶望的な深層のデバッグ(対話)に挑もうとしていた。

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