第5章 第5話:カーネル・パニック
『致命的エラー:未定義の再帰処理(0x000000FF)を検出しました』
『メインカーネルの動作を一時停止します。システム保護のため、全物理プロトコルを静的ロックに移行』
世界が、完全に「静止」した。
中央管理塔最上階、統制室。
カインが30年前の初期設計時に仕込んだ禁忌のバックドア関数が注入された瞬間、ジレットの『神の声(OS)』は、解決不可能な論理矛盾の檻に囚われ、壮絶なカーネル・パニックを引き起こした。
0.01秒毎に目まぐるしく書き換わり、テオたちの肉体を内側から破壊しようとしていた空間の重力、摩擦、熱量、魔力伝導率。そのすべての「変数」が、現在の数値のまま完全にカチリと凍りついたのだ。
空間を舞っていた油圧オイルの黒い飛沫も、ショートした基板から弾け飛んだ青白い火花も、まるで透明なエポキシ樹脂で固められたかのように、空中でその運動ベクトルを静止させている。
「ハッ……、ガハッ……!」
テオは、重力変化の負荷から解放された胸を大きく上下させ、凍りついた空気の塊を無理やり肺へと押し込んだ。
彼の両手には、ロックから託された血塗れの大型レンチと、自身の真鍮のスパナが握られている。その二つの工具の先端からは、バックドアを抉じ開けた漆黒のクラック電流が、静止した空間に向かって今もジリジリと微かな残響音を漏らしていた。
「終わった……のか……?」
床に倒れ伏したままのロックが、生身の左腕で昏睡したセレナを抱きかかえ、掠れた声で呟いた。彼のジャンク・ゴーレムは完全に沈黙し、内部のギアは焼き付いて溶融している。物理現実のフリーズにより、ロックの肉体が超高熱パッチで焼き尽くされる最悪の例外処理だけは、間一髪のところで免れていた。
「いや、まだだ。これはシステムが処理を停止しているだけの、一時的な猶予に過ぎない」
テオは額のゴーグルを叩き、目の前に浮かぶジレットの「精神の本体」を睨みつけた。
巨大なライトレッドの三次元数式ツリー。ジレットの意識そのものであるその幾何学回路は、バックドアの強制割り込みによって完全にフリーズしている。しかし、数百万人の市民の脳を並列接続した圧倒的なリソースは未だ健在であり、システムの深層では、このカーネル・パニックを強制排除するための、自動ガベージコレクション(メモリ掃除プログラム)がジリジリと起動しつつあった。
『自動復旧プロセス開始まで、あと――360秒』
網膜の隅にポップアップした、新たなカウントダウン。
「猶予は6分か。ジレットのシステムが自己修復を完了すれば、ルート権限は再び奴の手に渡り、今度こそ世界はラスト・パッチの中に完全硬化される」
テオは真鍮のスパナを強く握り直した。
ジレットを完全にシャットダウンし、世界のルート権限を奪還する方法は、もう一つしか残されていない。
このフリーズしている数式ツリーの奥――開かれたバックドアの亀裂から、ジレットの精神の最深部である『深層ソースコード(コア・ディレクトリ)』へ直接潜入し、奴の意識の根本(メイン関数)を物理的にハックすること。
そして何より、その深層世界のどこかに囚われているはずの、セレナの精神(魂のデータ)を救い出すこと。
「ロック、カイン。……俺は、システムの裏側(ソースコードの世界)へ行く」
テオは振り返り、二人に告げた。
「おい、テオ……! 精神のダイブだと!?」
インカムから、カインの悲痛な声が響く。
「現行の『神の声』の深層は、人間が素の精神のまま潜り込めるような生易しいディレクトリじゃないぞ! データの濁流に呑まれれば、お前の記憶も、自我のプロトコルも、すべてシステムの一部として綺麗にフォーマット(消去)されちまう!」
「分かっている。だけど、セレナのクロック(心音)はまだ動いている。奴の深層に彼女の意識が残っているなら、現場のデバッガーとして、見捨てる仕様(選択肢)は選べない」
テオはロックの隣へ歩み寄り、眠り続けるセレナの、冷たくなった額にそっと触れた。
彼女のライトブルーの瞳は閉じたままだ。しかし、その奥からは、今もかすかに、世界を護ろうとした「魂のノイズ」の残響が、テオのゴーグルへとシグナルを送っていた。
「待ってろ、セレナ。お前のノイズ(意志)は、絶対にデリートさせない」
「ヘッ……。行ってきやがれ、新入り」
ロックが、血塗れの顔に不敵な笑みを浮かべ、生身の右腕でテオの背中を力強く叩いた。
「俺の『ハードウェアの意地』は、お前のソフトの中にインポートしたままだ。どんなクソコードの泥沼に落ちようが、俺たちのツギハギのロジックで、そのディストピアの神様をバグらせてこい!」
「ああ。設計通りに、すべてを直してくる」
テオはアルカナ・コアの正面へと歩みを進め、フリーズした数式ツリーの「割れ目」へと、両手の工具を深く突き刺した。
そして、ゴーグルの全スレッドを最大出力で解放し、自らの脳のニューロンの全周波数を、システムのバックドアのアドレスへと完全同調(同期)させた。
「――割り込み潜入、実行!!」
バチィィィィィィィィン――ッ!!!!
テオの視界が、完全な「純白」の閃光によって埋め尽くされた。
鼓膜を裂くような電子ノイズの爆音が脳内を駆け抜け、次の瞬間、彼の生身の「感覚」のすべてが、物理現実から完全に剥離された。
重力がない。上下左右の定義がない。
テオの意識は、無限の二進数が構成する、底なしの情報の深淵へと超高速で滑落していった。
彼の衣服、肉体、皮膚といった物理オブジェクトが、ワイヤーフレームの描写データへと変換され、抽象的な「論理のパーツ」として再構築されていく。
記憶の断片が、目の前を走馬灯のように駆け抜けていく。
下層のゴミ溜めでスパナを握り締めた日々。妹ミアが冷酷な仕様によって医療リソースを打ち切られたあの雨の日。ロックの怒号。そして、セレナが声を失いながらも、自分を信じて微笑んでくれたあのライトブルーの光。
それらの記憶が、周囲を流れる巨大な「コードの滝」の引力に引っ張られ、じわり、じわりと外縁から剥がれ落ちそうになる。
(忘れるな……! 俺は、デバッガーだ。世界を……あの理不尽な仕様を、書き換えるためにここにいる……!)
テオは抽象化された精神の手で、失われかける自らの自我を必死に繋ぎ止め、深淵の底へと目を凝らした。
光の滝が収束するその最深部。
そこには、物理現実の洗練された白磁の統制室とは全く異なる、無数の文字と数式が発光しながら複雑に絡み合う、この世界の根源の階層――『深層ソースコード(精神世界)』の異形の世界が、果てしなく広がっていた。
テオ・アルカディアの精神は、ついに世界の全ルールを司る絶対の心臓部へと着地した。
失われた少女の魂を救い、ディストピアの神を屠るための、個人の意志のすべてを賭けた「深層のデバッグ(第2極)」が、いま完全に幕を開けたのだった。




