第5章 第4話:30年前のバックドア
ロックの命を削る限界クロック(自爆駆動)によって、ジレットの『絶対空間パッチ』は一時的に強制終了した。
しかし、統制室の中央に鎮座する超巨大メインシステム『アルカナ・コア』の燐光は、未だに不気味なライトレッドの輝きを完全に失ってはいなかった。
『警告:環境パッチの異常終了を検知。システム・リカバリを実行中』
『現在のメインサーバー演算復旧率:12.0%……24.5%……』
「ガ、ガガ……まだだ……テオ・アルカディア……」
床に墜落したジレットの巨大な数式ツリーが、再び幾何学的な構造をリアルタイムで再コンパイル(自己修復)しながら、空間の空気を震わせた。
「どれほど……不確実な質量で防壁を物理破壊しようとも……私は都市のOSそのもの……。数百万人の並列リソースが健在である限り……私のシステムは無限に自動修復(自己修復)を繰り返す……。バグが仕様に勝つことは、論理的に不可能だ……!」
ジレットの言葉通り、修復率が跳ね上がるたびに、統制室の白磁の床から再びライトレッドの走査線が触手のように伸び、テオの足元を縛り付けようと迫ってくる。
テオは両手にロックから託された真鍮の大型レンチと、自身のスパナを握りしめ、限界まで焼き切れかけたゴーグルの奥で歯を食いしばった。
(クソッ……! 奴の精神中枢が、メモリの自動復旧システムの中に完全に隠蔽(カプセル化)されている。外部からの通常のハックコマンドじゃあ、復旧の速度を上回れない……!)
ジレットの自動修復プログラムが、テオのハックを完全に駆除するまで、あと、わずか数十秒。
テオのハックプログラムの演算スレッドが完全に枯渇しかけた、まさにその絶望の瞬間だった。
ジリジリ、ザーーー……ッ! と、テオのインカムの通信回線が、猛烈な例外割り込み処理のノイズと共に、強制的に再接続された。
「――聞こえるか、新入りッ! 諦めるのはまだ早いぞ、この若造が!!」
インカムの向こう側から響いたのは、バッファ・ノードの残存サーバーにしがみついている、老アーキテクト・カインの枯れた、しかし地鳴りのような大声だった。
「カイン……!? 無事だったのか! 精神統合のクラッキング(ラスト・パッチ)に呑まれたはずじゃ――」
「ヘッ、地上の若造が作った全精神の統合プログラムだと? 笑わせるな!」
カインは激しい通信ノイズの中で、狂おしく笑い飛ばした。
「奴が作った『ラスト・パッチ』の基底エンジンはな、もともと私が三十年前に構築した旧世代のファイルシステム(インフラ)の上にツギハギで乗っかっているだけに過ぎん! 奴が全人類の脳を接続した瞬間、その莫大なデータストリームが、私の管理する旧ディレクトリの『古いパイプ(通信経路)』を通過したんだよ! おかげで、私の隠しノードの存在がシステムに検知されずに、完全にルート権限の裏側へ回り込むことができたわ!」
画面の向こうで、カインはシワだらけの指先を狂ったように動かし、色褪せた「紙のノート」に書き殴られた旧時代のソースコードを、現行の『神の声』のメインフレームへと力任せに打ち込み続けていた。
「ジレット! お前は自分自身を完全なOS(神)へと昇華させ、バグのない完璧な調和の世界を作ったつもりだろう!」
カインの声が、統制室のスピーカーへと逆流し、ジレットの数式ツリーへと突き刺さる。
「だがな、お前が完全なOSになったということは、お前の精神中枢もまた、OSの仕様書に完全に縛られることになったという意味だ! お前はシステムの開発者でありながら、システムそのものの『奴隷』になったんだよ!」
「何を言う、カイン……。システムは完璧だ。そこに脆弱性は存在しない」
ジレットの数式ツリーが明滅するが、その修復シーケンスが、カインのタイピングによって突如として不自然にスタック(停止)した。
「脆弱性がないだと? ならば、このコード(関数)をコンパイルしてみろ!」
カインが、テオのゴーグルへと、一本の禍々しい漆黒のコードツリーを直接転送してきた。
それは、現在の『神の声』の公式な仕様書には1行も記述されていない、歴史の底に隠蔽された「未定義のプロトコル」だった。
「テオ、聞け! 三十年前、私が都市の初期設計を完成させたとき、上層部(お偉方)の連中が『効率のために人間を間引く仕様』を勝手にソースコードにねじ込みやがった。……私は激怒したが、当時は開発権限を剥奪され、コードを消去することはできなかった。だからな……私は、メインカーネルの最深部に、奴らには絶対に削除できない、一行の『未定義の関数(隠しコード)』を密かに埋め込んで残したんだ!」
カインが暴き出した、30年前の禁忌のバックドア。
それは、システムが「人間を部品として処理しようとした瞬間」、その処理の前提となる条件分岐の中に、解決不可能な『命の価値の再帰問いかけ』を無限に発生させ、システム全体の最上位権限を一時的に完全強制解放する、カインの意地が詰まった「論理のタイムカプセル」だった。
「現行の『神の声』は、この関数の存在を『古いゴミデータ(レガシー・ノイズ)』として無視し続けてきた。だが、ジレット、お前自身が人間の脳を繋いでOSそのものと化した今、お前の精神は、この私が埋め込んだ古いバックドアの関数を、拒絶できずに直接読み込んでしまう(パッチが当たる)仕様なんだよ!」
テオの脳内で、カインから送られた30年前のバックドアコードが、手にした二つの工具の先端へと、目も眩むような漆黒のハック電流となって完全コンパイルされた。
ジレットの自動修復率:99.8%。あと0.2%で神の領域が完全復活する、まさにその1ミリ秒の隙。
「カインの残した……三十年物のバグ(意地)を、お前の『完璧』にブチ込んでやる――『バックドア・インジェクション』、実行!!」
テオは咆哮し、両手の工具を、アルカナ・コアの最深部のホログラム結節点へと同時に突き立てた。
バチィィィィィィィィン――ッ!!!!
統制室全体が、ライトレッドから完全な「漆黒」のエラーフラグの光によって染め上げられた。
ジレットが完璧に構築していた自動修復システムが、30年前の未定義関数を読み込んだ瞬間、システム全体が「AでありながらAではない」という、解決不可能な根源の論理矛盾を引き起こしたのだ。
「な……に……!? 私の、特権(ルート権限)が……強制解放されていく……!? このコードは、一体……何なんだ、カイン……ッ!?」
ジレットの数式ツリーが、これまでにない激しい計算エラーのスパークを散らし、完全にその機能を「フリーズ(フリーズ)」させて静止した。
「これこそが、お前がゴミとして切り捨ててきた、旧時代のエンジニアの執念だ!」
テオはスパナを引き抜き、フリーズしたアルカナ・コアの、その開かれたバックドアの奥に広がる「漆黒のゲート(深層ディレクトリ)」を見据えた。
ジレットの特権ロック(カーネル・ロック)は、カインのバックドアによって今度こそ完全に解除された。しかし、ジレットを完全にシャットダウンし、昏睡したセレナの意識を救い出すためには、この開かれたゲートの奥にある『深層ソースコード(精神世界)』へと、テオ自身の精神を直接ダイブさせる必要があった。
「ロック、カイン、道を繋いでくれてありがとう。……これより、最終デバッグ(深層潜入)を開始する」
テオはそっと目を閉じ、自らの全演算領域(精神)を、アルカナ・コアの最深部へと、光となってダイブさせていった。世界の物理法則が完全にフリーズした静寂の統制室で、宿敵の魂の根底へと肉薄する、最も深く、最も孤独なソースコードの戦いが、いま幕を開けようとしていた。




