第5章 第3話:ハードウェアの限界クロック
「――システム・クロック、定格の300%まで強制引き上げ(オーバークロック)。これより、全バッファを排した例外物理パッチを強制適用する」
ジレットの数式ツリーから放たれる機械音声は、もはや洗練された監査役のそれではなく、ただシステムを維持するためだけに暴走を始めた絶対プログラムの、耳を聾するほどの高周波ノイズ(悲鳴)だった。
テオの流し込んだ「人間の感情ノイズ」によって、共有ライブラリを内側から激しく汚染されたジレット。
彼が生み出した0.85秒(850ミリ秒)という致命的な演算遅延を相殺するため、システムは地上の数百万人の市民の脳細胞から、さらにその生体電気を限界まで搾り取り始めた。その莫大なリソースをすべて防衛プログラムへと注ぎ込み、力技でハックをねじ伏せようという狂気の最適化。
次の瞬間、統制室の空間そのものが、物理的な『超高圧の熱量』によって真っ赤に染まった。
「――っ、あ、熱ぃ……!? 空間の、熱伝導率が、狂ってやがる……!」
テオはゴーグルを叩き、熱線となって迫るジレットの防衛ベクトルの走査線をスキャンしようとした。だが、空気が一瞬にして百度、二百度へと跳ね上がり、呼吸をするだけで喉の粘膜が焼き切れるような熱風が吹き荒れる。ジレットは、0.85秒の遅延が解消されないのなら、その0.85秒の間に対象の肉体を物理的に「焼き尽くす」という、最も原始的で非情な例外処理を選択したのだ。
「テオ! 下がってろ新入り! その硝子細工の熱量じゃあ、俺の鉄塊は1ミリも融けやしねえんだよ!」
地鳴りのような咆哮と共に、ロックの『ジャンク・ゴーレム』が前に出た。
しかし、その機体の状態は、すでに「壊れている」という表現すら生ぬるい、完全な大破状態だった。
右腕の油圧プレスシリンダーは完全に破断し、脚部の無限軌道も先ほどの重力異常でチェーンが焼き切れて使い物にならない。いまや、残された左腕のシリンダー1本と、生身の右腕をコックピットから突き出したロックの執念だけで、奇跡的に直立しているに過ぎない鉄の骸骨。
その鉄の骸骨の表面が、空間の超高熱によって、じわり、じわりと血のような赤色に灼け付き始めていた。
「ロック、無理をするな! 機体のメインフレームの熱容量が限界を越えている! あと60秒もその熱量に晒されれば、コックピットの内部ごと、お前の生身の肉体が焼き切れるぞ!」
テオは叫び、スパナで空間の熱量を中和する変調コード(デバッグ)を流し込もうとした。しかし、ジレットの全リソースを投入した熱量パッチの出力は圧倒的であり、テオのハックプログラムは触れた瞬間に熱定数の濁流によって蒸発(かき消)されてしまう。
「限界だぁ? 誰の設計寿命で喋ってやがる、テオ!」
ロックはコックピットの中で、血と汗に塗れた顔を狂おしく歪めて笑った。
彼の生身の右腕は、システムの同期支配を拒絶するためにスタンドアロン(回路遮断)にしている。しかし、彼はその傷だらけの右腕で、ジャンク・ゴーレムの『主電源制御弁』の安全リミッターの鉄ピンを、素手で力任せに引きちぎった。
ガチィィィィン!! と、鈍い破壊音が響く。
「地上のクソギークどもが作った仕様書にはなぁ、この機体の定格出力は100%が限界って書いてある! だがなぁ、職人の意地って部品をツギハギすれば、ハードウェアは定格の3倍(300%)のクロックでも動くんだよォッ!!」
ロックが制御レバーを限界のさらに奥へとへし折らんばかりに叩き込んだ瞬間、ジャンク・ゴーレムの全身のジェネレーターが、これまでにない狂暴な爆音を上げて駆動を始めた。
内部のギアが凄まじい摩擦で真っ赤に発熱し、油圧シリンダーからは黒いオイルが炎となって噴き出す。過負荷によって機体の各部のパーツが1ミリ秒毎に物理的に削れ、破断し、金属の粉塵を撒き散らす。それは、自らを数秒後に完全な鉄クズへと変える、文字通りの「命の自爆駆動(限界クロック)」だった。
「オラァァァァァッ!! ブチ抜け、俺の最高クロックォォォォッ!!」
ロックのジャンク・ゴーレムは、無限軌道を爆発的な過負荷で強引に回転させ、超高熱の空間を切り裂いて一直線にジレットの数式ツリーへと突撃した。
ジレットの自動防御プログラムが、その突進を処理しようと、ロックの機体の前に「絶対硬化の空間障壁(壁)」を幾重にも展開する。
「0.85秒の遅延が、ここにある……! ロック、お前の120ミリ秒のズレを、俺が完璧にコンパイルする!」
テオはロックの背部に飛び乗り、ゴーグルのリミッターを全スレッド解放した。
ロックの命を削る突進。それがジレットの防衛プログラムに「想定外の物理衝突ログ」をミリ秒単位で叩き込む。ジレットのシステムがロックの破壊処理に演算を割く、その0.85秒の隙間の、さらに奥にある、わずか『0.01度』の論理の脆弱性。
「そこだ、ロック! 左腕のプレスを、障壁の第3結節点へ叩き込め!」
「ウオォォォォォォッ!!」
ロックは叫び、赤く灼け付いた左腕の油圧プレスを、テオの指示した空間の「一点」へと正確に叩きつけた。魔力など1ミリもない。純粋な質量と、定格を300%まで引き上げたハードウェアが放つ、極限の力学エネルギーの衝突。
バリギャァァァァァァァン――ッ!!!!
統制室全体が物理的に激しく揺動するほどの、凄まじい金属の破壊音が響き渡った。
ジレットの完璧な論理の壁が、ロックの「計算不可能な限界クロック」による純粋な質量の前に、耐えきれずガラスのように粉々にへし折れ、四散した。
「ガ、ガガ……物理的衝突エネルギーが、予測値を……412%超過……。構造整合性の、維持が……」
ジレットの数式ツリーが激しいノイズを散らし、そのライトレッドの輝きを大きく減退させて大階段の床へと墜落していく。空間を支配していた超高熱のパッチも、メインサーバーの処理スタックによって一瞬にして凪ぎ、元の冷徹な白磁の空間へと戻っていった。
だが、その突破の代償は、あまりにも残酷だった。
プシューッ……と、真っ黒い煙と炎を上げながら、ロックのジャンク・ゴーレムが、その全身のギアを完全に噛み潰されて、その場にガシャリと完全に崩れ落ちた。各部の金属フレームは熱で歪み、二度と起動することのない、完全な鉄の残骸。
「ハッ……ハハ、どうだ……新入り……。俺のハードウェアは……最期まで、仕様変更なんかじゃ……ブレなかった、ろ……」
コックピットのハッチが物理的に弾け飛び、中から煤と血に塗れたロックが、床へと力なく転がり落ちた。彼の機械義手は過負荷で完全に消滅し、生身の右腕も激しい火傷でボロボロになっていたが、その顔には、地上の神の論理を力技でへし折った、エンジニアとしての最高の誇りと不敵な笑みが浮かんでいた。
「ロック……!」
テオは駆け寄り、彼の身体を抱き起こそうとした。しかし、ロックは生身の左腕で、未だに眠り続けるセレナをテオのほうへと静かに押し戻し、自分の真鍮の超大型レンチをテオの手の中へと握らせた。
「泣き言を……言ってる、暇はねえぞ、テオ……。奴のコアは、まだ生きてる。……俺の意地は、全部てめえに……インポート(適用)してやった。……ジレットのクソ野郎を、完全に……シャットダウンしてきやがれ」
「……ああ。設計通りに、終わらせてくる」
テオは、ロックの血の滲むレンチと、自分の真鍮のスパナを両手に強く握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
相棒の命を削る限界クロックによって、ジレットの『アルカナ・コア』の防衛線は、今度こそ完全に崩壊した。テオは二つの工具を胸に抱き、世界の理不尽な仕様を根底から完全に消去するための、最終ディレクトリ(深層ソースコード)への潜入を決意するのだった。




