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0.01度の特異点 ―計算不能な未来へ―  作者: 最後に残った形


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第5章 第2話:共有ライブラリの汚染


「――無駄な演算ハックだ、テオ・アルカディア。君がどれほど時空間の定数を書き換えようとも、それは私のシステムの下位スレッドに過ぎない」


統制室の空間そのものが、ジレットの冷徹な思考波形と完全に同調して不気味に脈動していた。

宙に浮かぶ巨大なライトレッドの三次元数式ツリー――それこそが、肉体を捨てて魔導都市アルカナ・ハイヴの絶対OS『神の声』そのものへと全データをアップロードしたジレットの「精神の本体」だった。


ジレットの数式がミリ秒単位で明滅するたび、テオの足元の物理法則は目まぐるしく上書きされていく。

急激に跳ね上がる空気の粘性、突如としてゼロになる光の透過率。テオはセレナが昏睡の間際に残してくれた『環境パッチ適用ログ』の残響をゴーグルに引き込み、0.12秒のタイムラグ(遊び)を突いて間一髪でそのトラップを中和し続けていた。しかし、それも防戦一方に過ぎない。


カギィィィィン!! と、テオのスパナがジレットの数式ツリーの外縁に接触するたび、強烈な開発者権限(特権エラー)のカウンターが走り、テオの右腕の骨を内側からきしませた。


「クソッ……! 奴のコア・アドレス(精神中枢)への直接アクセスが、最上位の防護障壁カーネル・ロックによって完全に弾かれる。ジレット自身が都市のルールそのものになっている以上、外部からのハックプログラムはすべて『未定義の不正エラー』として処理される設計だ」

テオは白磁の床を滑るように後退し、荒い息を吐きながら毒づいた。


「ヘッ、だったらその頑丈なOSの壁ごと、俺の質量でブチ砕いてやるだけだ!」

背後から、ロックがジャンク・ゴーレムの残された最後の油圧シリンダーを爆音と共に駆動させ、突進しようとする。しかし、彼の生身の右腕は過負荷によるショートを防ぐためにスタンドアロン(回路遮断)にしているものの、機体の鉄骨はジレットの書き換える不均一な重力によって激しくねじ曲がり、ミリ単位で破断の悲鳴を上げていた。


「待て、ロック! 正面から衝突アタックするな。ジレットのルート権限と力技で戦えば、こちらのメモリ(命)が先に枯渇する」

テオはゴーグルを叩き、視界を『アルカナ・コア』の最深部から、さらにその下位に広がる「都市全体のデータストリーム」へとリトレース(反転)させた。


(ジレットの精神は、都市の120万人の市民の脳を並列接続して維持されている……。ならば、奴の精神の本体は、スタンドアロン(独立)したコアじゃない。数百万の端末とデータを共有している『共有ライブラリ(メインメモリ)』そのものだ)


テオの硝子のような瞳に、現場のデバッガーとしての冷酷かつ最高峰のハックロジックが閃いた。


最上位の特権カーネルを直接書き換えることは不可能。ならば、その特権プログラムが常に参照し、依存している『下位の共有データ(ライブラリ)』を内側から濁らせ、汚染インジェクションすればいい。


「ジレット。お前は数百万人の人間の精神をシステムへ強制同期させ、個の意志を消去して一つの完璧な論理に変えたと言ったな。――だが、人間の心は、そんなに簡単に綺麗にコンパイルできるほど、単純なソースコードじゃない」


テオは手にした真鍮のスパナを限界まで強く握りしめ、その先端を、統制室の床一面に敷き詰められた最高位魔導ラインの「データ排出口バッファ・プール」へと突き立てた。


「ロック、増幅器の残骸に残っているセレナの『魂の逆位相波』の残響ログを、この魔導ラインのベースアドレスへ全スレッド解放して叩き込め!」


「……! 魂の逆位相だと? よしきた、新入り! セレナが命がけで世界に残した『ノイズ(意志)』を、奴の自慢のメインメモリへ流し込んでやるぜ!」

ロックは生身の左腕で昏睡したセレナを抱きかかえたまま、生身の右腕でアンプ回路の残骸をラインへと力任せに叩きつけた。


バリバリバリバリバチィィィィン!!


統制室の床全体が、目も眩むような鮮烈なライトブルーの輝きを放って激しくスパークした。

テオがスパナを介して流し込んだのは、破壊のコードではない。セレナが脳を焼き切って世界中の人々に届けた「不確実な明日を選ぶ人間の愛おしさ(バグ)」、そしてテオ自身が胸の奥に秘め続けてきた「ミアの死に対する激しい怨嗟と、人間をパーツとして扱う世界への怒り」――すなわち、システムが最も嫌悪する、最も計算不可能な『生々しい人間の情動データ(生データ)』だった。


その濁流のような感情のノイズが、アルカナ・コアを通じて、ジレットの精神が依存している「共有ライブラリ」の全領域へと、怒濤の勢いで強制インジェクション(汚染)されていった。


『警告:共有ライブラリ(セクター01〜45)に、未定義の情動パケットの混入を検知』

『エラー:データ整合性の再計算を実行中。並列処理スレッドの同期に遅延が発生しています』


「な……に……? 私の、論理が……計算が……スタック(停滞)している……?」


空中を浮遊するジレットの巨大な数式ツリーが、突如として不規則なライトレッドの明滅を起こし、その幾何学的な形状を歪ませた。

都市全体の物理法則を0.01秒毎に書き換え続けていたジレットの完璧なアルゴリズム。その思考の前提となる共有メモリの中に、突如として「悲しみ」や「怒り」や「願い」といった、二進数では割り切れない莫大な人間の意志ノイズが強制適用されたのだ。


ジレットのシステムは、その汚染されたデータを「バグ」として排除しようと試みる。しかし、そのデータは、彼自身がパッチを維持するために並列接続した「市民たちの脳の残渣」から内発的に発生しているため、完全に隔離パージすることができない。ジレットの精神(OS)は、自らの内部から湧き上がる「計算不可能な人間の迷い」を処理するために、莫大な演算リソースを無駄に消費し始めた。


「これが……人間の、意志……だと……? 非効率な、ただのエラーコードではないか……! なぜ消去デリートできない……!」

ジレットのシステム音声に、初めて「動揺」という名の明らかなノイズ(ブレ)が混ざり始めた。


「ジレット、お前は完璧な調和のために人間を部品にしたが、その部品すべてがお前と同じように冷酷に動くわけじゃない」

テオはゴーグルを位置づけ直し、スパナを引き抜いて一直線に跳躍した。

ジレットの共有ライブラリが汚染されたことにより、世界の物理法則の強制書き換えインターバルは、0.12秒から、さらに【0.85秒】へと致命的にまで引き延ばされていた。


0.85秒(850ミリ秒)。これだけの間(遊び)があるのなら、もはや神の領域の物理法則など恐るるに足らない。テオのワイヤーフレーム視界には、ジレットの数式ツリーの中心を貫く、1本の明瞭な「脆弱性のコアアドレス」がはっきりと剥き出しになって映し出されていた。


「お前が人間を燃料にした瞬間から、お前のシステムは、人間のバグ(感情)によって内側から汚染される運命(仕様)だったんだ」


テオは空中でスパナを逆手に構え、ジレットの演算遅延が生み出した最大の隙間へと向かって、弾丸のような速度で突撃していった。完璧に管理されたディストピアのOSが、人間の泥臭いノイズによって初めてその論理の足元を大きく狂わせた、決定的な大逆転の瞬間だった。

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