第4章 第15話:特異点へのゲート
『世界最終アップデート:ラスト・パッチ(精神統合)。適用率――100.0%』
天の彼方から響く無機質な機械音声は、人類の「意志」という名のバグが、世界のソースコードから完全に消去されたことを告げる終焉の鐘だった。
「が、あ……、……ッ」
統制室の床に倒れ伏したテオの脳内で、猛烈な書き換え処理(上書き)の嵐がピタリと凪いだ。
激痛は消えていた。しかし、それは救われたからではない。彼の脳のニューロン、記憶、感情――妹ミアへの復讐心や、セレナを護りたいという執念すらも、巨大な『神の声(OS)』の一元化された共有ライブラリの中に吸い上げられ、個としての輪郭を急速に失い、薄まり始めていたからだ。
思考が、冷徹な「定数」へと固定化されていく。
悲しみも、怒りもない。ただ世界を効率的に維持するためだけの、完璧な一過性のデータ。
「――バグ(不確実性)の特定、および修正の完了を宣言する」
正面から、肉声ではない、空間の空気そのものを直接振動させるような、圧倒的なシステム音声が響き渡った。
テオが虚ろな目を必死に持ち上げると、そこには、先ほどまでキーボードを叩いていた最高監査役ジレットの「肉体」が、生気のないただの抜け殻として白磁の床へ崩れ落ちる光景があった。
ジレットは、自らもまた例外ではなかったのだ。
彼はテオのロジックボムによる自壊を回避し、かつラスト・パッチの執行を完璧なものにするため、自身のすべての精神と脳の記憶データを、限界寸前のメインサーバー『アルカナ・コア』へと100%アップロード(一元化)し終えていた。
彼が捨てた肉体の頭上。そこには、数百万人の市民の脳を並列接続して得た莫大な演算力の光を纏い、巨大な「ライトレッドの三次元数式ツリー」として具現化した、ジレットの精神そのものが浮遊していた。
肉体を捨て、都市の論理そのもの(絶対OS)と化したジレット。
彼が「右へ進め」と念じれば、その瞬間に空間の重力ベクトルが右へと物理的に書き換わる。彼が「消えろ」と思えば、その座標に存在する物質の結合定数がゼロになる。世界の物理法則そのものが、ジレットの意思と完全に同化した、絶対の開発者空間。
「テオ・アルカディア。君も、ロックも、セレナも、今や私の管理下にあるシステムの一部だ。君たちの反逆の意志は、先ほど調和の数式の中にすべて内包された。世界はついに、狂いなき完璧な硝子の王座へと昇華したのだ」
ジレットの数式ツリーから放たれる、絶対的なシステムコマンド。
テオの右腕が、自分の意志とは無関係に、システムの命令のままにピクリと動き、床に転がっていたスパナを「廃棄データ(ゴミ)」としてゴミ箱へ放り投げようとする。
(……だめ……、動くな……俺の、腕……!)
脳の隅に残された、数ビットの生身の記憶が必死に抵抗するが、OSそのものが下した実行命令には抗えない。テオの指先が、無情にもスパナを離そうとした、その瞬間だった。
ドンッ――!!!!
テオの背後、完全シャットダウンして鉄クズと化していたはずの『ジャンク・ゴーレム』の胸部ハッチが、物理的な内圧によって激しく吹き飛んだ。
「てめえの……クソみたいな……インポート通知(命令)なぁ……!!」
ハッチの奥から這い出てきたのは、全身の皮膚から血を流し、機械義手を過負荷で爆発させて剥き出しになった「生身の右腕」を突き出したロックだった。
彼の脳もまた、精神統合の波に晒されているはずだった。しかし、彼の胸の奥にある「偏屈なハードウェア・エンジニアの意地」という頑固な部品だけは、OSの書き換えコマンドを受け付けるための受信ポート(回路)そのものを、物理的に焼き切って遮断していたのだ。
ロックは生身の右腕を限界まで伸ばし、床を転がっていたテオの真鍮のスパナを、泥臭く、力学的に最も強固な握力で、ガチリと掴み取った。
「システムがなんだ……! OSがなんだ……! 泥水をすすって生きてきた人間のクソ意地を、たかが1行のコードで上書きできると思うなよ、ジレットォォォォッ!!」
ロックは叫び、掴んだスパナを、テオの動かなくなっていた右手の中へと、力任せに押し戻した。
その生身の「肉の温もり(過負荷)」が、テオの脳内の共有ライブラリに強烈なノイズ(割り込み処理)として激しく衝突した。
ハッ、とテオの瞳に、ライトグリーンのハックの輝きが鮮烈にバックアップ(再起動)された。
ミアの笑顔、ロックの意地、そして声を失いながら自分を信じて微笑んだセレナの最期の光。システムがどれだけ効率的に消去しようとも、彼らの胸に刻まれた「人間のノイズ」は、共有ライブラリのバッファを突き破って、再び圧倒的な例外エラー(特異点)として脳内に君臨した。
「……ロック、よく繋いだ」
テオはスパナを完璧に握り直した。
彼の隣では、ロックがセレナの身体をその強固な生身の左腕で抱きかかえ、不敵に笑っている。セレナの心音は、まだ止まっていない。彼女の残した環境ログのシード値が、テオのスパナの先端で、バチバチと世界を拒絶する「最悪のバグ」となって再点火された。
「ジレット。お前が世界そのもの(OS)になったというのなら――」
テオはスパナを、ライトレッドに輝くジレットの数式ツリーの、その基底現実の「システム・ルート」へとまっすぐに突きつけた。
「俺たちの泥臭いエンジニアリングで、世界そのものを内部から完全にハングアップ(クラッシュ)させてやる」
ジレットの絶対OS空間の真ん中で、システムが想定していなかった最大にして唯一の例外オブジェクト(特異点)となった三人のエンジニア。
世界のルールそのものを相手にした、世界再起動のための最終デバッグのゲートが、いま、凄まじい電子ノイズの爆音と共に解き放たれようとしていた。
(第4巻:環境パッチの悪夢 ・完)




