第4章 第14話:硝子の王座への進撃
「――バグ(不確実性)を根絶するために、仕様そのものを狂わせる。ジレット、それがお前の言う『完璧な調和』の正体か」
へし折られた重隔壁の向こう側、白煙と電子ノイズが立ち込める統制室の最深部へ、テオは一歩を踏み出した。
彼の右手に握られた真鍮のスパナは、過負荷によってライトグリーンの演算光を激しくバチバチと撒き散らし、その輪郭を微かに融解させ始めている。左腕から、意識を失ったセレナの身体をロックのゴーレムへと託したテオの双眸は、ただ目の前の「ディストピアの番人」を完全に消去するためだけに、極限の殺意を宿して研ぎ澄まされていた。
部屋の中央、世界の基底現実をリアルタイムで書き換え続けている超巨大ホログラムメインシステム『アルカナ・コア』。その眩い光の前に佇む最高監査役ジレットは、衣服に地下世界の煤を纏いながらも、眼鏡の奥のガラス細工のような瞳を一ミリの狂いもなく明滅させていた。
「君の言う通りだ、テオ・アルカディア」
ジレットの声は、ノイズが混じる空間の中でも、驚くほど冷徹に、そして静かに響いた。彼の細い指先は、空中に展開されたライトレッドのキーボードを、まるで正確なメトロノームのように叩き続けている。
「人間の意志(感情)というオブジェクトは、どれほど最適化を施そうとも、常に予測不能な『丸め誤差(例外エラー)』を生み出し続ける。君の妹ミアが低ランクのまま医療リソースを要求したことも、セレナが声を捨ててシステムをジャミングしたことも、すべては調和を乱すノイズに過ぎない。ならば、世界のソースコードからその『不確定要素』そのものを消去し、全人類の精神を一つの狂いなき共有ライブラリへと統合する。それ以外に、この都市を不滅にする計算式は存在しない」
ジレットの背後で、世界最終アップデート『ラスト・パッチ(精神統合)』の最終進行バーが、冷酷に残り【45秒】を告げてカウントを刻んでいく。
「ふざけんじゃねえぞ、お高くとまった開発者がよォッ!」
ロックのジャンク・ゴーレムが、残された唯一の左腕の油圧プレスシリンダーを爆音と共に駆動させ、白磁の床を踏み荒らして突進した。
「綺麗な数式のために人間を間引いて、挙句の果てには心まで部品にしやがって! そんな硝子細工のクソ世界なぁ、俺のスクラップの質量(力学)で粉々にヘシ折ってやるぜ!」
ジャンク・ゴーレムの鉄拳が、ジレットの脳天へ向けて一直線に振り下ろされる。魔力など一切乗っていない、地下世界の執念が詰まった純粋な物理の過負荷。
しかし。
「――オブジェクトの静的ロック(強制停止)」
ジレットがキーを一つ、静かに押し下げた。
その瞬間、ジャンク・ゴーレムの拳がジレットの鼻先数センチのところで、キィィィィンという金属の悲鳴を上げて完全に金縛りに遭ったかのように停止した。
「な……に……ッ!? 義手のジャイロが……動かねえ……!?」
コックピットの中で、ロックがレバーを限界まで引き絞るが、ゴーレムの全身のサーボモーターが、内部のギヤが噛み合ったまま完全にロックされていた。
「セレナのジャミングによって、世界の物理法則の適用には確かに120ミリ秒のタイムラグ(遊び)が生じている」
ジレットは眼鏡のフレームを静かに押し上げた。
「だが、この統制室の中枢(ローカル環境)において、開発者権限を持つ私の演算速度は、依然として君たちのデバッグを遥かに超越している。君がレバーを動かそうとするその脳の電気信号を感知した瞬間、システム側が先回りして、ゴーレムの制御基板の駆動定数を【0.00】へと書き換える。ルールそのものを支配する私に対し、力学という過去の仕様で挑むこと自体が、非効率なエラーなのだ」
ジレットの指先が、次のコマンドを入力する。
『処理:該当オブジェクトの構造定義を消去』
ジャンク・ゴーレムの左腕の重装甲が、ジレットのコマンド一列によって、ボロボロと青白い電子ノイズの霧へと分解され始め、ロックの生身の機械義手へとその消滅の波が迫る。
「ロック、駆動アースを完全に遮断しろ! 機体の自重だけで右斜め前方へ倒れ込め!」
テオが叫ぶと同時に、自身もまた、ジレットの網膜の走査線の「隙間」へ向けて超高速で肉薄した。
「ガアァァァッ!」
ロックはテオの指示通り、ゴーレムの全電源を手動で完全に強制シャットダウンした。制御信号がゼロになったことで、ジレットのデリート・コードは標的の構造データ(アドレス)を見失い、空振り(エラー)を起こす。ジャンク・ゴーレムの巨躯は、純粋な慣性と重力(力学)のままに、右斜め前方へと不格好に崩れ落ち、ジレットの演算領域を物理的に遮蔽した。
「――割り込み処理、開始!」
ジレットの視界がロックの巨躯によって一瞬だけ遮られた、そのわずか数ミリ秒の隙。
テオは床を滑り、ジレットの足元から伸びる最上位魔導ラインの結節点へと、手にしたスパナを力任せに突き立てた。
狙うのはジレットの肉体ではない。ジレットがキーボードを叩き、世界の定数を上書きし続けているその『演算スレッドの基底ライブラリ』だ。
カギィィィィィィン――ッ!!
統制室の中に、鼓膜を裂くような澄み切ったハック音が響き渡る。
テオは、セレナが命がけで残してくれた世界の仕様変更ログの残響を、スパナを介してジレットのシステムへと逆流させた。ジレットが10ミリ秒毎に当て続けている防衛パッチの、その計算の端数(丸め誤差)を意図的に増幅させ、システム内部で解決不可能な「自己矛盾(無限ループ)」を発生させる即席のロジックボム。
「……チッ」
ジレットの指先が、初めて不快げに震え、空中キーボードの画面が真っ赤なエラーフラグで激しく明滅した。
『警告:未定義の再帰参照を検知。演算プロセスのバッファが急速に枯渇しています』
「どんなに完璧な開発者権限を持っていようが、お前が動かしているその『神の声』の根底には、三十年前にカインが設計した初期設計の歪みがそのまま残っている」
テオはスパナをさらに深く突き込み、ジレットの眼鏡を内側から演算エラーの光でバキバキと叩き割った。
「ジレット、お前はバグを消そうとして、世界というプログラムの最も脆い根底を全力で叩き続けているんだ。お前の完璧主義こそが、この都市の最大の脆弱性だ!」
「……実に見事なデバッグだ、テオ・アルカディア」
眼鏡の片レンズを粉砕され、剥き出しになったジレットの左瞳が、不気味なライトレッドのデータストリームを放って激しく明滅した。
ジレットの周囲の空間が、ロジックボムの負荷によって激しく歪み、白磁の床が内側からガラスのように粉々にクラッシュ(崩壊)していく。
しかし、ジレットの口元には、冷酷な勝利の数式がまだ崩れずに残っていた。
「だが、君のデバッグも、あと【15秒】遅かった」
ジレットが血の滲む指先で、ホログラムの最終確定キー(エンター)を力任せに押し下げた。
『世界最終アップデート:ラスト・パッチ。進行度99.9%。……全精神の統合処理、最終ロックを解除します』
ウゥゥゥゥ――ーーーーーーーーッ!!
アルカナ・コアの光が、統制室を、都市全域を、世界のすべてを包み込むほどの圧倒的な漆黒の輝きとなって爆発した。テオの脳細胞に、人間の領域を遥かに超越した巨大なシステムOSの全ソースコードが、津波となって直接強制インポート(書き込み)され始める。
「が、あ、あああああああ――ッ!?」
テオは頭を抱え、床へと激しく転がった。スパナが手から滑り落ち、白磁の床を金属音を立てて転がっていく。
人間の意志が消える。
世界が、完璧な硝子の王座へと変貌する。
ジレットの狂気のパッチが、ついに世界そのものの構造を完全にロックしようとしていた、まさにその絶望の臨界点だった。




