第4章 第13話:ラスト・パッチ(自己犠牲のハック)
「――時間は、わずか480秒。1ミリ秒の処理遅延も残さず、この世界を『仕様変更』する」
中央管理塔最上階、統制室前回廊。
テオの声は、極限の悲しみと怒りによって、完全に凍りついた「鉄の論理」へと変貌していた。
彼の腕の中には、アンプの超高電圧回路に脳細胞を直接物理接続し、世界を救う逆位相波を放ち終えたセレナの身体があった。彼女のライトブルーの瞳は完全に光を失って閉じられ、その華奢な肉体からは結合定数の乱れによる微かな青い電子ノイズの剥離が、いまも陽炎のように揺らめいている。
彼女の心音は辛うじて動いているが、脳の演算領域は限界以上の過負荷によって完全にハングアップ(昏睡)状態に陥っていた。
だが、彼女の命を賭した自己犠牲のハックは、ジレットが構築した「完璧な絶対防衛領域」の数式を、内側から完璧に爆破していた。
『警告:都市全域において逆位相ジャミングを検知』
『メインコアの演算スレッドに不整合が発生中。環境パッチの適用インターバルが【0.005秒】から【0.12秒】へドロップ(遅延)』
「タイムラグ(遊び)ができたぞ……! 0.12秒(120ミリ秒)もありゃあ、俺たちのハックをねじ込むには、無限に近い広大なバッファだ!」
テオは額のゴーグルを叩き、激しく火花を散らす真鍮のスパナを逆手に握り直した。セレナを戦火から護るように左腕で強く抱きしめ、視線を正面の巨大な統制室の鉄扉へと固定する。
「オラァァァァァッ!! ジレットの野郎、よくもセレナをパーツ扱いにしやがったなァ!!」
地鳴りのような怒号と共に、ロックの『ジャンク・ゴーレム』が白磁の回廊の壁を粉砕しながら前線へと再突入してきた。
機体はすでにボロボロで、右腕の油圧プレスシリンダーしか残されていない。しかし、ロックの胸の奥で燃え盛る「ハードウェアの怒り」は、過負荷で焼き切れかけたサーボモーターの限界数値を物理的に限界突破させていた。
「テオ! 敵の最終防衛ライン、自動迎撃アーマー『オメガ・センチネル』の3機が起動したぞ! 120ミリ秒の隙間をどう突く!?」
回廊の奥から姿を現したのは、ジレットの直属にして都市最強の自律駆除プログラム。白銀の巨躯を持つ3機の機動兵器は、環境パッチの遅延を力技で補填するため、その銃口から空間の構造定義を直接消去する『デリート・コード弾』を、1秒間に数百発という面制圧の密度で掃射し始めた。
通常であれば、かすっただけで肉体がデータレベルで消滅する恐怖の豪雨。だが、いまのテオの網膜には、セレナが命がけで勝ち取った「120ミリ秒のタイムラグ」が、はっきりとした数式の隙間としてライトグリーンの幾何学模様で描画されていた。
「ロック、直進しろ! 40ミリ秒後に正面の空間の重力定数が『ゼロ』になる! その瞬間にジャンク・ゴーレムの質量を前方に全投下しろ!」
「応よッ! 設計通りにブチ抜いてやるぜ!」
ロックはレバーをへし折らんばかりに引き絞り、無限軌道が火花を散らすゴーレムを突進させた。
テオの予測通り、40ミリ秒後、ジレットのパッチ適用のタイムラグにより、センチネルの放ったデリート弾の弾道が一瞬だけ「無重力空間」に捕らわれ、不自然に上空へと浮き上がった。その、弾道の真下に生じたわずか『30センチ』の論理的な隙間へと、ロックのジャンク・ゴーレムの巨躯が、滑り込むようにして完璧に滑り抜けた。
「ハック、コンパイル、実行!!」
テオはロックの肩から跳躍した。左腕でセレナを抱いたまま、空中でスパナを一閃させる。
120ミリ秒の遅延により、オメガ・センチネルの防護障壁の術式が「再計算」される瞬間の、ほんの0.01ミリ秒の不連続点。テオはその隙間へ、自らの魔力を論理ボムとして正確に噛み合わせた。
バリバリバリバキィィィン!!
最硬の防御を誇っていたオメガ・センチネルのメイン基板が、パッチ適用のタイミング不整合によって内側から自壊のショートを起こし、激しい爆音と共に次々と機能停止して床へ崩れ落ちていく。
「あと、180秒……!」
テオは着地と同時に、統制室の巨大なセキュリティ隔壁の前へと滑り込んだ。
この鉄扉の向こうに、ミアを殺し、セレナの脳を焼き切った、この世界のすべての狂った仕様を管理する最高監査役ジレットが待っている。
「ロック、この扉を物理的にヘシ折るぞ! 結合術式のデバッグコードは俺が流し込む!」
「へっ、最初からそのつもりだ! 洗練された地上のセキュリティが、地下世界の泥臭い油圧プレスに耐えられるか試してやろうじゃねえか!」
ジャンク・ゴーレムが残された左腕のシリンダーを最大出力で駆動し、扉の継ぎ目へとその鉄拳を強引に楔のように打ち込んだ。
テオはスパナの先端をその金属疲労の走査線へと押し当て、セレナの残したシード値を全スレッド解放して注入する。世界の物理法則が狂い続ける120ミリ秒の歪みそのものを、セキュリティを破壊するための「巨大な過負荷」へと変調して扉の内郭へと逆流させる。
「俺たちの……エンジニアリングを、仕様通りにインポート(適用)しろォォォォッ!!」
二人の天才エンジニアの、ハードとソフトが完璧に一つに噛み合った最大出力のハッキング。
バリギャァァァァァァァン――ッ!!!!
都市の最高機密を護り続けていた白磁の重隔壁が、力学的な圧力と論理的な自壊によって無残に中央からへし折れ、猛烈な爆風と電子ノイズの煙を散らしながら、内側へと盛大に吹き飛んだ。
煙が立ち込める統制室の最深部。
その中央に位置する、世界の基底現実を書き換え続けていた超巨大メインシステム『アルカナ・コア』の光の前に、その男は静かに佇んでいた。
最高監査役、ジレット。
彼は、反逆軍の最高火力が自らの目の前まで到達したという、システムにとって最大級の例外エラー(不祥事)に直面しているにもかかわらず、その眼鏡の奥のガラス細工のような瞳には、一切の動揺のノイズすら浮かべていなかった。
「到達確率10.5%のバグを、人間の意志によって100%に修正したか。テオ・アルカディア」
ジレットは振り返り、冷徹な声で言った。彼の背後では、世界を破滅へと導く『ラスト・パッチ(精神統合)』の最終適用進行バーが、残り【60秒】を告げて冷酷にカウントを刻み続けていた。
「仕様変更の時間だ、ジレット」
テオは意識を失ったセレナをロックのゴーレムの手に静かに託し、真鍮のスパナをジレットの胸元へと突きつけた。
妹を殺され、相棒の声を奪われ、世界を調和という名の硝子細工に変えようとするディストピアの神。その仕様を根底から書き換えるための、1ミリ秒の妥協も許されない「開発者権限(ルート権限)」を賭けた最終決戦の火蓋が、いま、この暗黒の統制室で切って落とされようとしていた。




