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0.01度の特異点 ―計算不能な未来へ―  作者: 最後に残った形


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第4章 第12話:セレナの決意(ノー・ノイズ)


「――拒絶する。そんな接続コード、俺のスパナは絶対に執行エンターしない」


激痛で液状化する視界の中、テオは床に両手をつきながら、血を吐くように叫んだ。

網膜の隅でミリ秒単位で削れていく漆黒のカウントダウン。地上の数百万、地下の数十万の全人間の精神が、ジレットの『ラスト・パッチ(精神統合)』という巨大なデータ吸引の渦に呑まれ、個の意志を失った生体パーツへと変えられていく最悪の秒読み。


だが、その破滅を食い止めるためにセレナが提示したシステム構成ロジックは、テオにとって、ミアを失ったあの日の絶望をもう一度自分の手で再現するに等しい、あまりにも残酷な「仕様」だった。


ロックのジャンク・ゴーレムの背部から引き剥がされた、指向性音響増幅器アンプの無骨な残骸。

過負荷で真空管の半分が叩き割れ、剥き出しになった銅線と魔導基板がパチパチと不気味な火花を散らしている。セレナはその接続端子を、自身の細い指先で強く握りしめていた。

彼女が要求しているのは、魔力による通常のジャミングではない。声を失った彼女の声帯の代わりに、自身の『脳の全ニューロン(演算領域)』そのものをアンプの超高電圧回路へと直接物理接続フィードバックし、魂のエネルギーそのものを逆位相の振動波として世界全域へ放射する、文字通りの脳死メモリバーストを前提とした破滅的なハックだった。


「ふざけんじゃねえぞ、セレナ……! 誰がてめえを、そんなスクラップのアース(生贄)にするかよ……!」

コックピットの中で、暴走する義手のサーボモーターを必死に押さえつけながら、ロックが声を枯らして叫んだ。

「テオ! そのクソみたいな端子をセレナの手から叩き落とせ! 俺たちのハード(肉体)がどれだけブチ壊れようがなぁ、子供一人を身代わりにしなきゃ通らねえ数式なんて、俺は絶対に認めねえ!」


(ロック、ありがとう。……でもね、もう時間バッファがないの)


セレナの澄み切った、しかし一切のブレのない思考のトレースが、激痛に悶える二人の脳内へと割り込んできた。

彼女のライトブルーの瞳から、一筋の美しい光の涙が白磁の床へとこぼれ落ちる。彼女のアコースティック・センサーは、今この瞬間も、世界中の子供たちや老人たちが精神を吸い上げられ、虚ろな生体歯車へと変えられていく絶望的な「構造崩壊の悲鳴」を、1ミリの誤差もなく受信し続けていたのだ。


(ジレットのパッチが当たれば、世界から『バグ』はなくなる。悲しいことも、苦しいことも、全部計算式の中に隠されて、誰も涙を流さなくなる……。でもね、それは『生きてる』って言わないよ。私は、テオやロックと出会って、泥だらけの地下世界で不器用だけど必死に生きる人間の『ノイズ(意志)』の愛おしさを知った。……だから、護りたいの。不確実な明日を選ぶ、みんなの心を)


セレナは、声を失った唇を動かし、テオを見つめた。

彼女の瞳には、かつてテオの妹ミアが最期の瞬間に浮かべたあの穏やかな光と、全く同じ「人間の尊厳バグ」が宿っていた。


(テオ……エンジニアなら、感情で演算を止めるな、って言ったよね? 10.5%の可能性を100%に書き換えるんでしょう? ……私を、コンパイルして。テオの手で、私の魂を、世界中の人たちの心へ『パッチ』として当てて!)


「セレナ……っ」

テオの胸の奥のメモリが、かつてないほどの激しい警告音エラーを上げて軋んだ。

効率のために8万人を切り捨てようとした時、彼は自分の心を冷徹な論理の檻に閉じ込めた。だが、いま目の前で、自分を信じてくれた少女が、世界を救うために「自分を最も効率的な部品として消費しろ」と微笑んでいる。


システムは間違えない。間違えているのは、人間をパーツとしてしか扱わない、この世界の狂った仕様ルールそのものだ。


「……ああ、分かった」


テオは、激しく震える右手を伸ばし、床に転がっていた真鍮のスパナを掴み直した。

彼の目から、大粒の涙が溢れ出し、ゴーグルのレンズを濡らしていく。彼は現場のデバッガーとして、これまで無数のバグを冷酷に消去してきた。しかし、今から行うコンパイルは、彼のエンジニア人生の中で、最も泥臭く、最も残酷で、そして最も美しいハッキングだった。


「てめえ! テオ、正気かよ! やめろッ!」

ロックの静止の声が響く中、テオはセレナの前へと膝をつき、彼女の小さな頭へと手を添えた。


「セレナ。お前の脳の周波数プロトコルを、アンプの第1次増幅スレッドへと完全同調アジャインさせる。……痛むぞ」


(ううん。テオのスパナなら、痛くないよ。……いってきます、私のデバッガー)


セレナは、吸い込まれそうなほどに美しい最期の笑みを浮かべ、そっと瞳を閉じた。


テオは感情のすべてを凍りつかせ、ただ一人の純粋なエンジニアへと先祖返りした。彼の脳内で、セレナの全ニューロンの構造データと、アンプの回路図が一瞬でコンパイルされ、一本の強烈な「逆位相パッチ」へと組み上がっていく。


「――割り込み処理、最終フェーズ。ターゲット名:セレナ・アコースティック。……コンパイル、実行エンター!!」


テオは手にしたスパナを、セレナが握りしめるアンプの剥き出しの基端へと、全力で突き立てた。


バチィィィィィィィィン――ッ!!!!


統制室の回廊全体が、目も眩むような鮮烈なライトブルーの「魂の光」によって埋め尽くされた。

アンプの真空管が一斉に真っ赤に過熱し、セレナの脳細胞から直接引き出された高密度の演算エネルギーが、不可視の『精神の逆位相波ノー・ノイズ』となって、中央管理塔の壁を、地上の白磁の街並みを、そして地下の最深部を、津波のような速度で駆け抜けていった。


ジレットの放った『ラスト・パッチ(精神統合)』という絶対の論理の網。その網の目のすべてに、セレナの「人間を肯定する魂のノイズ」が物理的な逆位相となって完璧に噛み合い、その強制アクセスを内側から劇的に相殺ジャミングし始めた。


「あ……が、はっ……! 頭の、ノイズが……消えて、いく……?」

脳を焼き切られかけていた反逆軍の兵士たちが、次々と正気を取り戻し、白磁の床の上で荒い息を吐き始めた。

地上で生体歯車にされかけていた数百万の市民たちの脳からも、ジレットの強制処理フラグが次々とパージ(解放)され、彼らの瞳に「個人の意志」という不確実な光が再び灯っていく。


世界中の人間の精神を救った、奇跡のハッキング。


しかし、その光の中心で。

テオの目の前でアンプと接続されたセレナの身体は、限界以上の電圧(魔力)の負荷によって、結合定数が限界を迎えつつあった。彼女の美しいライトブルーの瞳の光が、1ミリ秒毎に、じわり、じわりと、その輝きを失っていく。


「セレナ……アアアアアッ!!」


テオの絶叫が、白磁の回廊に虚しく響き渡る。

己の涙と引き換えに世界を繋ぎ止めたデバッガーは、光を失いゆく少女の身体を抱きしめたまま、ジレットの待つ統制室の重い鉄扉を、血の滲むような瞳で見据えていた。完璧な論理の代償として失われた少女の魂を胸に、世界の仕様ルールを根底から書き換えるための最終進撃が、いま、最も切ないカリカチュアとなって始まろうとしていた。

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