第4章 第11話:ラスト・パッチの起動
『警告:未知の最上位プロトコルがシステム・ルートを掌握しました』
『エラー:全演算スレッドの優先順位が強制変更中。個体精神データの抽出を開始します』
網膜の視界を埋め尽くす、血のような赤を通り越した「漆黒」のエラーウィンドウ。
中央管理塔の最上階、統制室へと続く最後の重厚な回廊で、テオは突如として脳髄を直接太いボルトで撃ち抜かれたような、凄まじい例外エラー(激痛)に襲われた。
「――っ、あ、ガッ……!?」
視界が激しく液状化して歪む。ポケットの中のスパナを握りしめようとしたが、指先の神経の制御信号が、脳からの命令を完全に拒絶してピクリとも動かない。
テオだけでなはい。
「う、あ、あああ……ッ!!」
背後を進んでいた反逆軍の武装兵たちが、次々と頭を抱えて白磁の床へと崩れ落ち、痙攣を始めた。彼らの耳や目元からは、高負荷の並列処理に脳細胞が焼き切れかけていることを示す、禍々しい紫色の電子ノイズの火花がパチパチと飛び散っている。
ジレットが起動した世界最終アップデート『ラスト・パッチ(精神統合)』。
それは、都市全域に暮らす数百万人の人間のニューロンを、システムを維持するための「生体分散型サーバーのクラスター」として強制的に一元化する、最悪のバグ根絶プログラムだった。
「ク、ソッタレが……! 頭の中に、直接……クソコードが……流れ込んで、きやがる……!」
ロックがジャンク・ゴーレムのコックピットの中で、生身の頭部を自らの機械義手で激しく殴りつけながら、血を吐くように絶叫した。
彼の強固なハードウェア(肉体)すらも、この世界の根底にあるOS『神の声』が放つ、最上位権限の強制アクセス(クラッキング)の前には無力だった。ロックの義手のサーボモーターは完全に同期を失い、ガチガチと不気味な金属音を立てて暴走を始めている。
地下の旧地下鉄トンネルに避難した8万人の下層市民たち、そして地上でジレットの奴隷となっていた登録市民たち――いま、魔導都市アルカナ・ハイヴに生きるすべての「人間」の精神が、目に見えない巨大なデータ吸引の渦に巻き込まれていた。
人間の脳から「感情」や「意志」といった、システムにとって計算不可能な不確定要素を根底から消去し、ただ世界の物理法則を維持するためだけの純粋な『論理定数』として吸い上げていく。個の意識が、巨大な全体主義のソースコードの中へと薄まり、消滅していく。これこそが、ジレットの目指した「不確実性のない、完璧な世界の完成」の真の姿だった。
「テオ……! 戻れ……! 演算の、規模が、違いすぎる……! 奴は……都市の全人口の、脳のシナプスを、一本の、共有ライブラリへ、変えようと、している……!」
インカムの向こう側から、バッファ・ノードに残ったカインの、息絶え絶えな、しかし必死の警告がノイズ混じりに響く。だが、そのカインの音声も、次の瞬間には「ピー――」という冷酷な同期エラー音へと変わり、完全に通信が途絶した。カインの老いた脳もまた、システムの圧倒的なデータ徴収に呑まれつつあるのだ。
(予測定数:消失。世界全体の変調:不可能。システム全体のメモリが……人間に、よって、埋め尽くされていく……)
テオのワイヤーフレーム視界は、完全にノイズの砂嵐で埋没していた。
どれだけ優秀なデバッガーであろうとも、世界そのものが「全人間の精神を燃料として硬化」していくこの状況では、ハックを仕掛けるための『遊び(バッファ)』が1ミリ秒すら存在しない。計算式そのものが、ジレットの意思によって完全にロックされてしまっている。
全滅。完全なる仕様通りのデリート。
テオの膝が、屈辱と激痛に折れ、冷たい白磁の床へ、カツンと乾いた音を立てて激突した。
だが、その完全な暗黒の絶望の最中。
テオの動かなくなった右手に、そっと、驚くほど温かく、そして微かに震える「小さな手のひら」が重ねられた。
「……っ」
テオは、激痛に歪む視界の隙間から、必死に隣を見上げた。
そこにいたのは、同じように脳内へ莫大な例外エラーを流し込まれ、目元から血を流しながらも、そのライトブルーの瞳に「絶対の決意」の光を宿した少女――セレナの姿だった。
彼女は声を失った唇を強く結び、テオをまっすぐに見つめていた。彼女の『高度な環境感知能力』は、今この瞬間、世界中の人間が精神を剥奪されていく「悲鳴の波形」を、世界で最も純粋なデータとして受信していた。
そして、彼女はテオの手を握りしめたまま、手元に残された『指向性音響増幅器』のアンプ回路の剥き出しの端子へと、もう片方の手を伸ばした。
(――テオ。私の脳の全演算領域を、このハードウェアに、直接『物理接続』して)
セレナの思考のトレースが、テオのハングアップしかけていた脳内へと、痛烈な割り込み処理として叩き込まれた。
「な……何を、言っている、セレナ……!」
テオは掠れた声を絞り出した。
彼女が要求しているのは、魔力によるジャミングではない。自身の脳細胞のニューロンそのものを、アンプの真空管とダイレクトに回路として繋ぎ、声帯の代わりに『脳そのものを逆位相の振動子』として消費することで、都市全域へ響き渡る精神相殺波を放とうという、文字通りの自殺行為だった。
(このままじゃ、みんな消えちゃう。ミアちゃんが殺された世界と、何も変わらなくなっちゃう。……テオ、私の声は、もう出ない。だけど……私の魂のノイズなら、まだ、世界中の人たちへ、届けられるから)
セレナは悲しむことなく、ただテオを救うために、不確実な明日を選ぶ人間の美しさ(バグ)のままに、極上の笑みを浮かべた。
ジレットの完璧なラスト・パッチが適用されるまで、あと、数百ミリ秒。
全住民の精神が消失しかける極限の臨界点の中で、テオは、エンジニアとして最も残酷で、そして最も美しい「命の接続コード(コンパイル)」を選択しなければならない、最悪の秒読みに直面していた。




