第4章 第8話:0.01秒を繋ぐ鉄塊
連絡通路の空気は、今や完全に「死のスープ」と化していた。
ジレットの『環境パッチ』第2段階の演算負荷が極限に達したことで、この空間を支配する物理法則のインターバルは、ついに0.005秒(5ミリ秒)へと超加速していた。
一瞬前までダイヤモンド以上の硬度を誇っていたコンクリートの床が、次の5ミリ秒には泥沼のようにドロドロに融解し、さらにその5ミリ秒後には分子が激しく反発し合う「超振動の棘」へと姿を変える。呼吸をするたびに、肺胞の細胞膜の結合定数が書き換わり、ロックの喉からは鉄の味がする血が絶え間なく溢れ出ていた。
「ガハッ……! まだだ……まだ動け、俺のスクラップ……ッ!!」
ロックはコックピットの中で、狂ったように機械義手を動かし続けていた。
彼の愛機『ジャンク・ゴーレム』は、すでに「兵器」としての原型を留めていなかった。5ミリ秒毎に激変する摩擦係数と重力加速度の不均一なGにより、腕部の油圧プレスシリンダーは内側からシリンダー壁を突き破って破断。脚部の無限軌道も、高密度硬化した床の棘に噛み潰され、チェーンがズタズタに引き千切られていた。
通常、地上の洗練されたゴーレムであれば、これほどメインフレームの構造データが物理的に破壊された(クラッシュした)時点で、制御OSが強制停止を宣言し、完全な鉄クズと化しているはずだった。
しかし、この泥臭い巨躯は止まらない。なぜなら、元よりこの機体には、地上の洗練されたOSなど1行もインポート(インストール)されていないからだ。
バキィィィン!! と、ロックは火花を散らす機械義手で、コックピットから剥き出しになった制御弁の歯車を力任せに殴りつけた。
「歯車が噛み合わねえなら、肉で押し込め! 軸が折れたなら、溶接が融ける前に自重で焼き付けろッ!」
強烈な金属の破壊音。
ロックは、パーツが破断して駆動軸が狂うたびに、生身の技術力と力学的なレバー比の計算だけで、壊れる端からパーツを物理的に殴りつけ、噛み合わせ直していた。摩擦係数がゼロになれば、あえて機体の一部の装甲を爆破してその反動(推進力)で姿勢を維持し、重力が数倍になれば、自らの油圧シリンダーの結合部をわざと歪ませて「支点」の位置をズラし、限界数値を物理的に引き上げる。
完璧に管理された地上の論理から見れば、それは「計算不可能な狂気」であり、自殺行為以外の何物でもなかった。しかし、その壊れる端から強制デバッグを繰り返す泥臭い執念だけが、逃げ惑う子供や老人たちの背後で、アイアン・バイパーの群れを食い止める「0.01秒を繋ぐ鉄の壁」を維持し続けていた。
「ギ、ガガ……標的オブジェクトの、構造破壊を……確認……。なぜ、機能停止しない……!?」
新型警備ゴーレム『アイアン・バイパー』の赤い単眼が、不気味な計算エラーのノイズを散らす。ジレットの配下である彼らのアルゴリズムには、「フレームが物理的に崩壊したハードウェアが、人間の原始的な腕力だけで動き続ける」という例外処理が記述されていなかったのだ。
その頃、第1外縁門を突破し、中央管理塔へと続く白磁の大階段をハイスピードで進撃していたテオの網膜に、決定的な警告ログがポップアップした。
『警告:セクター04・後方連絡通路にて、最大級の構造ログエラーを検知』
『該当オブジェクト:ジャンク・ゴーレム(登録名:ロック)』
『ハードウェアの残存整合性:4.2%。完全崩壊まで、あと180秒』
テオの足が、ほんの一瞬、白磁の階段の上で凍りついた。
「テオ……?」
本隊を率いる指導者たちが振り返る。テオのインカムからは、ロックが自ら通信を遮断したため、ただ激しい金属の摩擦音と、ロックの血の混じった荒い呼吸音だけが、データパケットのノイズとして微かに漏れ聞こえていた。
「作戦の遅れ(摩擦)は許容範囲内だ。このまま最短ルートを維持して進軍を――」
テオは再び、感情をすり潰した冷徹な声を絞り出そうとした。
しかし。
テオの隣を走るセレナが、突如として激しく足を止め、その華奢な身体を震わせて頭を抱え込んだ。
彼女のライトブルーの瞳から、光の粒子のような涙が溢れ出し、空間の歪みの中へと激しく弾け飛ぶ。彼女の『高度な環境感知能力』は、後方セクターで繰り広げられている「ロックの絶望的な死闘」の、そのすべての力学的な悲鳴を、1ミリのバッファもなく完全にトレース(受信)してしまっていた。
(テオ……! ロックが、ロックのハードウェアが、もう引き千切れちゃう……! 8万人のみんなを護るために、自分の命の数式を、全部削りながら、ボルトを締め直してる……!)
セレナの脳内リンクから、テオの演算領域へと、ロックのジャンク・ゴーレムの「現在の構造データ」が、生々しいほどの幾何学模様となって強制展開された。
各部のパーツが悲鳴を上げ、結合定数が破断し、それでも力学のロジックだけで奇跡的に静止している、ボロボロの鉄塊の三次元モデル。
それを見た瞬間、テオの脳裏に、かつてダークセクターのゴミ溜めで、ロックが不敵に笑いながら超大型レンチを叩きつけた、あの瞬間が鮮烈にフラッシュバックした。
『どれだけ高度な魔法で強化しようが、そいつを支えてる根底にあるのは物理法則だ。骨組みを物理的にヘシ折れば、システムごと自壊する。それが俺の設計思想さ』
ロックは、ジレットの冷酷な仕様変更に対して、自分のハードウェアの意地だけで、世界の数式を物理的にヘシ折り続けているのだ。
(予定が……120秒遅れる。作戦全体の到達確率は、10.5%まで低下する……)
テオの脳内で、冷徹な効率主義の計算式が、激しい警告音を上げて明滅していた。全員を救うバッファはない。ロックの離脱は「非効率なバグ」だ。切り捨てて進むのが、ミアを殺した世界を殺すための、最短最適の解のはずだった。
しかし、テオの手の中にあるスパナが、かつてないほどに重く、そして熱く脈動していた。
効率のために部品を間引くプログラムは、最後には人間の意志によって必ずクラッシュする――カインの言葉が、テオの胸の奥の「凍りついたメモリ」を、内側から激しく爆破した。
「……クソギークが。計算式を、書き換える」
テオはバチチッ、と自分のゴーグルのリミッターを手動で引きちぎり、緑色のワイヤーフレーム視界の全出力を、後方のセクター04へと強制リトレース(反転)させた。
「テオ!? どこへ行くんだ! 門の向こうの統制室はすぐそこだぞ!?」
驚愕する反逆軍の指導者たちを振り返ることもなく、テオは反転し、白磁の階段を猛烈なスピードで駆け下り始めた。
「カイン、本隊の指揮を一時的に預ける! ルートの静的維持だけを続けろ!」
テオは走りながら、隣を同じ速度で並走するセレナの手を、今度は自分から強く握りしめた。
「セレナ、お前の眼を俺に貸せ。10ミリ秒先の物理定数を、1文字の狂いもなく俺の脳内へコンパイルしろ。……大馬鹿野郎のハードウェアが、完全にスクラップになる前に、俺たちのデバッグ(ハック)をねじ込む!」
声を失った少女は、その発光する瞳に、かつてないほどに激しく、そして美しい信頼のバグを宿して、力強く首を縦に振った。
効率という冷徹な天秤を自らへし折り、不確実な人間の意志を選ぶために、テオとセレナは、崩壊していく変質世界の闇の底へと、超高速で逆流を開始するのだった。




