第4章 第5話:狂気のアップデート(市民の燃料化)
魔導都市アルカナ・ハイヴ、最上層――中央管理塔、統制室。
地下の混沌や物理法則の瓦解とは打って変わり、そこは冷徹なまでの「白」と、空間を無音で流れる数百万の演算コードの光だけが支配する極限の静謐空間だった。
しかし、その部屋の中央に浮かぶ無数のホログラムディスプレイには、異常なまでの赤色(警告フラグ)が明滅していた。
「――報告。地下連絡通路における『環境パッチ』の演算負荷、予測値を14.2%超過。対象テオ・アルカディアおよび未知の高度環境感知オブジェクトの同期により、パッチの適用エラーが断続的に発生中。メインジェネレーターの魔力残量、危険域まであと30%」
ホログラムの警告音を淡々と読み上げる下級監査官の顔は、極度の恐怖で青ざめていた。
ジレットが強行した「世界の物理法則を0.01秒毎に書き換える」という環境パッチ。それは、都市の全バグを根絶する絶対のプログラムであったが、同時に、世界の物理定数をリアルタイムで改変し続けるために、毎秒ごとに地上の国家予算に匹敵する莫大な魔力を消費し続ける、最悪の「超巨大なメモリ食い(リソース・ドレイン)」でもあったのだ。
「……計算のバッファが足りないな」
ホログラムの光の中に佇む男――最高監査役ジレットは、壊れた眼鏡を新しいものへと静かに架け替え、一切の感情を排した声で呟いた。
彼の衣服には、地下でのロジックボムの暴発による煤が微かに残っていたが、そのガラス細工のような瞳の奥に宿る「完璧への狂気」は、むしろ地下へ攻め込む前よりも冷酷に研ぎ澄まされていた。
「ジ、ジレット様……すでに地下の『バッファ・ノード』からの選別部隊が、第1外縁門の手前まで進出してきています! パッチの演算速度がこれ以上低下すれば、物理定数の書き換えにタイムラグ(遊び)が生じ、奴らのハックを許してしまいます! しかし、これ以上の魔力供給は、地上の都市インフラを完全に停止させなければ――」
「インフラの停止? 否、それでは足りない」
ジレットの細い指先が、空中に浮かぶライトブルーのキーボードの上を、ミリ秒単位の正確さで叩き始めた。画面に展開されたのは、地上の絢爛豪華なディストピアに暮らす、数百万人の「登録市民」たちの個人ステータスログだった。
「システムを維持するために、より高効率なリソースの回収を行う。地上の全登録市民の『精神魔力』および『生体電気』の、システムへの強制割り当て(シェアリング)を実行する」
「な……ッ!? 市民の精神を直接、環境パッチの演算燃料にするというのですか!?」
下級監査官が悲鳴のような声を上げた。
「そんなことをすれば、市民たちの脳は高負荷の演算処理に耐えきれず、精神崩壊を起こすか、虚ろな生体歯車になってしまいます! 彼らはランク維持のために、毎日真面目にスコアを積み上げてきた一等市民たちですよ!?」
「彼らのスコアは、システムが保障した『仕様』の中で与えられた仮初めの数値に過ぎない」
ジレットのタイピングは全くブレない。彼の眼鏡の奥に、真っ赤な強制徴収コード(ALLOCATE_SOUL)が映り込んでいく。
「都市の『調和(完璧)』という大前提が脅かされている今、個々の市民の精神の独立性を維持することは非効率だ。彼らもまた、システムを構成するパーツ(コンポーネント)の一つ。システムの危機においては、その命そのものをバッファとして差し出すのが、ロジカルな義務だ。――アップデート、第2段階。作戦名『全リソースの強制最適化』」
ジレットの指が、決定的な実行キー(エンター)を静かに押し下げた。
その瞬間、地上の絢爛豪華な大通り、白磁の超高層ビル群が立ち並ぶ「完璧なディストピア」の全域で、最悪の『仕様変更』が執行された。
チカチカチカ……と、街頭のホログラム広告や、市民たちの網膜に常時表示されていたステータス画面が一斉に漆黒の暗転を起こし、次の瞬間、血のような赤色で『システムへの強制同期中』という文字列が浮かび上がった。
「あ……あ、れ……? 頭が、痛……」
仕立ての良い衣服を着て、カフェで優雅にスコアを競い合っていた高ランクの一等市民の男が、突如として頭を抱えてテーブルに突っ伏した。彼の耳の奥から、キィィィィンという鼓膜を裂くような高周波の電子ノイズが漏れ出す。
彼の脳の演算領域へ、中央管理塔から「0.01秒毎に世界の物理法則を計算しろ」という、限界を超えた莫大な並列処理コマンドが強制的に割り込まされたのだ。
「神の声が……私の、頭の、中を……」
高級住宅街を行き交う人々、オフィスで働いていた技術者たち、地上の富の象徴であった市民たちが、次々と虚ろな目になり、その場に崩れ落ちていく。
彼らの脳は、ジレットの『環境パッチ』を維持するための「即席の分散型サーバー」として消費されていた。精神の輝き(魔力)を極限まで吸い上げられた市民たちは、個人の意志を完全に剥奪され、システムの命令のままにピクピクと手足を動かすだけの、文字通りの『肉体の歯車』へと変貌していった。
地上すらも、完璧な調和のために、すべてがシステムへ燃料として吸い上げられていく狂気の光景。
その頃、地下の冷たい連絡通路を進むテオのゴーグルにも、その「地上の異変」を示す、異常なまでのデータの流入波形が捉えられていた。
『警告:メインサーバーの演算スレッドが急激に拡張中』
『現在の並列同期ノード数:120万突破……なおも上昇中』
「……敵の演算速度が、さらに跳ね上がった」
テオは走りながら、背後のセレナへ脳内リンクで確認を急いだ。
セレナのライトブルーの瞳から転送されてくる世界の仕様変更ログ。それが、ジレットが地上の市民を燃料化したことにより、さらに先手を打つ速度を縮めてきている。今や0.01秒(10ミリ秒)だった書き換え速度は、8ミリ秒、7ミリ秒へと加速しつつあった。
「テオ! 第1外縁門の防壁が見えてきたぞ! だが、敵のハウンド部隊の動きが、さっきよりさらに一糸乱れなくなっていやがる!」
前方を走るロックが、ジャンク・ゴーレムのハッチから大声を張り上げた。
門の前に展開したジレットの警備部隊。彼らは、地上の同胞たちが脳を焼き切られながら供給している無限の演算力の加護を受け、0.05ミリ秒のタイムラグすらなく、変質世界のルールを完璧に先読みして突き進んできていた。
「全員、私のステップ(予測データ)から1ミリ秒も遅れるな!」
テオは感情を完全にすり潰し、スパナを握り直した。
地上の市民を燃料にするジレットと、地下の住人を盾にするテオ。
二人のエンジニアの、すべてをリソースとして消費し尽くす「最悪の効率主義」の激突が、第1外縁門の前でいよいよ火花を散らそうとしていた。




