第4章 第4話:亀裂のコンパイル
「――進撃フォーマット、コンパイル終了。これより、第一次選別部隊の動的展開を開始する」
バッファ・ノードの重々しい防空ハッチが、ギギギ……と錆びついた悲鳴を上げながら左右に割れた。
通路に整列したのは、テオが提示した冷酷なスコア基準――移動速度『秒速4メートル以上』、魔力適応値『0.65以上』という数値をクリアした、身体健全な武装兵と若き技術者たち、約4万人。無駄なバッファ(荷物)を一切持たず、洗練された鉄の幾何学模様のように配列されたその軍勢は、まさにテオが構築した「最も効率的な駆除プログラム」そのものだった。
しかし、その隊列のさらに後方、薄暗い貯水槽の影には、パッキングの段階で「計算式から除外された」8万人の老人、子供、下層市民たちが、身を寄せ合って蹲っていた。
世界の物理法則が0.01秒毎に変質する『環境パッチ』の余波は、すでに彼らの肉体を確実に侵食している。ある老人の指先からは、結合定数の乱れによって絶え間なく青白い電子ノイズの火花が散り、ある子供の足元は、数ミリ秒だけ発生する部分的な重力異常によって、まるで泥沼に沈むかのように不自然に床へめり込んでいた。
彼らは、進むことも、逃げることもできず、ただシステムに消去される瞬間を待つだけの「廃棄データ」としてそこに残されていた。
「……予定通りの初期パッキングだ。無駄な摩擦(遅れ)は発生していない」
テオは額のゴーグルを叩き、進撃部隊の全ベクトルの流れをスキャンしながら、冷淡に言い放った。彼の隣には、カインが古びたノートを胸に抱え、苦渋の光を宿した瞳で後方の老いた住人たちを見つめている。
「テオ……お前、本当にこのまま行くつもりか」
カインの掠れた声が、駆動ファンの重低音に混ざる。
「お前が今やっていることは、あのジレットがやろうとしている『総間引き』と何ら変わりはないぞ。初期コードの矛盾を突くために、お前自身が都市の最悪の仕様に同調してどうする」
「言ったはずだ、カイン。ジレットの動的防御をハッキングするためには、感情というバグを完全に排した、最短最適の論理で肉薄するしかない」
テオは一歩を踏み出し、冷たい白磁の連絡通路へと視線を固定した。
「俺は、ミアを殺したあの仕様を肯定したわけじゃない。あの仕様に勝つために、今だけその仕様の『開発者権限』をハックしているんだ。到達確率42.1%。これが、この世界の絶望的な数式に対する、エンジニアとしての俺の唯一の『解』だ」
その時、隊列の最左翼から、ズシン、ズシン、と不格好極まりない地鳴りが響いてきた。
ロックだった。
彼はツギハギの重装甲を纏った愛機『ジャンク・ゴーレム』のコックピットに乗り込み、レバーを乱暴に引き絞っていた。ゴーレムの無限軌道は、狂い続ける摩擦係数のせいでガチガチと火花を散らし、油圧シリンダーからは黒い作動油が悲鳴のように噴き出している。
だが、ロックの顔には、テオに対する明確な拒絶と敵意のノイズが張り付いたままだった。
彼はテオの隣を通り過ぎる際、コックピットのハッチを開け、氷のように冷めきったテオの横顔を睨みつけた。
「てめえの指図で動くのは、これが最後だ、新入り」
ロックの声は、怒りを通り越して、低く冷徹に響いた。
「俺はてめえの『効率』ってクソみたいな数式に同意したわけじゃねえ。このジャンク・ゴーレムのハードウェアが、ジレットの薄汚いパッチをブチ破るために役立つから、前線に並んでやってるだけだ。勘違いするなよ、テオ。もし途中で、てめえがその冷てえハサミで誰かを切り捨てようとしたら、俺はその瞬間に部隊を離脱する」
「勝手にしろ、ロック。お前のその『ハードの意地』とやらが、作戦のタイムラグ(誤差)を10ミリ秒でも発生させない限りはな」
テオは視線すら合わさず、冷たく突き放した。
二人の天才の間に生じた、決定的な亀裂。
かつて、ダークセクターの路地裏で「物理ハック」という最高のコンパイルを成功させた二人のエンジニアの思想は、いまや「効率と人命」という、決して交わることのない二進数の平行線へと完全に分裂していた。
その二人のやり取りを、少し離れた中継コンソールの前で、セレナがじっと見つめていた。
彼女のライトブルーの瞳には、言葉を失った少女の、激しい感情のプログラムが明滅していた。彼女の『高度な環境感知能力』は、テオの脳内に張り詰める「絶望的なまでの焦燥感」と、ロックの胸の奥で燃え盛る「ハードウェアの怒り」の、その両方のエネルギー波形を完璧に受信してしまっていたのだ。
彼女は自分の喉にそっと手を当て、声の出ない唇を動かした。
(――二人のロジックが、壊れちゃう……。私が、繋がなきゃ……)
彼女は手元のアコースティック・センサーの残骸を引き寄せ、自身の脳内リンクの周波数を、テオのゴーグルへと強制的に同調させた。
「――作戦行動、第1フェーズ、実行。進撃を開始する」
テオの冷徹な号令と共に、4万人の選別部隊が一斉に連絡通路へと足を踏み入れた。
一歩、外へ出た瞬間、そこはまさに「論理の狂った変質世界」の最前線だった。
ガギィィィン! と、先頭を進む武装兵の防護シールドが、突如として空間から発生した「超高圧の重力パッチ」によって、一瞬にしてペシャンコに圧殺された。
「う、わあああ!? なんだこの重力は!?」
「慌てるな! 3ミリ秒後に重力定数が『ゼロ』に切り替わる! 姿勢を維持しろ!」
テオはゴーグルの倍率を最大に上げ、0.01秒毎に書き換わる世界の摩擦、重力、魔力伝導率の歪みを必死に脳内で処理しようとする。しかし、ジレットの『環境パッチ』の演算速度は、階層を進むごとにさらにその凶悪さを増していた。リアルタイムで書き換わるルール。計算した瞬間に過去となる数式。テオの額から、冷たい汗が止めどなく流れ落ちる。
(クソッ……! 予測が、追いつかない……! 10ミリ秒後の流体摩擦のシード値が、読めない……!)
テオの演算領域がオーバーフローを起こしかけた、その瞬間。
脳内に、セレナのあの澄み切った、しかし力強い思考のトレースがダイレクトに割り込んできた。
(テオ、焦らないで。正面の重力は、あと4ミリ秒で『1.0』へ収束する。その瞬間に、前衛のベクトルを右方へ15度偏向させて。……私が、世界を全部読んで、あなたに送るから!)
「――リンク・コンパイル!」
テオの視界が、セレナのトレースデータによって一瞬にして鮮烈な緑色の最適ルートへと書き換わった。
「前衛、右方15度へステップ! 次のパッチ適用まで、あと2ミリ秒!」
テオの執行命令のままに、選別部隊は機械的な正確さで変質世界のトラップを回避していく。セレナという最高の環境センサーと、テオという冷徹な実行エグゼキューターの同期だけが、この地獄のような連絡通路を前進するための唯一の回路だった。
しかし、突破するたびに、テオの網膜には反逆軍の兵士たちが環境の歪みに耐えきれず、次々と数式のエラーを起こして倒れていく光景が映し出されていた。
テオは、その倒れた者たちを振り返ることもなく、ただ最短ルートの数値を維持するためだけに、軍をさらに前へと進め続ける。
「予定時間通りの進捗だ。このまま管理塔の第1外縁門まで、最短最適で突き抜ける」
テオの口から漏れる冷酷な言葉は、チームの亀裂をさらに深く、修復不可能なレベルへとコンパイル(固定化)していく。感情というバグを排し、効率の悪魔へと変貌していくテオの進撃戦は、世界の命運をかけた、最も危ういハッキング・アクションの幕開けを告げていた。




