第4章 第3話:統率の天秤(効率と人命)
バッファ・ノードの作戦指令室は、排熱の熱気と張り詰めた沈黙によって、息が詰まるほどの重圧に満ちていた。
中央の大型ジャンクコンソールには、セレナがその驚異的な「環境感知能力」によって世界から直接受信し、カインのシステムによって逆コンパイルされた、地上から地下最深部へ至るまでの『環境パッチ適用進捗マップ』が展開されていた。
画面を覆うライトレッドの領域――物理法則が0.01秒毎に変質する狂気の空間は、時間経過と共にその面積を確実に拡大し、ダークセクターの心臓部へ向かってジリジリと這い寄ってきている。
「猶予は、もうねえな」
ロックがコンソールの縁を乱暴に叩き、渋い顔で画面を睨みつけた。
「ジレットの野郎、高熱パッチの充填を並行しながら、世界の仕様変更を第2段階へ移行させやがった。このままじゃ、あと二十四時間もしねえうちに、このバッファ・ノードも含めて地下全体の全住民が『肉のエラー(細胞崩壊)』を起こして更地にされるぞ。その前に、全戦力を集結させて管理塔へ攻め込むしか道はねえ」
彼の言葉に応じるように、指令室の周囲には、ダークセクターの各区画から集まった地下レジスタンスの指導者や、元技術者たちの代表が血相を変えて集まっていた。彼らの誰もが、自分の身体が数ミリ秒毎に変質する重力や摩擦に削られ、電子ノイズを微かに散らしながら、絶望の混じった目をテオへと向けている。
「だが、どうやって進軍する!?」
元下級技術者の男が、震える声を荒らげた。
「ここから管理塔の基部へ至る連絡通路は、すでにジレットの『環境パッチ』によって、物理定数が完全にデタラメに書き換えられた最危険エリアだ! 一歩進むたびに重力が倍になり、次の瞬間には摩擦がゼロになるような地獄だぞ! 訓練も受けていない下層市民や、足の遅い老人たちを連れて移動すれば、管理塔にたどり着く前に全滅する!」
「そうだ! まずは住人たちをさらに深い廃棄区画のシェルターへ避難させるのが先決だ。進軍はその後に――」
指導者たちが口々に不確かな生存へのバッファ(時間)を求め、議論は紛糾しかける。
その混沌とした言葉のバグを、テオの冷徹な一言が完全に凍りつかせた。
「避難させる時間など、最初から存在しない」
テオはゴーグルを額へと上げ、感情の一切を排した、冷たい硝子のような瞳で一同を見渡した。
彼の視線は、かつて中央管理塔のデータコアで目撃した、妹ミアの死を告げるログファイル――『仕様通り』というあの最悪の文字列を処理し終えた、純粋な論理の塊そのものだった。
「カイン、現在のアコースティック・センサーから逆算した、管理塔最短ルートの突破確率のシミュレーション(演算)データを出してくれ」
「……ああ、これだ」
カインが沈痛な面持ちでコンソールを叩く。画面に表示されたのは、無情なパーセンテージだった。
『全住民(約12万人)を救出しながら進軍した場合の管理塔到達確率:0.003%』
『全戦力が途中でスタックし、環境パッチの第3段階の直撃を受けて完全デリートされるまでの予測時間:3.2時間』
「見ての通りだ」
テオはスパナをコンソールのマップ上の一点へ突き立てた。
「全員を救おうとすれば、全員が死ぬ。これがジレットが構築した、この世界の現在の『計算式(仕様)』だ。この式を覆し、ジレットのいる統制室へミリ秒単位の狂いもなく最短最適ルートで肉薄するためには、進軍するリソース(人員)を極限まで絞り込む必要がある」
テオの言葉が進むにつれ、指令室の空気は一変していった。レジスタンスの面々が、息を呑んでテオの次の言葉を待つ。
「これより、進撃部隊の『コンパイル(選別)』を行う」
テオは冷酷に言い放った。
「対象は、0.01秒の環境変化に自力で追従できる、身体健全な技術者および武装兵のみ。ランク基準を暫定的に設ける。移動速度、魔力適応値、過去の職務スコア。これらが一定値に満たない老人、子供、下層市民――計8万人については、進軍の足枷となるため、初期パッキング(編成)から完全に除外する」
「な……ッ!?」
指導者の一人がガタタッ、と椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「除外するだと!? 見捨てるというのか! 彼らはジレットのパッチの直撃を受けて消滅するのを、ただ待てというのか!?」
「見捨てるのではない。計算式から除外するんだ」
テオのトーンは全くブレなかった。
「彼らを足枷として引きずれば、到達確率はゼロになり、ジレットの狂気を止める開発者権限の奪還そのものが不可能になる。だが、能力のある者だけで軍を再編成し、彼らを『肉の盾』として前線に配置しながら最短ルートを切り開けば、管理塔への到達確率は42.1%まで跳ね上がる。8万人のノイズ(命)を切り捨て、残りの4万人と世界の再起動の可能性を担保する。これが、最も効率的で、最もロジカルな生存戦略だ」
それは、かつて『神の声』が、ランク不足を理由に妹ミアへの医療リソース割り当てを拒否した、あの冷酷極まりない効率主義のアルゴリズムそのものだった。
復讐すべきディストピアを打ち破るために、テオ自身が、そのディストピアの神であるジレットと全く同じ冷血な「仕様」へと成り果てようとしていた。
部屋の隅で、端末の画面に文字を打ち込んでいたセレナが、ハッと目を見開いてテオを見つめた。彼女のライトブルーの瞳に、深い悲しみと動揺のノイズが走る。彼女は声を失った唇を微かに震わせ、テオの袖を掴もうとしたが、テオはその手を静かに、しかし明確に振り払った。
「テオ・アルカディア……!!」
地鳴りのような低い怒号が、指令室の壁を震わせた。
一歩、前に踏み出したのはロックだった。彼の機械義手が、過負荷による火花を散らしながら、凄まじい力力学的な圧力でテオの胸ぐらを掴み上げ、作業台へと叩きつけた。
ガシャアァァン!! と、ジャンクの部品が激しく周囲へ飛び散る。
「てめえ、自分が何を言ってるか分かってんのか!?」
ロックの顔は、怒りで怒髪天を突いていた。義手の金属の指先が、テオの衣服を肉ごと引き裂かんばかりに締め上げる。
「選別だぁ? 効率だぁ? ふざけんじゃねえぞ新入り! ランクで人間を切り捨てて燃料にする地上のお役人どもが反吐が出るほど嫌いだから、俺たちはこの泥塗れの地下世界でハード(鉄)を叩いて生きてんだ! システムをぶっ壊すために、システムと同じ冷血漢になってどうする! 8万人を見捨てる作戦なんてなぁ、ただの『仕様通りの虐殺』だろ!」
胸ぐらを掴まれ、呼吸が制限される中でも、テオの瞳には一切の動揺がなかった。彼は血の気の引いた冷たい目で、目の前の巨漢を見つめ返した。
「感情でバッファを埋めるな、ロック。お前の言う『ハードの意地』とやらで、12万人全員が等しく電子ノイズになって消滅すれば、それはただの全滅だ。お前たちの命を救うために、俺は最も確率の高いロジックを提示している。ジレットを殺すためには、ジレット以上の冷徹さで数式を執行しなければならない。それがシステムをハックするということだ」
「論理がなんだ! 数式がなんだ!」
ロックがさらに声を荒らげ、拳を振り上げた。
「俺はエンジニアだ! 壊れかけたハードウェア(命)があればなぁ、不格好だろうがジャンクだろうが、全部ツギハギして動くように直すのが俺のロジックだ! 綺麗に動く数式のために部品を間引くなんてなぁ、そんなのは開発者の怠慢だ!」
「……そこまでだ、二人とも」
それまで沈黙を守っていたカインが、古びたノートを重々しく机に叩きつけ、二人の間に割って入った。
老アーキテクトの顔には、世界の初期設計に関わってしまった者特有の、深い悔恨のシワが刻まれていた。
「テオの言うことは、純粋なシステム論理としては100%正しい。そして、ロックの言うこともまた、人間という不確実なハードウェアを維持するためには絶対に必要なバッファだ」
カインはテオの胸ぐらを掴むロックの手をそっと引き剥がし、テオを見つめた。
「だがな、テオ。効率だけで組み立てられたプログラムは、どれほど美しくとも、最後には『想定外の入力(人間の意志)』によって必ずクラッシュするぞ。お前が切り捨てようとしている8万人のノイズ……それが、ジレットをバグらせる最大の特異点になるかもしれないのだ」
テオは乱れた衣服を無言で整え、スパナをポケットへと仕舞い直した。
「……作戦の基本パッキングは変えない。一時間後、選別された一次部隊から順次、管理塔の連絡通路へ向けて進軍を開始する。感情というエラーを排し切れない者は、ここでシステムごと消去されるといい」
テオは背を向け、一人で指令室を出て行った。
チームに生じた、決定的かつ致命的な亀裂。
世界の物理法則が崩壊していくタイムリミットの中、反逆軍は「効率と人命」という、答えのない二進数の天秤を抱えたまま、最悪の進撃戦へとその歩みを進めることになるのだった。




