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0.01度の特異点 ―計算不能な未来へ―  作者: 最後に残った形


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第3章 第10話:アップデートの足音


バッファ・ノードの隠れ家に、重苦しい静寂が満ちていた。


テオは、ジャンクベッドに横たわるセレナの傍らに静かに座っていた。彼女の首元に張り付いていた魔力疲労のエラーコードは消失したものの、その喉の機能は完全に沈黙している。もう、あの美しい歌声がこの暗い地下世界に響くことはない。


テオは、強奪した結晶ストレージ――世界の初期ソースコードを複雑な心境で見つめた。ミアの死の真相という絶望的な「仕様」を暴き、ジレットをハングアップさせた代償は、あまりにも大きかった。


セレナが、ゆっくりと目を開けた。

彼女は自分の喉にそっと手を触れ、やはり何の音も出ないことを確認すると、悲しむのではなく、どこか晴れやかな笑みをテオに向けた。そして、彼女の瞳が微かにライトブルーに発光する。


「……っ」

テオは、自分のゴーグルが奇妙な同期リンクを起こしたことに気づき、息を呑んだ。


セレナは声を失った。しかし、彼女の脳細胞は、限界を超えた逆位相ジャミングの残響によって完全に書き換わっていた。彼女の耳と網膜は今や、声を出さずとも「周囲の空間に存在するすべての魔力ベクトル、空気の振動、構造物の応力」を、完璧な高解像度データとして脳内へ直接描写する、恐るべき『高度な環境感知能力』へと進化を遂げていたのだ。


彼女はテオのスパナを指さし、その先端から微かに漏れる魔力の歪みの数値を、手元のジャンク端末にサラサラと文字で打ち込んで見せた。


『0.015度、右に狂ってる。今のテオなら、もっと精密にハックできるよ』


「セレナ……お前……」

テオの口元が、驚愕のあとに静かな闘志となって歪んだ。彼女は武器を失ったのではない。テオのハック能力を時空間の制約から解放する、最強の「環境センサー」へと進化したのだ。


「天才ども! 湿っぽくなってる暇はねえぞ!」

コンソールに向き合っていたロックが、血相を変えて叫んだ。


カインが強奪したソースコードの解析画面を見つめたまま、シワだらけの顔を青ざめさせ、ガタガタと震えている。


「カイン、何が分かった」

テオが歩み寄る。


「ジレットの野郎……完全に一線を越えやがった」

カインはかすれた声で、画面に展開された不気味な赤い起動シーケンスを指さした。

「奴は禁書図書館の崩壊で、現場のデバッグによる抵抗を完全に『予測不能な不確実性』として恐れた。だから、次の最適化として、都市全域の物理法則そのものを0.01秒毎に強制書き換えする『環境パッチ(ディザスタ・アップデート)』の強行を決定したんだ」


「物理法則を、書き換える……?」

ロックが呆然と呟く。


「そうだ」

カインの目が狂気的な恐怖に染まる。

「0.01秒毎に、世界の摩擦係数や魔力の伝導率をシステム側が先手で書き換える。そうなれば、世界から『0.01度の歪み』という概念そのものが物理的に消滅する。テオのハックも、ロックの物理力学も、すべては『存在しない数式』として無効化される。だが、そんな急激な環境アップデートに、生身の人間が耐えられるはずがない。ダークセクターの数十万の住人は、細胞の結合ロジックを維持できず、全員が文字通りの『肉のノイズ』として消滅デリートするぞ」


効率のために、世界のルールそのものをバグごと狂わせる。システムの番人であるジレットが選択したのは、調和ではなく、世界そのものを硝子細工のまま完全に硬化させる狂気のプログラムだった。


ウゥゥゥゥ――ッ!!


廃棄区画の天井を貫き、都市全域に響き渡る、地を這うような重低音のシステム起動音が鳴り響いた。

網膜の隅の警告色が、見たこともない漆黒の「強制アップデート画面」へと切り替わり、カウントダウンを刻み始める。


『世界環境パッチ:適用まで、あと24時間』


テオはゴーグルを限界まで強く締め直した。

声を失い、しかし世界のすべてを見通すセンサーとなったセレナが、テオの隣で静かに立ち上がる。ロックがレンチを握り直し、カインが初期設計のノートを掲げた。


「ジレット……お前のその歪んだ仕様ルール、俺たちの泥臭いエンジニアリングで、根底から完全に書き換えてやる」


物理法則すらも敵に回す、計算不能な未来へ向けた最後の戦いの足音が、ディストピアの底に鳴り響いていた。


(第3巻:アコースティック・ノイズ ・完)

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