第3章 第1話:深淵のジャミング
ダークセクターの喧騒すら届かないその場所は、文字通りの「死んだデータ(ブラックボックス)」だった。
旧地下鉄のトンネル跡を利用して作られた廃棄区画。
地上の『神の声(OS)』が、あまりの広大さと構造の複雑さに追跡コストが見合わないと判断し、データの同期を完全に諦めた暗黒の境界線。
コツ、コツ、とテオとロックの足音だけが、湿ったコンクリートの壁に反射して不気味に響く。
「……おい新入り、本当にこの先にレジスタンスの隠れ家なんてあるのかよ? センサーの狂い具合がさっきから尋常じゃねえぞ」
ロックが機械義手の指先を神経質に鳴らしながら、背後を振り返った。
テオは無言で、額のノイズフィルタリングゴーグルを位置づけた。
レンズの奥に広がるワイヤーフレームの世界は、今や完全にバグ(砂嵐)で埋め尽くされようとしていた。地上の洗練された電波の代わりに、ここには大昔の壊れた魔導端末や、放置された高出力のインフラ配管から漏れ出た「空間ノイズ(迷走電流)」が濃密に淀んでいる。システムが管理を放棄した空間は、それ自体が巨大なエラーの濁流だった。
(視界の解像度が落ちている。これじゃ、いざという時に0.01度のベクトルの隙間を見つけられない……)
テオが焦りを含んだ思考を巡らせた、その瞬間だった。
「――っ」
テオは突如として、その場に釘付けになった。
「おい、どうしたテオ?」
ロックがレンチを構えて警戒するが、テオはそれを手で制した。
聞こえてきたのだ。
暗黒のトンネルの奥深く、ひときわ濃い闇の向こうから、信じられないほどに澄んだ「歌声」が。
それは魔力を一切乗せていない、喉の振動だけで紡がれるアコースティックな旋律だった。歌詞はない。ただ、どこか哀愁を帯びたハミングのようなメロディが、湿った空気を通ってテオたちの鼓膜へと染み込んでくる。
(なんだ、この波形は……?)
テオがゴーグルの倍率を上げ、歌声が響く方向をスキャンした瞬間、奇妙な現象が起きた。
それまでテオのワイヤーフレーム視界を埋め尽くしていた、あの激しい空間ノイズの砂嵐が――その歌声の波形と重なった部分から、まるで魔法のようにスッと消え去っていくのだ。
「ロック、お前の義手のセンサーはどうなっている?」
「あ、ああん? 待てよ……嘘だろ、さっきまで狂いっぱなしだったジャイロスコープが、急にピタッと水平を維持し始めやがった。この音、ただの歌じゃねえ。周囲のノイズの周波数を、完璧な『逆位相』で打ち消してやがる……!」
物理ハードの塊であるロックの義手が正常化したということは、その歌声が、このブラックボックスに淀む迷走電流のベクトルをロジカルに相殺している何よりの証拠だった。
歌声に導かれるように、二人はゆっくりと闇の奥へと進む。
鉄錆びた古い列車の車両が転がる開けた空間に出ると、その中央に、小さな魔導ランタンを抱えて座る一人の少女の姿があった。
薄汚れた灰色の衣服を纏い、華奢な身体を縮めるようにして歌う少女――セレナ。
彼女が小さく息を吸い込み、次の旋律を紡ごうと喉を震わせたとき、彼女は激しく咳き込んだ。
「ごほっ、ごほっ……! ……ぁ、……」
ランタンの淡い光に照らされたセレナの首元を、テオのゴーグルが捉える。
彼女の声帯の周囲には、過酷な環境による極度の魔力疲労と、限界以上のジャミングを繰り返したことによる、微細な組織の「エラーコード(炎症)」が幾重にも張り付いていた。彼女はもう、その美しい声を失いかけている。
セレナはテオたちの足音に気づくと、怯えたような瞳を向け、声にならない掠れた息を漏らした。
「……ぅ……、……」
「警戒しないでくれ。俺たちはシステムの追手じゃない」
テオはゆっくりとゴーグルを上げ、自身の泥塗れのスパナを見せた。
「お前の歌に助けられた。お前が、この世界のノイズを消してくれたんだな」
少女はテオの濁りのない瞳と、その言葉をじっと咀嚼するように見つめ、小さく、本当に小さく頷いた。
完璧な数値に支配された世界の底で、声を失いかけながらもシステムに抗い続ける、最初の「ノイズ」との出会いだった。




