第98話 勝利のあとに残るもの
俺たちは、合図が終わると同時に走り出した。
目指すのは、武器を隠してある小道だ。
森の中を駆け抜け、小道へ滑り込むと、全員が無言で作業に入った。
土を払い、落ち葉をどけ、埋めていた装備を引き上げる。
それぞれが、自分の得意な獲物を手に取る。
装備を整え終えた瞬間、俺は思わずヴァルケンの方角を見た。
――早い。
想定していたよりも、はるかに早く、すでに、こちらの本隊が動いている。
煙の向こう、混乱の只中へ。
セクンダ、テルティア、そして王都の兵士たちが、ヴァルケンへ雪崩れ込んでいくのが見えた。
「おいおい……」
ダリルが、思わず声を上げる。
「さすがに早すぎねぇか!?本隊、もう突っ込んでるぞ!予定より全然早いだろ!」
俺も同感だった。
予定では、もう少し陽動を続けるはずだった。
レナードは、目を細めてヴァルケンを睨む。
「……確かに、早すぎるな」
一瞬だけ、考え込むような間。
「ヴィルクめ……」
低く呟き、続ける。
「本隊を、予定よりもかなり近い位置まで前進させていたな」
陽動が成功した瞬間を、逃さなかったということか。
混乱が最大になる、その一瞬にすべてを賭けた。
「だが……」
そう言いかけたレナードの言葉を、オズワルが遮る。短く、強い声だった。
「そんなことは、どうでもいい!本隊が動いたなら、俺たちも行くだけだ。ここで止まる理由はねぇ!」
そう言って、武器を握り直す。その背中には、迷いがなかった。
レナードは一瞬だけオズワルを見てから、静かに頷く。
「……その通りだ」
そして、全員に向けて言い切った。
「作戦は次の段階に入った!俺たちは側面だ。逃げる奴を、一人も通すな」
全員が頷く。
もう、引き返すことはない。ヴァルケンの戦いは、完全に始まっている。
俺たちは再び走り出した。
全員が、あらかじめ定められていた地点へと急ぐ途中だった。
視界の先、ヴァルケンを見渡せる小高い丘へ――
弓兵たちが次々と移動しているのが見える。
陣形を取り、すでに射撃準備に入っている者もいる。
上を取った。
それだけで、戦場の流れは大きく変わる。
それを見た瞬間、レナードが即座に判断を下した。
「ロラン!」
走りながら、鋭く声を飛ばす。
「お前は、あの弓兵たちと合流しろ!遠距離射撃が得意なお前なら、そっちの方が活躍できる」
一瞬の迷いもない指示だった。
ロランは足を止めず、横目で丘を確認する。
「了解した!……そっちは、大丈夫か!?」
「大丈夫かどうかは分からん!」
だが、次の言葉は迷いがなかった。
「しかし今は、一刻も早くヴァルケンを占領する方が重要だ!判断を誤れば、ここ一帯がまた戦場になる」
ロランは一瞬だけ歯を食いしばり――そして、強く頷いた。
「……わかった!後で会おう!」
そう言い残し、進路を変える。
軽やかな動きで丘へ向かい、弓兵たちの中へと溶け込んでいった。
すぐにでも、上空から死角を撃ち抜く役割を担うだろう。
***
俺たちは、予定されていた地点へと辿り着いた。
すでに他の部隊も到着しており、それぞれが弓や得意な武器を手に、逃走兵を迎え撃つ準備を整えていた。
ここに来るまでに、十人以上の敵兵を始末した。
だが、足を止めることは一度もなかった。
流れは、こちらにある。それを全員が、肌で理解している。
少し離れた場所から見るヴァルケンはすでに、戦場だった。
煙が少しずつ晴れてきていて、その隙間から、剣が振るわれ、兵が倒れ、怒号と悲鳴が入り混じる様子が見える。
混乱の中で起きている戦闘。
それでも――どう考えても、圧倒的だった。
数も、配置も、主導権も。すべてが、こちらに傾いている。
「お前ら、絶対に気を抜くな!」
レナードの声が、鋭く飛ぶ。
「勝利はほぼ間違いない。だが何が起きるかは分からん。戦闘終了と判断されるまでは、敵兵が来る可能性があると疑え!」
「了解!」
小隊全員が、迷いなく返事をする。
その直後だった。
ヴァルケンの外縁から、数人の兵士がこちらへ向かって走ってくる。
武器は何も持っておらず、鎧は乱れ、動きは必死で、視線は何度も背後を振り返っている。
――逃げてきた。
一瞬、胸の奥が軋んだ。
(……すまない)
だが、今は――逃がすわけにはいかない。
エドリックは、息を整え、弓を引き絞る。
照準の先にいるのは、もはや戦意を失った兵士たちだ。
矢を放つ。
逃げてきた兵士たちの顔には、はっきりとした絶望が浮かんでいた。
ヴァルケンから逃げ切れたと思った瞬間、待ち受けていたのが、伏兵だと知ったのだ。
そして、その伏兵は情けをかけない。
全員が、無言で弓を引く。
一射、二射。
間を置かず、何度も矢が放たれる。
こちらは本隊に比べて圧倒的に少数だ。
だが――心が折れている相手にとって、俺たちは高すぎる壁だった。
何人かは、必死に矢を掻い潜り、こちらへ近づこうとする。
だが、その瞬間。
オズワルとレナードが、迷いなく前へ出た。
剣が閃き、槍が突き出される。
接近戦に持ち込ませない。その間も、俺たちは矢を射続けた。
不思議なほど、矢は当たった。
最初は、連合兵に対して強い憎しみを抱いていた。
だが、ここまで一方的な状況になると正直、少しだけ哀れに思ってしまう。
それでもこいつらを逃がしたら、どうなるか分からない。
連合本部へ逃げ延びてしまい仲間を集め、再び牙を剥くかもしれない。
この戦闘が、再び起きる可能性が高くなる。
エドリックは感情を押し殺した。
恐怖に染まった連合兵へ、もう一度、矢を向ける。迷いを切り捨て、弓を引く。
ここは、退路だ。
そして俺たちが、その退路を閉ざす役目だった。
矢は、再び放たれる。
***
戦闘は、それほど長くは続かなかった。
こちらにくる兵士に向けてどんどん矢を撃ったため、矢筒の中身が空になるのは思っていたよりも早かった。しかし手は止めなかった。
投げナイフ。手斧。そして落ちている石。
投擲できるものは、すべて投げ尽くす。
生き残るために。そして逃がさないために。
やがて、動く敵兵はいなくなった。
俺たちの前には、死体が並んでいる。
数える必要はなかったが、ざっと見て三十人ほど。
奇襲小隊は六人。
他の部隊を合わせても、こちらは十五人ほどだ。
数だけ見れば、不利だったはずだ。
だが、相手は命からがら逃げてきた兵士たちだった。
それに一斉に来たわけではないし、戦意も、統率も、すでに失われていた。
その時だった。
ヴァルケンの方角から、低く腹に響く金属音が鳴り渡る。
ゴォン……ゴォン……
遠くまで引きずるようなその音は、戦闘の終わりを告げる合図だった。
それを聞いた瞬間、俺とトマ、ダリルは思わず息を吐いた。
肩の力が、わずかに抜ける。
だが――
「まだ油断するな!」
鋭い声が、即座に飛んできた。
オズワルだった。
「倒れてる奴らの中に、まだ意識がある奴がいるかもしれねぇ!気を抜くのは確認してからだ!」
その一言で、俺たち三人は我に返った。
「了解!」
声を揃えて返事をし、気を引き締め直す。
視線を戻すと、レナードや他の部隊はすでに動いていた。
倒れた兵士一人ひとりに近づき、無言で剣や槍を突き刺していく。
ためらいはない。確実な止めだ。
オズワルも、同じように槍を突き刺しだした。そしてこちらに向かって叫ぶ。
「お前たちは周囲を確認しろ!こっちに来る敵兵がいたら攻撃しろ!降伏してても関係ねぇ!最後まで絶対に油断するな!」
「了解!」
俺たちは、再び大きく返事をする。
血の匂いが漂う中、俺たちは武器を構えたまま、周囲へと視線を走らせだした。
敵兵とはいえ――完全に戦意を失い、逃げることしか考えていなかった者たちを倒したという事実が、胸に残る。
嫌な気持ちになる。それは当然で、たぶん一生残る。
だからこそ、その感覚は鈍らせてはいけない。
そうでなければ、何か大切なものまで失ってしまう気がした。
そんなことを考えていると、レナードは他の部隊の指揮官たちと話し始め、オズワルだけがこちらへ戻ってきた。
「ここでの戦闘は終了だ。武器を下ろせ」
短く、はっきりとした声だった。全員が警戒態勢を解く。
「数は二十八人。全員の死亡を確認した。レナードが戻り次第、ヴァルケンへ移動する」
「了解!」
全員が即座に返事をする。
その直後、ミロが確認のため声をかける。
「オズワル。武器の回収はどうする?」
オズワルは、倒れている兵士たちへ視線を向け、少しだけ考える。
「……そうだな。使えそうな物は回収しておこう。何が起きるか分からねぇし、武器を無駄にするのはもったいねぇ。回収作業に入るぞ」
そう言って、全員に指示を出す。
恐怖に歪んだ連合兵の顔を、できるだけ見ないようにしながら、刺さった矢や投げナイフを一本ずつ引き抜いていく。矢を抜くたび、手や袖が血で汚れる。
だが、気にしている暇はない。
(……今回も、こんなに殺してしまった……ごめんなさい)
心の中で謝罪する。
その言葉が、誰に向けられたものなのかは、自分でもはっきりしなかった。
連合兵に対してなのか。それとも、自分自身に対してなのか。
あるいは――もう戻らない何かに向けて、なのか。
しばらくして、他の部隊との話し合いを終えたレナードが、こちらへ戻ってきた。
「……回収が終わり次第、ヴァルケンへ向かう。逃走兵の確認と、第一斥候部隊への報告は他の部隊が向かった」
全員が頷き、再び回収作業に戻った。
完全勝利――そう言ってしまっていい戦果だ。
それでも、誰一人として喜びを口にする者はいなかった。
胸の奥に残る、言葉にできない澱を抱えたまま、作業だけが淡々と続いていく。
戦いは終わった。
だが罪の重さは、まだ誰の肩からも下りていなかった。




